小田原の後北条氏を平定した1ヶ月のち、秀吉はこんなことを述べている。
書状之旨、於小田原披見候、出羽奥州其外津軽果迄も百姓等刀武具駈、検地以下被仰付、伊達山形初而足弱共差上、被明御隙候付而、従会津今日当城迄被納御馬候、然者、為迎吉川中務少輔差越候通、悦思食候、猶黒田勘解由可申候也、
八月十八日(秀吉朱印)
羽柴新城侍従とのへ
『大日本古文書・吉川家文書之一』711頁。
(書き下し文)
書状の旨、小田原において披見し候、出羽・奥州・そのほか津軽のはてまでも百姓等刀・武具駈け、検地以下仰せ付けられ、伊達・山形初めて足弱ども差し上げ、お隙を明けられ候ついて、会津より今日当城まで御馬納められ候、しからば、迎えとして吉川中務少輔差し越し候とおり、悦ばしく思し食し候、なお黒田勘解由申すべく候也、
*足弱:足軽
*当城:大日本古文書編纂者は駿府城か、としている。
*吉川中務少輔:編纂者は吉川経忠としている。
*黒田勘解由:黒田孝高
*羽柴新城侍従:吉川広家
「出羽奥州其外津軽果迄も百姓等刀武具駈、検地以下被仰付」とあり、検地などの支配領域の北限が津軽だったことがわかる。
北海道で稲作が試みられるのは1世紀後のことなのだが(註)、海産物や毛皮をはじめとするゆたかな資源にめぐまれた北海道がなぜ度外視されたのか興味は尽きない。
(註)
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/30037/1/tsusetu_p777-788.pdf
https://www.library.pref.hokkaido.jp/web/publish/qulnh000000006zl-att/vmlvna0000002967.pdf