日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(3)

 

、其方儀、此方ヘ越候ヘト申者、右一書懇ニ可申付ト思召被召寄候得トモ、道〻用心*1以下無心許被思召、又此方ヘ越候ハ、日数可行*2候、下〻之者モ草臥*3候ヘハ如何候間、無用*4之事、

 

、毛利右馬頭*5・小早川左衛門佐*6・吉川治部大*7輔両三人ハ、人数二三千ニテ此方へ*8被越候、惣人数*9造作ニ候間*10、無用之事、并黒田勘解由ハ馬乗*11四五騎ニテ、右馬頭可為同道事、

 

(書き下し文)

 

、そのほう儀、こちらへ越しそうらえと申すは、右一書懇ろに申し付くべきと思し召し召し寄せられそうらえども、道〻用心以下心許なく思し召めされ、またこちらヘ越しそうらわば、日数行くべく候、下〻の者も草臥れそうらえば如何に候あいだ、無用のこと、

 

、毛利右馬頭・小早川左衛門佐・吉川治部少輔両三人は、人数二三千にてこちらへ越さるべく候、惣人数造作に候あいだ、無用のこと、ならびに黒田勘解由は馬乗り四五騎にて、右馬頭同道たるべきこと、

 

(大意)

 

一、そなたをこちらへ呼び寄せようとしたのは、この一書の趣旨を徹底させるためであったが、道中の警固に不安もあるうえ、日数もかかるだろう。また「下〻の者」へ負担をしわ寄せするのはどうかと思うのでこちらへ出向くことはない。

 

一、輝元・隆景・元長三名は、軍勢2~3,000人を引き連れて来るに違いないだろう。全軍でこちらへ来るのはコストがかかるのでそれには及ばない。孝高が騎馬武者4~5騎のみで輝元のお供をしなさい。

 

 

 

このとき、秀吉は薩摩川内の泰平寺に、秀長や孝高、輝元らは日向諸県郡の野尻にいた。

Fig.1 秀吉、秀長、輝元ら、孝高の位置

 

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                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

‰(パーミル)は千分率。15‰は水平方向に1000メートル移動したとき15メートル上る/下る勾配の坂道。1000‰=45°

  

①には、秀長に九州南部の仕置の趣旨を徹底させることと道中のコスト*12・リスクを秤にかけた上で「来ることはない」との結論にいたった旨記されている。

 

ここで「下々の者」とは誰かが問題になる。ひとつは軍勢の最末端兵士までという解釈、いまひとつは人足に駆り出される百姓までをも含むとする解釈である。秀吉自身どこまで自覚的だったか知りようもないが、闇雲に軍勢を動かす際の「負担」が視野に入っていたことだけは確かである。「負担など知ったことか」といたずらに戦線を拡大する一方の織田信長とは実に対照的である。解釈については隔靴掻痒の感は否めないが断定は避けたい。

 

②も同様に輝元らが全軍で来ることの余分なコストを避けたと解釈できる。

 

このとき秀長や輝元らのもとにいた孝高に、騎馬武者4~5騎を輝元に同道させるよう命じている。これは「可越候」と尊敬の助動詞「被」(らる)を使っている点とともに気になるところである*13。①では秀長に「越候へ」(こちらへ来い)と記しているところから、輝元・隆景・元長に対して秀吉が敬意を払っていたことは明らかである。

 

これらから秀長と輝元らには「格」の差があったと考えられる。図示すると下図のようになる。

 

Fig.2 秀長と輝元・隆景・元長の序列

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主な峠の勾配

碓氷峠:信越本線横川・軽井沢間 おおよそ50‰、アプト式鉄道採用時で最大66.7‰

板谷峠:奥羽本線福島・米沢間 33‰

瀬野八:山陽本線八本松・瀬野間 22.6‰

箱根峠:箱根湯本・芦ノ湖湖畔 54‰

 

*1:あらかじめ警戒して怠らないこと

*2:月日が過ぎ去る

*3:クタビレ

*4:「日葡辞書」には「用いることなし」とある。①無益なこと、②してはならないこと、③用事がないこと。ここでは「天地無用」と同様「してはならない」の意

*5:輝元

*6:隆景

*7:少。元長

*8:可能ではなく必然、当然。「違いない」の意

*9:全軍

*10:手間がかかるので、費用がかかるので

*11:馬を持ち、かつ乗ることを許された武士

*12:costには経費のほかに「人的代償」、「犠牲」という意味がある。この時期の人々にとって兵士を失うことは物的損害程度にすぎなかっただろうが

*13:秀吉は「召寄」=「召し寄せられ」のように自身に尊敬語を用いている

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(2)

