日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年4月10日毛利輝元宛豊臣秀吉朱印状(分国置目覚)

 

     覚

 

一、分国置目、此節可申付事、

 

一、簡要城堅固申付、其外下城事、

 

一、海陸役所*1停止事、

 

一、人数揃事、

 

一、蔵納申付、九州弓箭覚悟事、

 

一、豊前*2・肥前*3人質可取堅事、

 

一、門司*4・麻生*5・宗像*6・山鹿*7城々へ人数・兵粮可差籠事、

 

一、至九州通道可作之事、

 

一、一日路*8々々御座所*9城構事、

 

一、赤間関*10御蔵*11可立事、

 

一、筑前検使*12、安国寺*13・黒田官兵衛*14被仰付事、

 

一、高麗御渡海事、

 

一、大友*15深重可申談事、

 

一、大仏殿材木事*16

 

  已上

 

   四月十日*17(朱印)

 

     毛利右馬頭殿*18

 

 

(三、1874号)

 

(書き下し文)

 

     覚

 

一、分国置目、この節申し付くべきこと、

 

一、簡要の城堅固に申し付け、そのほか下城のこと、

 

一、海陸役所停止のこと、

 

一、人数揃えのこと、

 

一、蔵納申し付け、九州弓箭覚悟のこと、

 

一、豊前・肥前人質取り堅むべきこと、

 

一、門司・麻生・宗像・山鹿城々へ人数・兵粮差し籠むべきこと、

 

一、九州にいたる通り道これをつくるべきこと、

 

一、一日路・一日路御座所城構えること、

 

一、赤間関、御蔵立つべきこと、

 

一、筑前検使、安国寺・黒田官兵衛仰せ付けらるべきこと、

 

一、高麗御渡海のこと、

 

一、大友深重に申し談ずべきこと、

 

一、大仏殿材木のこと、

 

  已上

 

 

(大意)

 

    覚書

 

一、分国の決まりをこの際命じること。

 

一、要所要所の城の守りを固め、そのほかは下城すること。

 

一、海路及び陸路の関所は廃止すること。

 

一、軍勢を準備すること。

 

一、蔵に兵粮を蓄え、九州勢との戦争に準備すること。

 

一、大友氏と竜造寺氏の人質を確保すること。

 

一、門司・麻生・宗像・山鹿の城へ兵と兵粮を入れること。

 

一、九州への道をつくること。

 

一、一日路ごとに御座所をつくること。

 

一、赤間関に蔵を建てること。

 

一、筑前の検使として安国寺恵瓊と黒田孝高を命ずること。

 

一、朝鮮半島へ秀吉自身が渡れるよう準備をすること。

 

一、大友義統とよく話し合うこと。

 

一、大仏殿建立のため材木を調達をすること。

 

  以上である。

 

 

Fig.1 豊前門司および筑前山鹿・麻生・宗像周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

Fig.2 東福寺と方広寺

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                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

 

全体として迅速な軍事行動を可能にするための交通整備および兵站に関する条目が目立つ。一方で不必要に城へ兵が集まることを禁じていて、抵抗の芽を摘む効果も狙っている。

 

 三ヶ条目の陸海の関所を廃止することは、移動を迅速化する交通政策であると同時に、毛利氏による関銭徴収権の剥奪、つまり大名の権益を秀吉のもとへ委譲する意味ももち注目される。軍事的・政治的勢力圏の拡大と同時に豊臣政権への経済的権益の集中化を図る、水平的にも垂直的にも勢力を拡大したものといえ、「作あい否定」や「一職支配」といった太閤検地の方向性と相似形をなしていて興味深い。

  

