日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年10月27日某宛豊臣秀吉朱印状

今回はかなりの長文であるが、秀吉が九州で直面していた諸勢力による「反乱」を俯瞰できるものなので全文掲げておきたい。充所を欠いている理由として①裁断されているなど物理的・外的原因による、②朱印を押捺したが充所を記さずにそのまま発せられることがなかったなど文書発給手続き上の原因による、③そのほかの理由など様々考えられるが、原本の写真版が見つからなかったので重要であるがここでは措く。

 

 

 去十四日之書状、今日廿七於大坂加披見候、

 

一①、至南関*1長〻令在陣、有動*2付城*3へ兵粮・玉薬等指籠、立花*4・高橋*5在番丈夫申付、隈本へも通路輙*6之由、雖不始于今儀候、粉骨段被感思召候事、

 

一②、豊前内城井*7・野仲*8・山田((種賢/元房))一揆令蜂起候之処、黒田勘解由父子*9懸付、数人討取由被申越候、尤候事、

 

一③、岩石*10へ一揆少〻取上候由候、定指儀在之間敷と察被思召候、此式之儀ニ上方人数被差遣候へ者、毛利右馬頭*11外聞も如何候条、輝元*12人数被相揃、無越度*13様行肝要候、

 

一④、厳島*14へ寄進之八木借候て、兵粮ニ出候由尤候、然者上方人数ニも不及之由、書中之旨被聞召候、弥兵粮入儀候者、重借可申候間、可被申越候事、

 

一⑤、肥後・豊前・肥前一揆起候付、国侍・牢人共古城*15へ取上*16在之由、切〻被申越候、然大敵にてあらす候条、一揆原・其外国〻牢人原之儀可被追払儀者、可安儀候間、右馬頭悉分国*17之人数を不残召連於被越者*18、何之一揆もにゑ入*19可申候哉、雖太儀候、外聞ニ者不相替物候間、はか行*20候様ニ成敗之儀可然候事、

 

一⑥、当年中ハ無余日、向寒天*21、此方ゟ遣候人数ハ痛入((困る、困難なことと感じる))候条、明春*22十五日より内ニ、御人数并始大和大納言*23被仰付、可被遣候間、為何*24一揆指起候共不苦事、

 

一⑦、輝元・隆景両人才覚ニも不成、国〻ニ被仰付被置候者共、及迷惑候付ハ、当年中ニも御自身被御出馬*25、悉可被仰付候、一揆原之事候間、不被出御馬、二万三万被遣候ても、なて切*26之儀者可安と被思召候へ共、当年何にも長陣被仰付、痛被思召候条、各人数同前御骨をおらせられ、被出御馬候へハ、諸軍勢及迷惑間敷*27候間、さて右之分被思召候、此由輝元・隆景*28両人へも可被申伝候、雖為寒天之刻、御陣触*29にも及間敷候之条、其方一左右次第*30可被出御馬候、其方事打続辛労候、尚追〻可被仰由候也、

 

  十月廿七日*31 (朱印)

 

 (充所欠)

 

(三、2376号)

 

 

(書き下し文)

 

 去る十四日の書状、今日廿七大坂において披見を加え候、

 

一①、南関にいたり長〻在陣せしめ、有動付城へ兵粮・玉薬など指し籠め、立花・高橋在番丈夫申し付け、隈本へも通路たちまちのよし、今に始まらざる儀に候といえども、粉骨の段感じ思し召され候こと、

 

一②、豊前内城井・野仲・山田一揆蜂起せしめ候のところ、黒田勘解由父子懸け付け、数人討ち取るよし申し越され候、もっともに候こと、

 

一③、岩石へ一揆少〻取り上り候よしに候、定めて指したる儀これあるまじくと察し思し召され候、これしきの儀に上方人数差し遣わされそうらえば、毛利右馬頭外聞もいかがに候条、輝元人数相揃えられ、越度なきようてだて肝要に候、

 

一④、厳島へ寄進の八木借り候て、兵粮に出し候よしもっともに候、しからば上方人数にも及ざるのよし、書中の旨聞し召され候、いよいよ兵粮入る儀にそうらわば、かさねて借り申すべく候あいだ、申し越さるべく候こと、

 