 

 

一、去年仙石権兵衛*1置目ヲ破、不届働ヲイタシ、越度ヲ執候刻、長曽我部*2息弥三郎*3ヲ討死サセ、忠節者之事候、為褒美大隅国ヲハ長曽我部宮内少輔*4為加増被下候条、長曽我部居候上、能城ヲ普請申付、国之内ニ置候ハテ不叶城、三モ四モ普請何モ申付、長曽我部ニ可相渡事、

 

一、伊集院右衛門大夫*5、シウ*6之義久義ヲ大切ニ心得、其身ヲオシマス、其方*7陣所ヘ走入、御侘言申上候、敵ニオイテハ義理*8頼母敷者*9ハ可被取立間、大隅之内一郡、薩摩ノ方ヘ相付*10トラスヘク候、其外之郡国之儀者、有次第*11長曽我部ニ一職*12可申付事、

 

(書き下し文)

 

一、去年仙石権兵衛置目を破り、届かざる働きを致し、越度を執り候きざみ、長曽我部息弥三郎を討死にさせ、忠節者のことに候、褒美として大隅国をば長曽我部宮内少輔加増として下され候条、長曽我部居り候上、よき城を普請申し付け、国のうちに置きそうらわで叶わざる城、三つも四つも普請いずれも申し付け、長曽我部に相渡すべきこと、

 

一、伊集院右衛門大夫、主の義久儀を大切に心得え、その身を惜しまず、そのほう陣所ヘ走り入り、御侘言申し上げ候、敵においては義理頼もしき者は取り立てらるべき間、大隅のうち一郡、薩摩の方ヘ相付け取らすべく候、そのほかの郡国の儀は、有り次第長曽我部に一職申し付くべきこと、

 

 

(大意)

 

一、去年仙石久秀が軍令に背き、不届きな行いをしたさい、元親の息信親を討ち死にさせるようなことになり、彼は実に忠節者です。それに報い大隅一国を元親に加増として与えますので、元親が住むにふさわしい城を建てるように命じなさい。国内に置くべき城を三つも四つも好きなだけ建てさせ、元親に与えるように。

 

一、伊集院忠棟は、主人の義久を大切に思い、一命を顧みずにそなたの陣中に駆け込み、降伏の意思を伝えました。敵であっても果たすべき務めを実践している者には目をかけてやらねばならないので、大隅のうち一郡を薩摩の本領に加えて与えなさい。その他の大隅は残らず元親に与えなさい。

 

 

Fig.1 薩摩国薩摩郡伊集院周辺図

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                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

 Fig.2 伊集院忠棟が地頭を務めていた大隅・日向国境付近 

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                   『日本歴史地名大系 宮崎県』より作成

 秀吉は伊集院忠棟を敵ながら「主君に対して義理がたい」として高く評価している。註でも述べたが、この「義理」は「身分や立場にふさわしい道理、務め」という意味で、「ノブレスオブリージュ」にかなり近い。

 

長宗我部元親の息である信親の死に対してもそれに報いようとしている点でこの二ヶ条は共通している。 大隅は忠棟に一郡を、残りを元親に与えよとここで秀長に指示していることになる。

 

*1:久秀

*2:元親

*3:信親

*4:元親

*5:忠棟

*6:

*7:秀長

*8:人間として実践すべき義務、道徳、倫理。今日「義理チョコ」といった場合の「義理」は「社会生活上、意に反しても行わなければならない務め」を意味するのでニュアンスはかなり異なる

*9:頼りになる者

*10:忠棟は薩摩を本貫地とし、大隅鹿屋・高山、日向飫肥の地頭を兼ねていた。下図1、2参照

*11:あるものすべて、忠棟に与えた残りすべての大隅

*12:領域的にまとまった形で、一円的に

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(1)

島津氏降伏後行われた国分の詳細は5月13日秀長宛の朱印状に記されている。日向・大隅・薩摩仕置を秀長に命じたということになる。写が複数伝わっているが原本は散逸している。長いが重要なので少しずつ全文を読んでみたい。

 

  

     覚

 

一、大隅・日向両国之儀者、人質不残請取可申候、自然不渡城於有之者、義久*1・島津兵庫頭*2・島津中務*3両三人相届、右之不渡城可取巻候、城渡ヲハ城主ヲ懇ニイタシ、其在所ニ足弱*4カタツケ*5候時、百姓以下迄之政道堅申付、猥之儀有之者、可為一銭切事

 

