当所之事、今度被遂御糺明候処、曇華院殿様*1御理運*2ニ付て、諸入組*3共ニ一円*4ニ(闕字)御寺様へ可被仰付之由、無是非*5候、一切許容あるへからす候、若何かと候者、交名*6を書付、注進可申候、きと*7可申届候、為其意得申候*8、恐々謹言、
夕庵*9
三月廿八日*10 尓伝(花押)
秀吉(花押)
大住庄
名主御百姓
同小作中
「豊臣秀吉文書集 一」21号文書、9頁
(書き下し文)
当所のこと、このたび御糺明を遂げられ候ところ、曇華院殿様御理運について、諸入組ともに一円に御寺様へ仰せ付けらるべきのよし、是非なく候、一切許容あるべからず候、もし何かとそうらわば、交名を書き付け、注進申すべく候、きっと申し届くべく候、その意を得させ申し候、恐々謹言、
(大意)
大住庄のことは、このたび信長様が御詮議され、曇華院様の主張が裏付けられたので、地理的に入り組んでいるところもともに、一円支配とする旨命じたとのこと、異議は一切認めない。もし何かと不満を申したならば、その者の名前を書き出し、必ず報告しなさい。よく心得るように。
前回読んだ曇華院領山城国綴喜郡大住庄の相論に関する文書である。
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信長の朱印状が出されたのでその旨よく心得るよう、明智光秀、丹羽長秀、中川清秀、木下秀吉4名による連署状が発せられた6日後、本文書が充所に名主百姓のみならず「下作職」を持つと思われる「小作中」も書き加えられている点が興味深い。
「是非なく候、一切許容あるべからず候、もし何かとそうらわば、交名を書き付け、注進申すべく候」とあるように、在地では信長が曇華院の領地であると裁定したことについて、下層の農民まで不満が収まらなかったようである。それだけ、「小作」人の存在感が増してきたもいえる。