日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年4月20日毛利輝元宛豊臣秀吉朱印状(抄)

 

 

態染筆候、

 

(中略)

 

一、先度之以後、肥後熊本*1事、命を被助、城を請取候、彼地国のかなめ所ニ候間、一両日令逗留、留主居等被仰付宇土*2・熊庄*3之城へ取懸候処、宇土令降参、城相渡候ニ付て、命を助置候、熊庄可成敗と被思召候中に、城を明北*4散候処、百姓おこり*5少〻うちころして首を上候、其外小城之儀不知数、廿ヶ所余明北候事

  

一、八代*6を専ニ敵相拘*7、新納武蔵守*8・伊集院肥前*9・町田出羽*10・島津右馬頭*11・新納右衛門佐*12・稲富新介*13・桂神儀*14介・伊藤右衛門佐*15相籠候間、右之八代にて彼凶徒等可被刎首と思召、宇土城之御とまりより、彼八代へ五十町道*16七里*17之処を一騎かけにさせられ候へは、夜中ニ彼八代を大将分者北落候て、国の奴原*18計候間、追取廻、首を可被刎首と被思召候へ共、御覧候へ者奉公人・町人、其外百姓男女にて*19、五万*20も可有候ものをころさせられへき儀不便*21に被思召、又者国に人なく候へは耕作以下如何ニ被思召、被相助、八代に被成御座候事

(中略)

 

  以上

 

  卯月廿日*22(朱印)

 

     毛利右馬頭とのへ*23

 

(三、2160号)

 

(書き下し文)

 

わざわざ染筆候、

 

(中略)

 

一、先度の以後、肥後熊本のこと、命を助けられ、城を請け取り候、かの地国の要所に候あいだ、一両日逗留せしめ、留主居など仰せ付けられ、宇土・熊庄の城へ取り懸り候ところ、宇土降参せしめ、城相渡し候について、命を助け置き候、熊庄成敗すべきと思し召され候うちに、城を明け北げ散り候ところ、百姓熾り少〻打ち殺して首を上げ候、そのほか小城の儀数を知らず、廿ヶ所余明け北げ候こと

 

一、八代をもっぱらに敵相拘え、新納武蔵守・伊集院肥前・町田出羽・島津右馬頭・新納右衛門佐・稲富新介・桂神儀介・伊藤右衛門佐相籠り候あいだ、右の八代にてかの凶徒など首を刎ねらるべしと思し召し、宇土城のお泊まりより、かの八代へ五十町道七里のところを一騎駆けにさせられそうらえば、夜中にかの八代を大将分は北げ落ち候て、国の奴原ばかり候あいだ、追い取り廻り、首を刎ねらるべしと思し召されそうらえども、ご覧そうらえば奉公人・町人、そのほか百姓男女にて、五万もあるべく候者を殺させられべき儀不便に思し召され、または国に人なくそうらえば耕作以下いかがに思し召され、相助けられ、八代に被成御座なされ候こと

 

(中略)

 

  以上

 

(大意)

 

一筆したためました。

 

(中略)

 

一、先日、肥後熊本城の城兵の命を助け、城を受け取りました。熊本は肥後国の要所ですので二三日滞在し、留守をしっかりと申し付け、宇土と隈庄を攻撃しました。宇土はすぐに降伏し、城を明け渡したので城兵の命は助けました。隈庄も攻め滅ぼそうと思っていた矢先、重立った者たちは敗走し、残された百姓どもが蜂起してきたので何人かを殺して、首を晒してやりました。その他落とした小さな城は数知れず、二十余ほどでしょうか、みな逃げ去りました。

 