*1:関所

*2:大友義統

*3:竜造寺政家

*4:豊前国企救郡。下図1参照

*5:筑前国遠賀郡

*6:同郡

*7:同郡

*8:ヒトイジ。一日分の行程

*9:秀吉が滞在する場所

*10:長門国豊浦郡

*11:兵粮を蓄える蔵、「御」がつくので「秀吉の蔵」の意

*12:事実を見届けるために派遣される役人

*13:恵瓊

*14:孝高

*15:義統

*16:「兼見卿記」天正14年4月1日条に「東福寺御出にいたり、この近所に大仏ご建立あるべし、その地御覧のため御出と云々」とある。予定地はのちに変更され、方広寺大仏殿が建てられた。下図2参照

*17:天正14年

*18:輝元

天正14年4月10日小早川隆景・吉川元春・吉川元長宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

就大友入道*1上洛*2、九州分目*3相定候*4、遠境候条、彼国者共*5若令難渋者、可差下人数*6候間、右馬頭*7相談、此方城々丈夫*8可申付候、次人質*9事、入念可相渡黒田官兵衛尉*10候、猶具*11安国寺*12可被申候也、

 

  四月十日*13(朱印)

 

    小早川左衛門佐とのへ*14

    吉川駿河守とのへ*15

    吉川治部少輔とのへ*16

(三、1873号)

 

(書き下し文)

 

大友入道上洛について、九州分目相定め候、遠境に候条、かの国の者どももし難渋せしめば、人数を差し下すべく候あいだ、右馬頭と相談じ、この方城々丈夫申し付くべく候、次に人質のこと、入念に黒田官兵衛尉へ相渡すべく候、なおつぶさに安国寺申さるべく候なり、

 

(大意)

 

 宗麟が上洛することについて、九州国分の条目を定めたところである。遠国であるので、豊後国の者たちが抵抗するかもしれないが、その時は軍勢を派遣する。輝元とよく相談し、城などを堅固につくっておくように。次に人質の件であるが、十分に注意して孝高に引き渡しなさい。詳しくは恵瓊に申し述べる。

 

 

 

大友宗麟(義鎮)・義統父子は島津勢との攻防で劣勢に立たされ、秀吉に臣従する道を選んだ。秀吉に臣従するというのはとりもなおさず秀吉による国分*17を受け入れることを意味する。国分を実際に行う毛利輝元や小早川隆景、吉川元春・元長父子に指示を出したのが本文書と次号である。

 

宗麟父子は軍門に下ったものの、抵抗する者も現れる可能性に言及しており、戦国大名の家臣たちが大名に対して独立的だったことを示している。

 

*1:宗麟

*2:秀吉に臣従するために上京すること

*3:ワケメまたはワカレメ。国境画定=「国分」のこと

*4:1874号文書、次回

*5:大友の軍勢

*6:軍勢

*7:毛利輝元

*8:堅固に

*9:大友氏が秀吉に差し出す人質

*10:孝高。孝高は蜂須賀正勝とともに前年11月大友宗麟に誼を通じている

*11:ツブサニ、詳しくは

*12:恵瓊

*13:天正14年

*14:隆景

*15:元春

*16:元春の長男元長。翌15年6月5日日向国都於郡(トノコオリ)にて病没

*17:くにわけ。国郡境目相論において国境郡境を裁定すること

天正14年3月21日豊臣秀吉知行方法度につき条〻写

本文書も写が2点伝わっているのみで原本の存在は今のところ確認されていない。しかしほぼ同文なので実際に発給されたと見てよいだろう。形式的には充所に受給人が記載されていない朱印状で、秀吉の家臣=「給人」に対して一斉発給したと考えられ、内容は1月19日朱印状の趣旨をより徹底するものになっている。

 

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     条〻


一、知行方法度*1之儀、最前被相定*2といへ共、重(闕字)仰出され候、所務*3之事、給人百姓相対せしめ可納所若損免*4出入*5有之*6以立毛上三分一百姓ニ遣之、三分二給人可召置事、  