一、日向国之儀、大友休庵*6へ出候間、休庵居候テ、能候ハン城*7ヲ相拵、有付*8候様可申付候、*9候ハテ不叶城*10ヲ、日向之内二三モ四モ可然哉、其内之城ヲ一ツ大隅之方へ付テ、城ニ一郡相添、伊藤民部大輔*11ニコレヲ取セ、休庵為与力、合宿サセ可申候、(以下次回)

 

(三、2185~2187号)

 

(書き下し文)

 

     覚

一、大隅・日向両国の儀は、人質残らず請け取り申すべく候、自然渡さざる城これあるにおいては、義久・島津兵庫頭・島津中務両三人に相届け、右の渡さざる城取り巻くべく候、城を渡すをば城主を懇ろにいたし、その在所に足弱片付け候時、百姓以下までの政道堅く申し付け、みだりの儀これあらば、一銭切たるべきこと

 

一、日向国の儀、大友休庵へ出だし候あいだ、休庵居り候て、よくそうらわん城を相拵らえ、有り付き候よう申し付くべく候、立てそうらわで叶わざる城を、日向のうちに三つも四つも然るべきか、そのうちの城をひとつ大隅のほうへ付けて、城に一郡相添え、伊藤民部大輔にこれを取らせ、休庵与力として、合宿させ申すべく候、

 

(大意)

 

    覚書

一、大隅・日向については人質を残らず受け取るようにしなさい。もし万一明け渡さない城があれば、義久・義弘・家久に断った上で、その城を包囲しなさい。城を明け渡す城主には丁重にもてなすように。開城により籠城していた者が帰村する際は百姓以下まできびしく取り締まり、これに背く者は厳罰に処しなさい。

 

一、日向は大友宗麟へ与えるので、宗麟が住んでも大丈夫な城を建て、住み着かせるよう命じなさい。建て直さなければ住めないような城を日向に三ヶ城も四ヶ城もおいてもよいものだろうか。そのうちの大隅に近い城をひとつ建て、それに郡をひとつ与え、伊東祐兵のものとし、彼を宗麟の与力として同じ城に住まわせなさい。

 

Fig. 日向・大隅国境周辺図

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                   『日本歴史地名大系 宮崎県』より作成

日向国諸県郡は明治以降四郡に分割されたあと、一部は大隅国曽於郡に編入されている。

 

Table. 日向国・大隅国曽於郡郡変遷

 

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           「日向国」、「大隅国」(『国史大辞典』)などより作成

 

下線部①は開城で籠城していた者が帰村するなど混乱に乗じて、掠奪などに及ぶ者を厳罰に処するとしたもので、自力救済の否定を意味する。

②は不要な城を破却する意図が見え始めた文言と読める。「不要な」というのはあくまでも秀吉側の論理で、武力放棄などの拠り所になる城を必要最小限に抑えたいということで、逆に地元にとっては戦時の緊急避難先を奪われることを意味する。

 

*1:島津

*2:義弘、義久の弟

*3:佐土原城主家久。6月5日急死

*4:「足弱」は①文字通り健脚でない老人、女性、子ども等を意味する場合、②足軽などの最下級戦闘員を意味する場合がある。ここでは籠城していた両者を含む意味と解した

*5:城外へ出て帰村するなど

*6:宗麟

*7:住んでも問題ないような城

*8:住みつく

*9:

*10:再建せずには住めないような城、朽ち果てた城

*11:伊東祐兵。もと日向国宮崎郡飫肥城主

天正15年5月5日上京/下京惣中宛豊臣秀吉朱印状

 

 

就端午*1之祝詞*2、御帷子*3二并数〻帷*4五十到来、被悦思食候、島津事初居城諸城相渡、捨身命中納言*5陣取*6懸入候条、不被及是非、被成御赦免、薩州千台川*7太平寺*8ニ被立御馬候、猶石田治部少輔*9・木下半介*10可申聞候也、

   五月五日*11(朱印)

       上京 *12

         惣中

 

(三、2178号)

 

為端午之祝儀(以下略)

   

   五月五日(朱印)

       下京 *13

         惣中

(三、2179号)
 
(書き下し文)
 
端午の祝詞について、御帷子二ならびに数〻帷五十到来し、悦び思し食され候、島津のこと居城をはじめ諸城相渡し、身命を捨て中納言陣取へ懸け入り候条、是非に及ばれず、御赦免なされ、薩州千台川太平寺に御馬立てられ候、なお石田治部少輔・木下半介申し聞くべく候なり、
 
 
端午の祝儀として(以下略)
 
 
(大意)
 
