天明改元の始に、或人眉を顰て、諺に天命*1に盛ると云事有り*2、此年号の間に、何ぞ盛る*3大事*4有らんと囁しが、果して千とせ*5経る繁栄の平安城*6、まさに尽て*7新都となんぬ*8、往し*9①明和改元の折からも、八年迄の間は、異なる事も有まじ、明和九に至らば、世人迷惑する事あらんと申せしが、明和九辰年世難数々有て、安永に改られぬ、昔も例なきにあらず、平治改元の時、大宮の左府*10伊道公*11、之を難ぜられて*12、②平治は平地なり、上下なからんやと宣ひしが、案の如く上下を分ぬ世と成けらし、此伊道公は常に狂語を宣ひて興ぜらるゝ事多かり、其頃阿波*13の大臣と称する人おはしけるを笑ひ給ひて、昔こそきびの大臣はあなれ、今またあはの大臣出たり、後の世には定て稗の大臣、麥*14の大臣など出来ぬべしと興せられぬ、是等唐土の滑稽*15に近し、滑稽は道に非ずして、而も道なる物と云り、③和国にては、和音*16の通ずる処をもて、吉凶おのづから顕はるゝなり、④改元の時諸卿の難陳は、字義*17に寄る許なり、冀くは*18俳諧に長ぜしものを難陳に召加へられなば、此難*19は有べからず、俳諧則滑稽なり、既に軍陳*20には和音の響をもぱら*21用らるゝ事にて、御当家*22国初にも桂の里の桂姫*23、美濃の大柿*24をはじめ、いさゝかの言葉に、吉凶をはからるゝ例不可勝計*25、
底本は国立国会図書館蔵「翁草 校訂 第十七」
下線部①は「明和九年」は「迷惑年」と読めるので、8年までは安心できるが9年になると大事が起きると噂されていた、とある。ただこれは後付けの可能性がある。
②には平治が「平地」に通じ、上下の秩序が崩れると藤原伊通が主張し、実際そうなったとある。
③は日本では「和音」で吉凶を占うことができると述べている。
④では年号を決める難陳に儒学者に加えて、俳諧に通じた者を列席させよ、と述べている。
要するに、俳人である「翁草」の著者、神沢杜口(かんざわとこう)のような者を難陳に加え、日本の古典から年号を決めるべきと主張しているのである。
田沼意次や松平定信のころ、すでにこうした主張が見られたことは興味深い。