一、土免*7乞候百姓於有之者曲事たるへし、若遣之者給人共ニ可為同罪事


付、立毛*8作来田畠あけ*9候百姓有之*10、曲事たるへき事、


一、他郷へ罷越候百姓あらハ、其身之事者不及申、相かゝへ*11候地下人共曲事たるへき事


右条〻違犯之輩あらハ速可処罪科者也、


   三月廿一日*12   御朱印

(三、1864号。なお1865号も参照されたい)

(書き下し文)

 

      条〻


一、知行方法度の儀、最前相定めらるるといえども、かさねて仰せ出され候、所務のこと、給人百姓と相対せしめ納所すべし、もし損免出入これあらば立毛の上をもって三分一百姓にこれを遣わし、三分二給人召し置くべきこと、  


一、土免乞い候百姓これあるにおいては曲事たるべし、もしこれを遣わさば給人ともに同罪たるべきこと、


つけたり、立毛作り来たる田畠上げ候百姓これあらば、曲事たるべきこと、


一、他郷へ罷り越し候百姓あらば、その身のことは申すに及ばず、相抱え候地下人とも曲事たるべきこと、


右の条〻違犯の輩あらば速やかに罪科に処すべきものなり、

 

(大意)

 

     条々

 

 一、知行所支配の法度については先日触れたとおりであるが、かさねて命ずるものである。年貢の納入においては給人が百姓に直接相対して行うようにすること。もし年貢減免などでトラブルが生じた場合、実り具合をよく見極めた上で三分の一を百姓に、三分の二を給人が取るようにしなさい。

 

一、土免を願い出る百姓は曲事であり、またこれに応じた給人も同罪である。

 

つけたり、稲などを収穫する前に田畠を放棄する百姓は曲事とする。

 

一、他郷へ出奔した百姓はその者自身はもちろん、匿った者ともども曲事である。

 

右の条々に背いた者は速やかに処罰する。

 

 

 ①は1月19日に出された「知行方法度」についてかさねて「仰せ出された」と述べている。「知行方法度」と秀吉自身が呼んでいるように、1月19日付のものも本文書も郷村や百姓に対しての法度ではなく、領主として百姓にどう接すべきか、知行=支配の方法を家臣たちに説いた文書である。その点は⑤の「給人ともに同罪たるべきこと」とあることからも確認できる。給人が守るべき法度、百姓に読み聞かせ、守らせる法度である。「給人、百姓と相対せしめ」とあるように、給人=領主と百姓の関係は「顔の見える」人格的関係であり、その点は中世的性格を色濃く残していたといえる。近世社会の特徴のひとつである、文書を媒介とする村の支配はまだ見られない。

 

こうした年貢徴収法を細かく定めたものに「六角氏式目」(永禄10年=1567)がある。二ヶ条ほど見ておこう。

 

 

 

一、野事・山事・井水の事*13、先条*14に准ずべし、ただし一庄一郷打ち起こり楯鉾*15に及ぶにおいては、科人交名を指し*16、これを申すといえども、聞こし召し入れらるるべからず、一庄一郷へその咎相懸けらるるべきこと、

 

 

一、損免のこと、庄例郷例ありといえども、先々次第棄破せられおわんぬ、自今以後においては、所務人*17・地主・名主・作人など立ち相い、内検せしめ、立毛に応じてこれを乞い、これを下行*18あるべし、もし立毛これを見ず刈り執り、損免申す族これあるといえども、限有*19年貢減少せず、ことごとく納所あるべし、(以下略)

 

『中世法制史料集 第三巻 武家家法Ⅰ』261頁
 
 

 

⑦では、山野や水など資源を求めて庄や郷をあげての「楯鉾」つまり合戦に及ぶ百姓たちの行為を禁じたもので、豊臣・徳川政権にも継承された。また庄や郷全体の責任とした点もまったく同様である。

 

⑧も本文書と同じ内容である。年貢を徴収する荘官や地主・名主など有力農民、作人など一般農民が立ち会い、よく吟味して実り具合に応じて「下行」=年貢減免を行うよう指示している。

 