一、敵は八代を集中的に守り、新納忠元・伊集院久春・町田久信・島津以久・新納久饒・稲富長辰・桂神祇介・伊藤右衛門佐らが立て籠もっていました。八代で彼らの首を刎ねるべしと考え、宇土の宿所から一騎駆けしたところ、夜陰にまぎれ大将クラスの者たちは逃走し、国の者たちだけが残されていました。追い懸けて首を刎ねるべしとも考えましたが、見てみれば奉公人・町人・そのほか百姓の男女が5万人ほど。連中を殺すのはあまりに不憫であるし、また国に耕す者がいなければ問題なので助け、八代に移りました。

 

 

 Fig. 肥後国熊本・八代周辺図

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

 下線部①では秀吉軍に対して、隈庄城に籠城した島津氏の家臣が逃亡し、残された百姓たちが蜂起し、成敗されたとある。これがのちの肥後国人一揆につながるかどうかは定かではないが、検地は手加減せよとの方針に影響した可能性はあるだろう。百姓たちが武装蜂起したという点は示唆的である。

 

下線部②でも八代の古麓城に籠城した名のある者はみな逃走したようだ。残された者が「奉公人・町人・百姓男女」とあるのが目を引く。秀吉軍の攻撃に対して村ぐるみで籠城していた様子がうかがえる。

 

戦国・織豊期、戦争時百姓たち一般人はどうしていたか、抵抗するか籠城するか、逃散するかといった選択肢しかなかった。戦場では「乱取」と呼ばれる掠奪が日常的に行われており、生け捕りにされれば人身売買の対象となるためである。

 

*1:肥後国飽田郡熊本城、下図参照

*2:同宇土郡

*3:同益城郡

*4:逃げる

*5:熾る・興る。蜂起する

*6:同八代郡古麓城のこと

*7:維持する、食い止める

*8:忠元、島津氏家臣。以下同じ

*9:久春

*10:久信

*11:以久

*12:久饒

*13:長辰

*14:

*15:未詳

*16:「五十町道」は表街道=幹線のような意味らしい

*17:長さの単位としての50町=7里ではなさそうである

*18:「地元の連中」、「島津氏の重立った家臣ではない」の意

*19:16世紀から17世紀にかけて「奉公人・町人・百姓」という用法が見える

*20:このころの日本の人口は1,700万人と推定されている

*21:ふびん

*22:天正15年

*23:輝元

天正15年4月15日龍造寺政家宛豊臣秀吉朱印状

 

急度染筆候、其方者共*1、於熊本*2其外所〻、乱妨狼藉喧嘩仕、猥由聞召候、相背御法度儀候間、余人之儀候者*3、則可被成御成敗候へ共其方之儀候間*4、先被仰聞候、下〻堅可申付候、此上不相届候者、誰〻ニよらす打捨ニ可仕由被仰出候、可成其意候、けに/\*5申付之儀不成候ハヽ、かたより*6候て御跡*7ニ可罷越候、猶戸田民部少輔*8可申候也、

   卯月十五日*9(朱印)

       龍造寺民部大夫[   ]*10

 

(三、2156号)

 

(書き下し文)

 

きっと染筆候、そのほうの者ども、熊本・そのほかの所〻において、乱妨狼藉喧嘩仕り、みだりのよし聞し召し候、御法度にあい背く儀に候あいだ、余人の儀にそうらわば、すなわち御成敗なさるべくそうらえどもそのほうの儀に候あいだ、まず仰せ聞きけられ候、下〻堅く申し付くべく候、このうえ相届かずそうらわば、誰〻によらず打ち捨てに仕るべきよし仰せ出だされ候、その意をなすべく候、げにげに申し付けの儀ならずそうらわば、偏り候て御跡に罷り越すべく候、なお戸田民部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

一筆したためました。そなたの家臣どもが、熊本やその他の郷村において略奪行為や刃傷沙汰を起こし、無政府状態になっていると聞いている。先に出した禁制に背く行為なので、他の者であるならば即刻処罰するところであるが、他ならぬそなたのことであるので、まずはよく言い聞かせ、直臣・陪臣問わずきびしく申し付けなさい。今後不届きなことがあれば、誰であろうと切り捨てにすると仰せになった。その旨心得なさい。もしこれに背くことがあればこちらに参り、秀吉の沙汰を仰ぎなさい。なお詳細は戸田勝隆が申し述べます。