一⑤、肥後・豊前・肥前一揆起こり候について、国侍・牢人ども古城へ取り上りこれあるよし、切〻申し越され候、しかりて大敵にてあらず候条、一揆原・そのほか国〻牢人原の儀追い払らるべき儀は、安んずべき儀に候あいだ、右馬頭ことごとく分国の人数を残らず召し連れ越さるにおいては、いずれの一揆もにえいり申すべく候か、太儀に候といえども、外聞には相替らざるものに候あいだ、捗行き候ように成敗の儀然るべく候こと、

 

一⑥、当年中は余日なく、寒天に向かい、此方より遣わし候人数は痛み入り候条、明春十五日よりうちに、御人数ならびに大和大納言をはじめ仰せ付けられ、遣わさるべく候あいだ、なんすれぞ一揆指し起こり候とも苦しからざること、

 

一⑦、輝元・隆景両人才覚にも成らず、国〻に仰せ付けられ置かれ候者ども、迷惑に及び候については、当年中にも御自身御出馬なされ、ことごとく仰せ付けらるべく候、一揆原のことに候あいだ、御馬出されず、二万三万遣わされ候ても、撫で切りの儀は安んずべくと思し召されそうらえども、当年何にも長陣仰せ付けられ、痛み思し召され候条、おのおの人数同前御骨を折らせられ、御馬出されそうらえば、諸軍勢迷惑に及ぶまじく候あいだ、さて右の分思し召され候、このよし輝元・隆景両人へも申し伝えらるべく候、寒天の刻たりといえども、御陣触にも及ぶまじく候の条、その方一左右次第御馬出さるべく候、その方こと打ち続く辛労に候、なお追〻仰せらるべくよしに候なり、

 

(大意)

 

 先日十四日付の書状、今日廿七日大坂にて拝見しました。

 

一①、肥後南関での長期にわたる在陣、城村城へ兵粮・弾薬を貯え、立花宗茂・高橋種元に在番を命じ、熊本への通路もすぐにできたとのこと。今に始まったことではありませんが、粉骨のいたりと思います。

 

一②、豊前の城井・野仲・山田が蜂起したところ、黒田孝高・長政父子が駆け付け、数人討ち取ったと報告したこと、もっともなことです。

 

一③、岩石城へ一揆勢が少々籠城したとのこと、大したことではないと思います。これしきのことで上方の軍勢を派遣すれば、毛利輝元の外聞にも関わるでしょうから、輝元が軍勢を率いて落ち度のないようにすることが大切です。

 

一④、厳島へ寄進した米を借りて、兵粮に充当することはもっともなことです。したがって上方から派兵するに及ばぬとの趣旨聞き届けました。いよいよ兵粮が必要となれば、かさねて借りることになるでしょうから、こちらへ報告するようにしてください。

 

一⑤、肥後・豊前・肥前一揆起こり候について、国侍・牢人ども古城へ立て籠もったと、たびたび報告がありました。しかしながら大敵ではないので、一揆勢やその他の国々の牢人たちを追い払うことはたやすいことです。輝元が分国の人数を残らず招集すれば、どのような一揆であろうとも意気消沈するでしょうから、難儀なことですが外聞に替えられるものではありません。仕置が捗るように一揆勢を成敗することは当然です。

 

一⑥、今年はもう残り少なくなりましたし、寒さも厳しくなります。こちらから軍勢を派遣するには困難ですので、明年正月十五日より前に、秀吉軍ならびに秀長をはじめとする諸大名に派兵を命じ、派遣させますので、いかなる一揆が起きようと捻り潰してやるだけのことです。

 

一⑦、輝元・隆景両人の工夫にもかかわらず、諸国に知行を充て行われた者たちが困窮していることについては、当年中にも秀吉自身が出馬し、ことごとく統治することになるでしょう。あんな一揆勢のことですから、秀吉が出馬せずとも二万三万の軍勢を派遣しただけでも殲滅させることはたやすく思いますが、当年は長陣を命じられ、さぞかし苦労されていることと思います。ですから諸大名の軍勢と同様に骨を折り、出馬すれば、諸軍勢が困難に及ぶことはなくなるでしょう。さてこのように思っておりますので、この旨輝元・隆景両人へも必ず申し伝えるように。寒天のころだからといって、陣触するほどのことでもないでしょうから、そなたの注進があり次第出馬することにします。そなたはさぞかし辛労が続いていることでしょう。なお後日命じるつもりです。