端午の祝として帷子二つおよび様々な帳を五十お送り下り、悦びに堪えません。島津は居城をはじめ数々の出城を明け渡し、一命を捨てる覚悟で秀長の陣中へ駆け込んできましたので、一も二もなく赦免しました。薩摩の川内河畔にある泰平寺にて会う予定です。お礼の詳細は、石田三成・木下吉隆が口頭にて申します。
 

 

Fig.1  薩摩国高城郡泰平寺周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

Fig.2 上京と下京、洛中と洛外

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                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

Table. 五節供と西暦月日対応

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註:上表から7月7日が現在の8月にあたり、梅雨が明けているので満天の星空に恵まれていたはずだっただろうことがわかる。天気予報などでは商業的理由からかこの誤解を解こうとしないフシがある。

 

 本文書で注目したいのは充所の「上京/下京惣中」で、端午の節供のために上京・下京の「惣中」が贈答を行っていた。大名などの武家だけでなく「町衆」*14と呼ばれる人々ともこうした贈答慣行が成立していたようだ。さらに三成・吉隆が使者として赴いたことから蔑む態度は見られず、礼を重んじていたこともわかる*15

 

上京・下京には二つの意味がある。地名としてのと、団体名としてのそれである。現在も地名(場所)を指す場合と行政体=地方自治体名を指す場合に区別されるが、ここでは後者の団体名としての「上京/下京」を意味する。文書や財産を管理し経営する主体である。二重の意味が込められていることももちろん多い。

 

ここで「行政体」という用語を用いたが、この行政体は古典的な「自然村/行政村」の図式でいえば自然村に近い。

 

ただし、上京・下京に住む住人全体ではなく、ごく限られた上層のみである点は留意したい*16。都市は口減らしや職や食糧を求めて絶えず人口の流入がある。こうした人々はもちろん数に入らない*17。  

 

*1:陰暦5月5日に行われる五節供のひとつ。下表参照

*2:祝いの言葉

*3:カタビラ、夏用の着物

*4:トバリ、「帳」とも。空間を仕切るための布。「夜のとばりが下りる」という表現に名残を留める程度

*5:豊臣秀長

*6:「陣を構える」のように動詞的に使われることが多いが、ここでは「陣を構えた場所」

*7:川内川

*8:薩摩国高城郡泰平寺。図1参照

*9:三成

*10:吉隆

*11:天正15年

*12:図2参照

*13:図2参照

*14:「マチシュウ」または「チョウシュウ」

*15:もっとも、自身に敬語を使っている点も共通しているが

*16:具体的には町組に対して負担をしている者に限られる

*17:都市人口の増減には出生数から死亡数を引いた「自然増(減)」と人口流入から流出を差し引いた「社会増(減)」の二通りあり、現実にはこれの複雑な組み合わせとなる。前者は家族を営むことが前提であるが、後者は単身者が多い

天正15年5月3日吉川元長宛豊臣秀吉朱印状

 

義昭*1御上事、委細安国寺*2申聞候間、上船之儀、馳走肝要候、猶黒田勘解由*3可申候也、

   五月三日*4(朱印)

     吉川治部少輔とのへ*5

(三、2174号)

(書き下し文)
 
義昭お上りのこと、委細安国寺申し聞け候あいだ、上船の儀、馳走肝要に候、猶黒田勘解由申すべく候なり、
 
(大意)
 
義昭様御上洛の件、詳しく恵瓊に申し含めましたので、乗船についてしっかり手配することが重要です。なお孝高が口頭にて申します。
 
 
 
同文の朱印状が同日小早川隆景宛に発せられている*6。 
 
さて足利義昭であるが、秀吉と島津軍の調停に一役買っている*7
 
Table.1 足利義昭による秀吉・島津間の調停

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この年の3月12日、備中赤坂まで足利義昭が秀吉にまみえるため出向いたらしい。この間の行動を図示すると下記のようになる。

 

Fig. 備中中山から備後赤坂までの行軍

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                   『日本歴史地名大系 岡山県』より作成

「九州御動座記」では義昭は「公方様」として登場する。念のため義昭、織田信長、秀吉の官位を掲げておく。

 

 Table.2 足利義昭・織田信長・豊臣秀吉官位年表

 

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織田信長の場合、加齢にしたがい上昇の度合いが鈍化する鉄道料金遠距離逓減型で、一方の秀吉は加齢にしたがい上昇の速度が加速する逓増型である。両者の中間に位置する足利義昭は抜群の安定度を誇っており、彼こそ「動かざること山の如し」と呼ぶにふさわしい。

 

 

*1:足利

*2:恵瓊

*3:孝高

*4:天正15年

*5:元長

*6:2175号

*7:下表参照