 

Fig.1 秀吉行軍 筑前秋月から筑後高良まで

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

Fig.2 秀吉行軍2 筑後高良から肥後隈本まで 

 

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  Ibid. なお予言獣の挿絵は九州文化財研究所🏯 (@kyubunken)さんから拝借しました

 この日、秀吉は龍造寺隆信の母で、政家の祖母にあたる慶誾尼(ケイギンニ)に宛てても朱印状を発している*11

 

下線部①によれば、政家の家臣たちが*12秀吉の発給する郷村や寺社への安全を保障する禁制に背いたことが秀吉の耳に入ったようだ。これまで禁制が発給されたあと実際にどうだったのか語る史料に恵まれなかったので、現実にこうした行為が行われた場合の秀吉の対応はわからずじまいだった。しかし本文書はこれに対するひとつの答を提供する貴重な文書である。①の後半で「他の者なら問答無用で斬罪に処すところだが」と述べるが、つづく②で「ほかならぬそなたのことなので口頭での注意で済ませた」と特別扱いした旨記されている。

 

言い換えれば、秀吉の発給する乱妨狼藉を禁ずる禁制は必ずしも有効ではなかったことになる。しかも秀吉は相手により処罰を変えてもいる。豊臣政権が秀吉による恣意的な権力体であったことを示す事件ともいえる。

 

*1:龍造寺政家の家臣たち

*2:肥後国飽田郡、下図参照

*3:他の者の所業ならば

*4:他でもないそなたの行為であるので

*5:実に実に。まことにもって

*6:偏る・片寄る。近づく

*7:秀吉の足下

*8:勝隆、伊予国喜多郡大洲城主

*9:天正15年

*10:政家。隆信の息、肥前国佐嘉郡佐嘉城主

*11:2157号

*12:たとえば3月肥前国平戸宛禁制。2141号

天正15年3月30日黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状

 

 

態染筆候、其面事、早日向国へ乱入之由候、其分*1候哉、敵ハ何方ニたまり*2有之哉、いつれの城を取巻候共、人数不損様ニ可申付候、諸事中納言*3遂相談、諸陣中へ心を添、無越度様ニ可申付事肝要候、其面様躰無指儀*4候共、切〻可言上候、殿下*5昨日至り馬岳*6御着座、明日秋月*7表へ被移御座候条、彼表急被仰付、吉左右*8可被仰聞候、其元儀細〻書付可言上候、雖不及仰候、馬をも不取放様ニ*9堅可申付候、於由断者不可然候也、

   三月卅日*10(朱印)

     黒田勘解由とのへ*11

 

(三、2138号。『黒田家文書』第1巻、87号)

 

(書き下し文)

 

わざわざ染筆候、その面のこと、はや日向国へ乱入の由に候、そのわけ候や、敵はいずかたに溜まりこれあるや、いずれの城を取り巻き候とも、人数損なわざるように申し付くべく候、諸事中納言相談を遂げ、諸陣中へ心を添え、越度なきように申し付くべきこと肝要に候、その面の様躰指たる儀なく候とも、切〻言上すべく候、殿下昨日馬岳にいたり御着座、明日秋月表へ移られ御座候条、かの表きっと仰せ付けられ、吉左右やがて仰せ聞けらるべく候、そこもと儀細〻書付言上すべく候、仰せにおよばず候といえども、馬をも取り放さざるように堅く申し付くべく候、由断においては然るべからず候なり、

 

 

 

(大意)

 