 

 

今回は②と⑤を中心に見ていく。

 

②によれば、肥後で国人たちが放棄したのに乗じて、肥前では西郷信尚が伊佐早の高城を奪還し、豊前では宇都宮氏の流れをくむ名門の城井鎮房らが、島津攻めで秀吉の軍門に降ったものの、豊前に入部してきた新領主黒田氏に反旗を翻した。このときの九州北部の状況は下図の通りである。

 

Fig.1 天正15年肥前・肥後・豊前状況図

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                     『新世紀日本地図』三省堂、1930年より作成

 

城井氏の拠点である豊前国築城郡城井谷についてはこちらで疑似体験ができる。とくに城井氏館跡は中世国人が土地に根ざしていたことを垣間見ることができ貴重である。

chikujo-rekishi.jphttp://chikujo-rekishi.jp/category/kiidani/

 

城井氏は城井川沿いに形成された城井谷各所に出城を作り、谷全体を要塞化し、さらに他の国人領主たちも蜂起するなど黒田氏は苦境に立たされることになる。

Fig.2 豊前国馬ヶ岳城と城井谷

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https://www.town.chikujo.fukuoka.jp/s047/010/110/020/070/1.pdf より作成

ところで、豊前は現在北部6郡が福岡県4郡、南部2郡が大分県となっているのでやや複雑である。簡単に図示してみた。

Fig.3 豊前国と福岡県・大分県

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                 「豊前国」『国史大辞典』より作成

Fig.4 元禄14年豊前国上毛郡小祝村

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https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/4062555100/4062555100200030/mp010001

Fig.5 1927年大分県下毛郡中津町小祝

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               『下毛郡史』1927年所収「大分県下毛郡略図」より作成

小祝は山国川の中州にあったため、小倉領か中津領か長期にわたって帰属が争われた。1882年上毛郡高浜村から下毛郡中津町へ編入され、同時に福岡県から大分県管轄となり現在の県境が確定した。

 

閑話休題、⑤によれば「国侍」や「牢人」たちが陸続と破却したはずの「古城」に集結しつつあるという。これは豊臣政権への武力による抵抗であって、とうてい容認できるものではない。「一揆原」、「牢人原」の「原」*32とは侮蔑的な表現で現代の「やつら」、「連中」といったような意味であるが、それだけ秀吉の怒りが尋常でなかったことを物語っている。九州仕置を済ませた直後に同時多発的に一揆が起きたわけであるから無理からぬことであろう。

 

一方でこうした「一揆原」や「牢人原」がなぜ秀吉に武力で敵対し籠城するのか、牢人たちがなぜ大量に発生するのかは重要な問題であろう。また自発的に籠城した者、強制的に籠城させられた者など籠城した勢力にも老若男女おり、必ずしも一枚岩ではなかったろう。むろん攻める側がそのような事情をくみ取るわけではない。「撫で切り」や「乱取」といった、「英雄譚」ではすまされない過酷な世界が待ち受けていたことは想像に難くない。
 

秀吉は当初九州仕置を妥協的・漸進的に行うとの方針を採っていたが、肥後国人の蜂起により「五畿内同前」とするドラスティックな政策へ方向転換した。佐々成政はパンドラの箱を開けてしまったわけである。もっともそれを機に中世的土豪勢力を一掃し、九州の近世化を加速させ、豊臣政権の権力集中に結果的には大いに貢献したのだが。

 

*1:肥後国

*2:兼元。隈部親泰の重臣

*3:肥後城村城

*4:宗茂

*5:直次

*6:

*7:鎮房

*8:鎮兼

*9:孝高・長政

*10:豊前国

*11:輝元

*12:毛利

*13:「大日本史料」天正3年1月1日条「吉川家祖先勲功覚書上」に「越度」を戦死の意味で用いている例が見える。高木昭作「乱世」参照

*14:安芸国

*15:破却した城

*16:トリアガリ。のぼること

*17:輝元領国全土から

*18:輝元の知行石高限度いっぱいの軍役をつとめれば

*19:「にえ入る」は陥没する、めり込むの意・ここでは「どのような一揆であろうとその勢いをへこませる=挫く」の意

*20:「捗が行く」で物事が進捗するの意。「歯痒い」=物事がうまくいかなくていらだたしいとは正反対の意味

*21:寒い気候。旧暦10月は冬

*22:翌年正月、旧暦1月は春

*23:豊臣秀長

*24:ナンスレゾ。「どうしてそのようことができるだろうか、いや出来るはずはない」という反語表現

*25:秀吉みずから出馬して

*26:撫で切り・皆殺し。ここでは「一揆の討伐」くらいの意味で、実際に一揆勢を殲滅するかどうかはまた別の問題

*27:秀吉みずから出陣したところで諸軍勢が困惑することはないだろう

*28:小早川

*29:陣触は出陣の命令。ここでは「御」があるので秀吉による陣触

*30:そなたのご一報次第

*31:天正15年

*32:バラ。「輩」「儕」とも

天正15年10月21日安国寺恵瓊宛豊臣秀吉朱印状

 
肥後国侍同*1百姓以下申分於在之者、聞届可遂言上候、被聞召届可被加御下知*2候也、
 
  十月廿一日*3(朱印)
 
       安国寺*4
 
(三、2363号)
 
(書き下し文)
 
肥後国侍、同じく百姓以下申し分これあるにおいては、聞き届け言上を遂ぐべく候、聞し召し届けられ御下知を加えらるべく候なり、
 
(大意)
 
肥後国人一揆に加わっている侍や百姓たちに言い分があるのなら、よく聞きこちらへ報告するように。よく話を聞いた上で判断を下すものである。
 

 

秀吉はこの時点でも肥後の「侍」や「百姓」たちに言い分があるのならば、聞き届けた上で下知を下すと恵瓊に伝えている。武力で殲滅しようとすれば次のような代償を負うことになると考えたからであろう。

 

  1. 武器弾薬も調達せねばならないし、なにより味方の将兵を失うリスクが大きいためである(物的・人的資源の損失)。
  2. 敵兵を殲滅すれば耕作する労働力を失い、田畠は荒廃する。百姓を原則移住させない豊臣政権の方針から、他国の余剰労働力に期待することはできず、荒蕪地として放置することになってしまう。それでは家臣への知行宛行はできなくなるし、蔵入地もおけなくなる(耕作・開発可能な土地=政権基盤の損失)。
  3. 訴訟ルートを備えておくことで「紛争の調停者」となることはできるが、武力制圧のみでは「公儀」を称することはむずかしくなる(公的権力の私的権力化)。

 

秀吉が九州制圧に乗り出した口実を再確認しておこう。

 

 

関東は残らず奥州まで綸命*5に任され、天下静謐のところ、九州のこと今に鉾楯*6の儀、然るべからず候条国郡境目相論、互いに存分の儀聞し召し届けられ、おって仰せ出さるべく候、まず敵味方とも双方弓箭を相止むべき旨、叡慮*7に候

 
(二、1640号)
 

天正13年10月2日島津義久宛豊臣秀吉判物 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

 

 

天皇の命を受けて関東や奥羽まで「天下静謐」であるのに、九州ではいまだに国郡境目相論を武力で解決しようとしていてよろしくない、という趣旨である。この文言はもちろん秀吉の圧倒的軍事力を背景にしたもので、それを装うための粉飾に満ちあふれ、「関東は残らず奥州まで」にいたっては見え透いた虚言であることはいうまでもない*8。しかしそうした粉飾を施さねばならないという点は重要である。

 

「私的な」武力に「公的な」装いを凝らして公的権力として立ち現れるというのは、秀吉に限らず古今東西普遍的に見られる現象である。

 

*1:肥後国

*2:秀吉の下知

*3:天正15年

*4:恵瓊

*5:天皇の命

*6:「ほこ」と「たて」、つまり戦争

*7:天皇の意思

*8:一次史料である文書(発給人・受給人のあるモンジョ)にも必ずこうしたレトリックが含まれているので、額面通り受け取ることはしない

天正15年10月16日野々口五兵衛宛豊臣秀吉朱印状

 