六角氏式目はこの二ヶ条を含めて、全67ヶ条中その6分の1にあたる十数ヶ条にわたって年貢徴収について事細かに定めていて、秀吉はこれをなぞっただけとも言えるくらいである。もちろん六角氏式目は冒頭に「当国一乱已後、公私意に任せず、猥りの輩ご成敗たるべく条々」とあるように、危機的状況で編まれたという点には注意する必要がある。それでも「公私意に任せず」と恣意的な裁定を行わないと宣言している点は重要である。

  

④の「土免」はこの「立毛の上をもって」ではなく、地味によりあらかじめ年貢率・年貢量を固定する方式をいう*20。実際の収穫具合を見て年貢納入量を決めるのは合理的である反面、役人の派遣といった費用が嵩む上、役人が礼銭礼物などを受け取る「不正」の温床となるなどデメリットも大きい。秀吉はあらゆる土地とその果実をすべてにおいて把握することを目指したが、コスト負担の大きい全面掌握を必ずしも家臣たちは望まなかったのかもしれない。⑤に「もしこれを遣わさば給人ともに同罪たるべきこと」とあるように秀吉家臣が土免を行った可能性も十分ある。

 

六角氏式目も秀吉のこの法度もともに近世的な側面を打ち出しつつ、一方で人格的支配従属関係の維持強化に努めるなど中世的側面をも併せ持つキメラのようなものであった。

  

*1:法令や命令。「法度」が公権力の制定法を指すようになったのは戦国大名の分国法以後である

*2:同年1月19日朱印状

*3:「所務」はもともと土地所有に関する訴訟を意味したが、1603年刊行の「日葡辞書」には「年貢の取り立て」とあり、用例として「所務する」というサ変動詞を挙げている

*4:自然災害などで年貢を減免すること

*5:揉めごと、争い

*6:「者」脱カ

*7:「ツチメン」または「ドメン」。土壌の好悪により年貢率・年貢納入量を一定に固定する徴租法

*8:収穫前の米や麦

*9:「上げる」、収穫を放棄する・中止する

*10:「者」脱カ

*11:抱え。匿う、庇護する

*12:天正14年

*13:山野や用水の利用をめぐる争いごと

*14:喧嘩・闘諍・打擲・刃傷・殺害などにおいて父や子を討たれたとしても報復せず注進するよう命じた箇条。加勢した者も罪の軽重により罰するとし、私闘や私刑(リンチ)を禁じている。「リンチ」とは法的手続きによらず私人や私的団体が制裁を加えること、とくに処刑することを意味するが、現在は幅広く加害行為一般を指すことが多い。管見の範囲ではほとんどがアメリカ・バージニア州のCharlse.Lynchの私刑に由来するとするが、一点のみ同じくバージニア州のWilliam.Lynchに由来するとするものもあり、はっきりしない

*15:合戦

*16:「あいつが先に手を出した」といっても

*17:年貢納入の責任者・荘官

*18:米銭を領主が百姓などに与えること。ここでは年貢を減免すること

*19:「現有」カ

*20:ただし収穫は土地の良し悪しのみによって決まるわけではなく、労働の投入具合によっても左右される。日本の伝統的農業は、単位面積あたりの土地に投入する労働量も収穫量も多い土地集約型といわれてきた

天正14年2月29日前田玄以宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

去年検地之在〻所〻山林炭竈*1等之事、不相残遂糺明、年貢以下相改*2可申付*3候、知行之外たる上者、誰〻*4ニ扶持*5候雖為在所内、其領主*6聊不可違乱*7*8

  天正十四

   二月廿九日  御朱印

      民部卿法印*9

 

(三、1858号)

 (書き下し文)

 

去る年検地の在々所々・山林・炭竈などのこと、相残らず糺明を遂げ、年貢以下相改め申し付くべく候、知行のほかたる上は、誰々に扶持候在所内たるといえども、その領主いささかも違乱すべからざる(もの)なり、

 

(大意)