一筆したためました。そちらの戦況について、早々と日向国へ攻め込むとのこと。戦況はどうなっているのか。敵軍はどこに集まっているのか。ともかくどこの城を包囲しようとも兵士を損なうようにしなさい。万事秀長と相談し、各陣営に対し念を入れ、失態のないように命ずることが大切です。そちらの様子については大したことがなかろうと逐一報告しなさい。昨日馬ヶ岳城に到着し、明日は秋月まで移動します。彼の地も必ずや平らげ、吉報もすぐに耳に入ることでしょう。こまごまと書面にしたため報告しなさい。秀吉の判断には及ばないと思っても油断しないように。

 

 

 Fig.   秀吉軍の行軍

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                   『日本歴史地名大系 大分県』より作成

島津攻めにあたっての注意点を黒田孝高に説いた文書である。孝高にもっと慎重に事を進めるよう促している*12。孝高といえば軍略家として知られるが、ここではむしろ秀吉が孝高に手取り足取り戦術を教え諭している。2月22日付*13、3月16日付*14、同18日付*15、同20日付*16、同21日付*17、22日付*18朱印状はいずれも孝高への戦術指南を内容とするもので、いずれもいわゆる「軍師」とはほど遠い。本当に孝高が軍略家として才気溢れる人物だったのか、秀吉発給文書に拠ればきわめて疑わしいと言わざるを得ない。 

 

*1:事情、戦況

*2:溜まる・堪る。集まる

*3:豊臣秀長

*4:指したる儀。大したこと

*5:秀吉

*6:豊前国京都郡馬ヶ岳城、下図参照

*7:筑前国夜須郡、同上

*8:吉報

*9:「手綱を緩めないように」の意か

*10:天正15年

*11:孝高

*12:同日付で同内容のものが小早川隆景宛にも発給されている。2139号

*13:2103号

*14:2116号

*15:2117号

*16:2120~2121号

*17:2122~2123号

*18:2125号

天正15年3月29日片桐且元宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

小倉*1・香春*2之間道橋、百姓共召出、肝煎宮木長次郎*3相談、入念可相作候、又其方事、馬岳*4より七曲坂越*5、秋月*6*7路次事候者、間之百姓共申付、奉行相付、早〻可作之候、不可由断候也、

      秀吉御朱印

  三月廿九日*8

    片桐東市正とのへ*9

 

(三、2137号)

 

(書き下し文)

 

小倉・香春のあいだの道橋、百姓ども召し出し、肝煎宮木長次郎相談じ、入念相作るべく候、またその方こと、馬岳より七曲坂越、秋月通路次ことそうらわば、あいだの百姓ども申し付け、奉行相付け、早〻これを作るべく候、由断すべからず候なり、

  

(大意)

 

 小倉・香春間の道や橋、百姓たちを徴発し、肝煎である宮木豊盛とよく相談して入念に普請するように。またそなたは、馬が岳より七曲峠を経て秋月へ進むのなら、その道中の村々にすむ百姓たちに命じ、普請奉行を付け、早期に完成させない。くれぐれも油断のないように。

 

 

 Fig.1  豊前国小倉・香春、筑前国秋月周辺図 

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

 Fig.2 七曲峠周辺図 

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                 Google Mapより作成

まず宮木豊盛について。下表のように検地や兵站といった豊臣政権の基盤を担う者だったようだ。

Table. 宮木豊盛簡易年表 

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                「大日本史料総合データベース」より作成

 本文書は宮木豊盛とよく話し合った上で、小倉・秋月間の道路網を整備することを命じたものである。

 

下線部にあるように百姓を徴発して(陣夫役)事に当たらせた。75㎞にも及ぶ距離、しかも七曲峠のように1960年代までヘアピンカーブが連続するほどの交通の難所である。百姓への負担は相当なものだったはずである。秀吉らの軍勢が九州を攻略するにあたってこうした労働力の大量動員に大きく依存していたことは念頭に置くべきことだろう。

 