     丹波所〻*1そま*2の事

一、拾人         桑田郡    へちゐん*3

一、拾人         同      ほそかう*4

一、弐拾人        同      のゝむら*5

一、五人         船井郡    ほんめん*6

一、拾人         多紀郡    むらくも*7

一、三人         氷上郡    かとのむら*8

一、三人         同      かいはら*9

一、五人         同      くげ*10

   合六十六人

右諸役令免除、用次第可召仕者也

  天正十五年十月十六日(朱印)

            野々口五兵衛とのへ*11  

(三、2361号)

 

(書き下し文)

 

   丹波所〻杣のこと

一、拾人         桑田郡    別院村

一、拾人         同      細川村

一、弐拾人        同      野々村

一、五人         船井郡    本梅村

一、拾人         多紀郡    村雲村

一、三人         氷上郡    葛野村

一、三人         同      柏原村

一、五人         同      久下村

   合六十六人

右諸役免除せしめ、用次第召し仕うべきものなり

 

(大意)

 

  丹波国内に散在する杣に関する掟

一、10人       桑田郡別院村

(中略)

合計66人

右について諸役を免除するので、用向きがあれば使役すること

 

 

 

Fig.1 丹波国桑田・船井・多紀・氷上4郡杣分布図(元禄国絵図)

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https://www.digital.archives.go.jp/api/iiif/001891937/manifest.json より作成。上は南

Fig.2 丹波国桑田・船井・多紀・氷上4郡杣分布図(迅速測図)

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                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

下線部の「用次第召し使うべき」ことを「用がある範囲内に限定して使役せよ」ととるか、「好きなだけ使役して構わない」ととるかで意味は相当変わる。野々口がこれら杣の領主なのか代官なのか本文書のみから判断できないからである。当記事では「諸役を免除した66人について、用がある範囲で限定的に使役せよ」という意味に解釈した*12。「際限なく使役しても構わない」という意味だと、わざわざ秀吉が朱印状を発するまでもなく、またその他の秀吉の方針と反するためでもある。

 

図1に見えるように、このときの「村」は1世紀後の元禄期に作成された国絵図の数ヶ村規模に当たる。ひとつの「村」からいくつもの村が分かれていく、そういう過渡期でもあった。「村」とは行政単位でもあり地名*13でもあるが、生活する場でもあり団体でもあったのだ。

 

京都に近い丹波には平安京造営のための桑田郡山国杣、西大寺領船井郡船坂杣など朝廷や権門勢家などによる杣が置かれた。森林はいうまでもなく建築・土木・薪炭・軍事などあらゆる分野に資源を提供し、また鉄砲水などを防ぐ保水機能も併せ持つ生活の基盤であったため、古くから争いの種になった。開墾や乱伐、それにともなう災害を繰り返してもいる。

 

Fig.3 南桑田郡亀岡町=丹波亀山付近の砂防工事

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京都府誌. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション

1934年の保護林配置モデル図を掲げておく。

Fig.4 保護林配置仮想図

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日本山林史. 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

中心都市の北東=艮(うしとら)が鬼門に当たるため、魔除けの林を設置しているところは伝統的な都市計画といえる。著者自身は宗教的観点ではなく、衛生的側面から保護の必要性を説いているのだが。国家総動員体制から第1次石油危機までの時期には受け容れられがたい、「牧歌的な」構想だったのかもしれない。

 

 

*1:丹波国内に点在している

*2:杣。杣とは建築資材となる材木を切り出す山=杣山、あるいはそれを伐り出す林業従事者=「杣工」、「木樵」、「杣人」の総称。ここでは後者

*3:別院

*4:細川

*5:野々村

*6:本梅=ホンメ

*7:村雲

*8:葛野村

*9:柏原

*10:久下

*11:秀吉の馬廻、生没年未詳。翌天正16年8月27日寺沢広高宛朱印状「丹波国筏之事」(2598号)にも見えるので、丹波の杣山を管理していたものと思われる

*12:「御用」ではないので、野々口の用向きのことに限定してよさそうである

*13:地名は究極的には経度・緯度の組み合わせで表せるというところに落ち着くのだろうか

天正15年10月14日宗義調・宗義智宛豊臣秀吉朱印状

 