 

去年検地した村々や山林、炭竈などのことは残らず調べ上げ、すべてを掌握した上で天下に号令しているである。この秀吉によって知行を充て行われた者以外は、たとえ「誰それ」に与えられた土地であろうと、「誰それ」によって「領主」扱いされた者が異議申し立てすることは認めない。

 

 

 

①では、昨年検地した郷村はもとより山野や炭焼き小屋にいたるまで、軍門にくだった土地は「相残らず」秀吉の掌握するところとなったと宣言している。「糺明を遂げ」には村々の境界争いも「解決した」という自負もあるのだろう。もちろんこの文言がただちに、秀吉勢力下の村々はもちろん山野や炭竈にいたるまで現実に掌握していたこと、郷村間のさまざまな争いを解決したことを意味するものではない。しかし「空間=領域を全面的に支配した」と「あるべき姿」を宣言した点では天正18年8月12日浅野長吉宛朱印状の有名な一節「山の奥、海は櫓櫂の続き候まで」(どんなに山奥であろうと、いかなる絶海の孤島であろうと六十余州すべて検地を行う)*10を彷彿とさせるところがある。

 

②は秀吉以外の者の知行充行権を一切認めない、あらゆる領主的土地所有権は秀吉に属すると述べている。関白とは「天下を関(あずか)り白(もう)す」意味で「自身こそが関白にふさわしい」と当時の関白二条昭実に迫ったように*11、「叡慮(天皇の意思)によって」という意味も含まれるかもしれないが、いずれにせよ領主権的土地所有権を一元的・排他的に掌握するのは秀吉のみであると述べており、複雑で重層的な荘園制的土地所有体系の体制的否定をここに宣言した。

 

秀吉は空間的・領域的にも(①)、土地所有権という点でも(②)一元的に支配する、すなわち二重の意味において「一職支配」=中世的土地所有体系の解体をめざすと言明したのである。

 

昨年冬の検地で荘園領主である公家たちが検地を行う者たちに金銭を送ったり、前田玄以を通じて秀吉に大目に見てくれるよう申し入れたり検地を妨げる動きがあったことなどが念頭にあったのかもしれない。そうした現状に対して、秀吉が土地をどのように掌握しようとしたのかを明らかにした文書で、その意味において歴史的に重要であると位置づけられる。

 

*1:木炭を焼く竈

*2:調べて、精査して

*3:命ずる

*4:秀吉以外の誰か

*5:与えられた

*6:「誰〻」に土地を「扶持」され「領主」となった者

*7:とやかく言うこと、秩序を乱すこと

*8:「者」脱カ

*9:前田玄以

*10:四、216頁、3383号

*11:こちらを参照されたい 

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天正14年2月15日一柳直末宛豊臣秀吉朱印状(後)

 

 

     (承前)


一、普請衆数千人の内に馬十疋をき*1候て、使あるき*2につかふへし、其外の馬は在所*3へ可返事、


一、ろし*4とをり候とて、大石もちにハ何たるものもかたよる*5へき事、


一、下〻酒にゑい*6、くちからかひ*7有之といふともとらへ*8可出之*9、若のかし*10候ハヽ、其しう*11曲事たるへき事、


一、普請衆在〻*12にをいて非分之儀有之ハ、一銭切たるへき事、


右条〻若違背の輩あらハ可処罪過*13、其者*14見のがし候ハヽ其しう曲事たるへき者也、

 

 天正十四年二月十五日 (朱印)

 

        一柳伊豆守とのへ*15

                      

(三、1853号)
 
(書き下し文)
 

一、普請衆数千人うちに馬十疋置き候て、使・歩に使うべし、そのほかの馬は在所へ返すべきこと、


一、路次通り候とて、大石持ちには何たる者も偏るべきこと、


一、下〻酒に酔い、口揶揄いこれあるというとも捕らえこれを出すべし、もし逃しそうらわば、その主曲事たるべきこと、


一、普請衆在〻において非分の儀これあらば、一銭切たるべきこと、


右の条〻もし違背の輩あらば罪過に処すべし、その者見逃しそうらわばその主曲事たるべきものなり、

 
(大意)
 