(参考)登録有形文化財仲哀隧道の動画

 

www.youtube.com

*1:豊前国企救郡、図1参照

*2:同田川郡

*3:豊盛

*4:豊前国京都(ミヤコ)郡

*5:豊前国田川郡と京都郡の郡境にあった七曲峠、図1・2参照

*6:筑前国夜須郡

*7:秋月街道。豊前小倉・筑後小郡間を結ぶ街道

*8:天正15年

*9:且元。「市正」は「市司」の長官。東西に置かれた。「東市正」は左京職に属する

天正15年2月8日小出秀政宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

播州高砂*1尾藤甚右衛門尉*2知行分弐千六百石事、田地□(等)不荒候様肝煎*3可申付事専一候也、

   天正十五

     二月八日(朱印影)

       小出甚左衛門尉とのへ*4

 

(三、2098号)

 

(書き下し文)

 

播州高砂尾藤甚右衛門尉知行分弐千六百石のこと、田地など荒れず候よう肝煎申し付くべきこと専一に候なり、

 

(大意)

 

 播磨国高砂の尾藤知宣知行分2600石の土地について、田地などが荒廃しないように手配することが重要である。

 

 

 

 Fig. 播磨国加古郡高砂周辺図

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                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

 

本文書は字面のみを追うだけならそれほどむずかしくない。しかし、随分と奇妙な文書でもある。

 

「大日本史料」の速報版・ダイジェスト版である「史料総覧」は本文書をもって「秀吉、小出秀政に播磨高砂の地を宛行う」*5との綱文を立てているが、当ブログではこれを採用しない。

 

第一に本文書は知行充行状と様式も文面もまったく異なるし、「肝煎申し付くべきこと」を知行充行文言と解釈するのは無理があるためである。

 

第二に「尾藤甚右衛門尉知行分」とあるように尾藤知宣の知行権はまだ知宣の手を離れていないからである。

 

第三にこの年の10月14日「播磨国高砂村・同近辺尾藤分弐千五百石、加増として扶助せしめおわんぬ」*6と菅達長に「尾藤分」2500石が充て行われている点からも、この当日まで知宣の手を離れていない第二の解釈を支持するものといえる。100石ほど帳尻が合わないが写し間違えもありうるし、またこの程度の「誤差」は珍しくないので問題ないだろう。

 

以上三点から本文書を秀政への知行充行状と見る解釈は斥けたい。

 

ところで前年の12月24日毛利輝元および龍造寺政家に充てた朱印状において秀吉は、千石秀久の闕所地である讃岐の「奉行」を知宣に命じている旨記している*7。つまり闕所地を次の領主に充行うまでの間預かるわけである。当然田畠が荒廃しないようにすることもその務めのひとつである。

 

したがって本文書は知宣が九州に派兵されている留守を小出秀政に任せたとするのが妥当だろう。3月4日、秀吉は加古川の渡船に関わる「人夫」を集めるよう秀政に命じており、軍事的な目的もあったことから*8、この留守を別の大名に任せる例外的な事例でもある。

 

本来知行地は自身で経営するもので、給人手作地も珍しくなかった*9。戦場に赴いたからその留守を他の者に委ねるというのは「一所懸命」という原則に反してもいる。ただ秀吉家臣に大名出身者が少なかったためこうしたパターナリスティックな政策を選択せざるを得なかったのだろう。秀吉の、家臣に対するパターナリズムはしばしば見られるところである。 

 

*1:加古郡、下図参照

*2:知宣

*3:村役人の「肝煎を命ぜよ」のように解釈しても意味は通るが、ここでは「世話をする」、「面倒を見る」の意と解釈した

*4:秀政。天正13年和泉国岸和田城主3万石

*5:『史料総覧』巻12、152頁。1953年

*6:2350号

*7:2065~2066号

*8:2107号

*9:荻生徂徠は「政談」において「元来武家の知行所に居住したる時、召し使いたる譜代のものは百姓に近き者なり」(岩波文庫版、66頁)と現状を憂う郷愁めいた心情を吐露している