態染筆候、肥後*1国一揆等少〻令蜂起付為可成敗、小早川左衛門佐*2・黒田勘解由*3森壱岐*4被差遣候、毛利右馬頭*5も自身罷立候、猶様子為可被聞召、小西摂津守*6被差遣候、依一左右御人数之儀、大和大納言*7・江州中納言*8・備前宰相*9、其外四国之者共を始、出陣之儀可被仰付候、九州之儀者五畿内同前ニ被思召候条、何之道*10ニも堅被仰付候ハて不叶儀候、殿下*11も来春者至博多被成御動座、唐・南蛮*12・高麗国迄可被仰付候、然者高麗国之儀、以最前筋目*13急度相究可申越候、猶小西可申候也、

  十月十四日*14(朱印)

       宗讃岐守とのへ*15

       宗対馬守とのへ*16

(三、2355号)

 

(書き下し文)

 

わざと染筆候、肥後(ママ)国一揆など少〻蜂起せしむるについて成敗すべきため、小早川左衛門佐・黒田勘解由・森壱岐差し遣わされ候、毛利右馬頭も自身罷り立ち候、なお様子聞し召さるべきため、小西摂津守差し遣わされ候、一左右により御人数の儀、大和大納言・江州中納言・備前宰相、そのほか四国の者どもをはじめ、出陣の儀仰せ付けらるべく候、九州の儀は五畿内同前に思し召され候条、いずれの道にも堅く仰せ付けられそうらわで叶わざる儀に候、殿下も来春は博多にいたり御動座なられ、唐・南蛮・高麗国まで仰せ付けらるべく候、しからば高麗国の儀、最前筋目をもってきっと相究むべく申し越すべく候、なお小西申すべく候なり、

 

(大意)

 

書面をもって申し入れます。肥前国一揆などを成敗するため隆景・孝高・吉成を派兵しました。輝元もみずから出馬しました。なお現地の様子を探るため行長を派遣しました。報告があり次第秀長・秀次・秀家やその他四国の者たちに出陣を命じるつもりです。九州についても五畿内と同様に統治すべきと考えます。すべての道を厳重に統治せねばならないのですから、私自身も来春には博多へ移り「唐・南蛮・高麗国」まで支配するつもりです。したがって高麗へのことは先日文書にしたためたとおり遅滞なく行うように。詳しくは使者の行長が申し上げます。

 

対馬は博多より釜山により近い。

Fig.1 博多・対馬・釜山位置関係図

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『大日本海陸里程全圖』より作成 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081794

また上県郡と下県郡の二島からなる国であるが、絶海の孤島で山が海岸まで迫っているまるでフィヨルドのような地形である。

Fig.2 対馬衛星写真(地形図)

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                      Google Mapより作成

Fig.3 天保対馬国絵図(1838年)

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国立公文書館蔵「天保対馬国絵図」

https://www.digital.archives.go.jp/api/iiif/001892024/manifest.json

 

このとき秀吉は肥後の国人一揆に加え、肥前でも一揆が起きたので二正面作戦を余儀なくされた。それでも飽き足らないのか、大陸出兵を実現するため対馬国守護の宗氏に朝鮮国王来朝の手筈を調えるよう促したのである。

 

 

主従性的支配と統治権的支配

前近代社会においては人的・私的な主従性的支配領域的・公的な統治権的支配とがあざなえる縄のごとく一体化しており、ある場面においては主従性的関係が、またある場面では統治権的関係が表われることがある。いずれも垂直的な上下関係として見えるため、「現代の上司と部下にあたる」という安直な喩えをしばしば用いがちであるが非歴史的で適切とはいえない。

 

土地を充行うこと=「御恩」に対してそれに応じた「奉公」を務める関係が主従関係であり、これを西洋史で「封建制」と呼ぶ。「いざ鎌倉」や「参勤交代」は土地を与えられた「御恩」に報いる「奉公」=軍役である。「一所懸命の地」と呼ばれるように本貫地や父祖伝来の土地を守るため「命を懸ける」わけである。こうした主従関係は「私的」契約であり、解消することも「相対」(あいたい)次第で可能である。

 