 

一、普請衆数千人につきに馬十疋置き、連絡用に使うこと。そのほかの馬は国許へ返すこと。


一、道を通るといっても、大石を運ぶ場合は道の一方へよけ道を空けること。


一、下々の者が酒に酔い、口論や喧嘩になっても捕らえてるように。もし逃げられた場合は、主人がその責めを負うこと。


一、普請衆が近郷の村々で不届きな行いをしたなら斬罪に処すこと。


右の条〻に違背する者がいたら処罰するように。該当者を見逃した場合その主人の責任とする。

 

 
            

 

①から、当初馬を連れてきた百姓たちが多かったことがわかる。連絡用として数千人あたり十頭に限り、残りは国許へ返させるよう命じている。馬を連れて来られる者といえばかなり有力な者たちであろう。ついでながら「在所」には「村々」の意味があり、そう解釈すると大坂近郷の村々から勝手に連れ出した馬を持ち主に返せという意味になる。そうした場合「返すべきこと」では穏当にすぎる。

 

 ③では、大坂に集められた人足たちが酒に酔って喧嘩をしていた様子がうかがえる。ただしその場で切り捨てたりせずに捕縛して然るべき所へ出せと命じている。この「捕縛して」という方針は秀吉の触れによく見られるもので、自力救済の否定と見ることもできる。また逃亡した場合などは「その主人」の責任とした。田畠を荒らした場合は郷村全体に、逃亡した「下々」の者たちの行為は「その主」にその責めを負わせることから、彼らは対等な金銭的雇傭関係ではなく売買の対象となる人格的隷属関係にあった可能性がある。この「主」がどのような立場なのか、「下々」とあるので被官百姓などを連れた有力百姓や、口入屋のように雇傭を斡旋する業者か、あるいは持ち場を請け負う単なる監督的な棟梁か。ともかく「普請衆」には「下々」と「その主」と呼ばれる階層に分かれていたことだけは確かである。

 

④は人足たちが近郷の村々に迷惑行為を働いていたことがうかがえる。前回見たように強引に宿を借りる者や家主に反抗する者などもいた。そうした「腕次第」の風潮を止めようとした秀吉の意図に反して、実際には「実力」行使がいまだ支配する社会だったことが読み取れる文書である。

 

「一銭切」については信長がはじめたする説明が事典類には見られる*16。史料編纂所の「古文書フルテキストデータベース」で検索すると下表のような結果となる。

 

Table. 一銭切

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最古のものは近江国浅井郡大浦下庄に出された制札で、応仁・文明の乱直後のことである。上表を見る限り「盗みを働いた者は一銭切とする」というケースはこの大浦宛の制札のみでほとんどは朝鮮出兵時の軍律、残る直江兼続発給のものも禁制で実質的には軍律である。「日葡辞書」にも立項されていない。本ブログでは「斬罪に処する」程度に留めておいた*17

 

*1:置き

*2:「使」も「歩」も使い走りの意

*3:国許

*4:路次

*5:偏る、片寄る。道の片側によること

*6:酔い

*7:「日葡辞書」99頁に「Caracai」で「喧嘩、口論」とある

*8:捕らえ

*9:生きたまま捕縛する

*10:逃し

*11:主。上掲日葡辞書には「主人」や「主君」とあり「下人」や「被官」など隷属農民を抱える土豪クラスの可能性をうかがわせる

*12:郷村、具体的には大坂近郷

*13:処罰する

*14:違背した輩

*15:直末

*16:新井白石『読史余論』は秀吉がはじめたとする。17世紀後半から18世紀前半にかけて「一銭切」はすでに死語と化していたらしい

*17:斬罪した頸の形が一文銭にみえるからという説明もある