それにたいして領域における紛争の調停者として立ち現れることもある。秀吉は「惣無事」と呼ばれる「私的な喧嘩」を認めない論理を打ち出した。土地境界相論や用水相論など訴訟沙汰が絶えなかった中世(現代の自治体の境界未確定もこれに由来することが多い)では実力行使でこれを回復する自力救済が正当な手段だった。しかし「公儀」としてあらわれる戦国大名など領域的な上級権力はこれらを裁定する「公的な」権力としてあらわれこうした実力行使を「私戦」として禁じていく。こちらの上意下達の関係は主従関係を前提としない。信長や秀吉のいわゆる「天下統一」もこうした自力救済の否定として理解される。

 

何をもって「私的」とするか「公的」とするかの線引きは難しいが、現実に起きた出来事には様々な要素が絡み合っているのでていねいに解きほぐす作業が必要となる。

 

土地は前近代社会においてもっとも重要な生産手段=不動産であり、農耕はもちろん「大地の恵み」と呼ばれるあらゆる資源を土地から得てきた。漁業権や水利権、入会権なども広い意味で土地に対する権利と呼ぶことができる。こうした土地への関与がみずからの領域内で限界に達する*17と領域外へ進出することとなり軋轢が生じる。「縄張り争い」である。こうした資源の争いをみずからの実力で「解決」すべく行われるのが合戦であり、こうした「解決」方法を自力救済と呼ぶ。

 

親権を失った親が実の子どもを連れ去ったり、私刑(=リンチ)を行うなど自力救済は現代社会でもしばしば見られる。

 

*1:肥前

*2:隆景

*3:孝高

*4:毛利吉成

*5:輝元

*6:行長

*7:豊臣秀長

*8:豊臣秀次

*9:宇喜多秀家

*10:「すべての道」つまり五畿七道の意

*11:秀吉

*12:ルソンやジャワなどの東南アジアのこと。スペインやポルトガルを「南蛮」と呼ぶのは彼らがそこに植民地を持っていたため

*13:6月15日両名宛判物にある「高麗国王来朝」の手筈を調えること。2238号

*14:天正15年

*15:義調

*16:義智

*17:開発しつくしてしまうなど

天正15年10月14日島津義久宛豊臣秀吉知行充行状

 

為在京之堪忍*1*2、於上方壱万石宛行訖、所付*3儀者来春可被仰付候*4、当年者以物成*5半納分*6、八木*7五千石被下候条、各支配在之、堪忍方相続*8候様可然候也、

  天正十五

    十月十四日(花押)

       島津修理大夫*9

            とのへ

(三、2354号)

 

(書き下し文)

 

在京の堪忍分として、上方において壱万石宛行いおわんぬ、所付の儀は来春仰せ付けらるべく候、当年は物成半納分をもって、八木五千石下され候条、おのおの支配これあるべく、堪忍方相続候よう然るべく候なり、

 

(大意)

 

在京中の賄料として上方にて1万石充行ったところである。所付などは来年春(1~3月)に申し付ける。今年は年貢「半納分」すなわち5000石を米にて遣わすのでしっかり管理しなさい。

 

 

Fig.1 摂津国能勢郡・豊島郡

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                「摂津国略図」『国史大辞典』より作成

Fig.2 播磨国神東郡・揖東郡・揖西郡

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                 「播磨国略図」『国史大辞典』より作成

 

本文書は、大名が上洛している間の経費を賄うための土地=在京賄料を上方にて与えるという知行充行状である。本文にあるようにこの年具体的な土地を与えず、収公量に相当する米5000石を現物にて秀吉が支給している。

 

これはあくまでも一時的な措置で翌年実際に郷村が充行われている。これらの土地=「一所懸命の地」を自身の力で切り盛りするのが本来の武家の姿である。

 

前回加藤清正らに宛てた米切手は以下のように解釈すべきだったようなので改めたい。

 

Fig.3  秀吉から義久への米の流れ

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*1:必要経費

*2:上洛している間の経費を賄うための領知=在京賄料

*3:国郡郷村名を記した知行目録

*4:翌16年7月5日摂津能勢郡・豊島郡、播磨揖東郡・揖西郡・神東郡から1万石与えられた。島津家文書442~443号。図1,2参照

*5:年貢

*6:ここでは5割のことと解釈した

*7:

*8:生活を維持させること

*9:義久