日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

戦国大名大内氏掟書・六角氏式目に見える「批判」

ここ最近「批判」という言葉をめぐるやりとりが喧しい。そこで前回読んだ秀吉発給文書中の「批判」と同様に使われている戦国大名分国法を検討したい。ここで挙げる事例は『日本国語大辞典』にも用例として採り上げられているので、ことさら目新しいわけではないし、ましてやこうした議論に棹さそうなどという意図は毛頭ない。

 

まず『邦訳日葡辞書』の該当部分を見ておこう。1603年に刊行された同書*1は宣教師のカトリック的価値観というバイアスがかかっているが、卑語なども採用されており、文字にあらわれにくい当時の語彙を伝える貴重な史料である。

 

Fig.1 「批判」 ”Fifan”

f:id:x4090x:20200625154924p:plain

    『邦訳日葡辞書』230頁、岩波書店、1980年

 

「民衆の間に流れる噂」とは別に「是非を糺す。ある物事に関してなされる詮議、あるいは吟味」が立項されているので、同音異義語と認識されていたようだ。後者の意味に否定的な含意が加わると現代的な意味合いになることは容易に予想されうる変化である。「言語道断」も「言葉で表現しがたい奥深い真理」を意味する仏教用語で、「信長公記」*2に「四方の景気、山海・田園・郷里、言語道断面白き地景申すに計りなし」*3とあるように肯定的な意味でも使われていた。

 

ちなみに今日ほぼ同義語として流布する「非難」は以下のように説明されている。

 

Fig.2 「非難」 "Finan"

 

f:id:x4090x:20200627131706p:plain

      上掲『邦訳日葡辞書』233頁

次に戦国大名大内氏と六角氏の分国法を見ておきたい。

 

 

①右条々、かくのことく相定らるゝ上ハ、賃相当分*4けんてう*5にほんそう*6すへき者也、あたい*7をハ御法*8のことく下行*9せしむる処ニ、もしその職*10をおろそかにする族あらハ、件のあつらへ*11*12を、そのぬし*13出帯*14して、奉行所にてひはん*15をうけ*16、ふたう*17れきせん*18たらハ、たちまち可処罪科者也、仍下知如件、

文明17年4月20日 「大内氏掟書」*19


②一、数日被遂御糺明之淵底*20、題目*21於御批判者、被定置以條目之旨*22、可為御順路*23然而愚慮之輩、非儀*24之御裁断*25令覚悟*26、不相捨訴訟*27者、可為所致蒙昧*28、然者、既被成奉書*29処、相語親類一族、於拘*30申者、併相背御成敗*31者也、被成御下知以後不可相拘申事、

永禄10年4月18日 「六角氏式目」*32
 
(書き下し文)
 

①右の条々、かくのごとく相定らるるうえは、賃相当分厳重に奔走すべきものなり、直をば御法のごとく下行せしむるところに、もしその職をおろそかにするやからあらば、くだんの誂え物を、その塗師出帯して、奉行所にて批判を請け、不当歴然たらば、たちまち罪科に処すべきものなり、よって下知くだんのごとし、

 

②一、数日御糺明の淵底を遂げられ、題目御批判においては、定め置かるる條目の旨をもって、御順路たるべし、しかりて愚慮のともがら、非儀の御裁断と覚悟せしめ、訴訟を相捨てざるは、蒙昧のいたすところたるべし、しからばすでに奉書をなさるるところ、親類一族を相語り、拘え申すにおいては、あわせて御成敗に相背くものなり、御下知なさるる以後、相拘え申すべからざること、

 

(大意)
 
①右の箇条、以上のように定めたので、代金にふさわしい仕上げをすべきである。代金をこの掟書の通り支払ったのに手を抜く族がいたなら、塗師自身が問題となった作品を持参して奉行所にて「批判」を受けなさい。不正が明らかになった場合は罪科に処すものとする。以上が下知の趣旨である。
 
 
②一、数日間詳しく調べ上げ、問題について「ご批判」する場合、定められている条文の趣旨に則って道理あるものとしなければならない。しかしながら、道理にかなわないご裁定と知り、訴えを取り下げないのは蒙昧の所行である。したがって、すでに奉書が出されたのに親類一族と称し、庇護するものは本人と合わせてご裁定に背く者である。下知が下ったのち匿ってはならない。
 
 
 

 

①は塗り物の出来具合を、奉行所で実際に作品を「批判」するという場面で使われているので、出来映えの良し悪し、すなわち「吟味」するという意味で解してよかろう。

 

②は後半部分がやや意味が取りにくいが、「御批判」とあるので「批判」するのは六角氏である。すぐあとに「非儀の御裁断」とあることから「裁断」が「批判」と同義であることがわかる。つまりこの「御批判」は六角氏による「裁定」、「裁決」という意味になる。

 

以上のことから、15世紀中頃から17世紀にかけて「批判」が「物事の良し悪しを見極める」、「その結果下した裁定」という意味を持つことがわかった。

 

*1:2018年リオ・デ・ジャネイロで新たな「日葡辞書」が発見され、八木書店から影印本が刊行されている。かなりお高く本体価格60,000円也 https://catalogue.books-yagi.co.jp/files/pdf/c9784840622349.pdf

*2:近年は「信長記」と呼ぶことが多い

*3:「この景観は言葉では言い表せない趣がある」

*4:本文の塗り物代金などを定めたことを指す

*5:厳重

*6:奔走。うまく仕上げるように努力すること

*7:「直」、現在の「値」。「賃相当分」

*8:大内氏掟書のこと

*9:銭を下賜すること

*10:仕事、職分。ここでは出来具合

*11:誂え

*12:注文して作らせた物

*13:「主」とする写本もあるが塗り物代金を問題としているので塗師、漆を塗る職人とすべきだろう

*14:持参

*15:「批判」

*16:請け

*17:不当

*18:歴然

*19:『中世法制史料集』第三巻、武家家法Ⅰ、60頁

*20:詳しくお調べになり

*21:とくに取り上げるべきこと、事件、主題

*22:すでに定められている六角氏式目の趣旨に則り

*23:道理にかなった

*24:「順路」の対義語、道理に背く

*25:六角氏の裁定

*26:知る

*27:歎願すること、不平不満を伝えること

*28:道理に暗いこと

*29:主人の意を奉じて下位の者に意思を伝達する文書のこと。直接意思を伝える文書は「直書」という

*30:自分の庇護下に置くこと、保護する、匿う

*31:六角氏による裁定。「仕置」も「成敗」も今日ではもっぱら「懲らしめる」「処刑する」の意味に限定されるがもともとは統治するの意味

*32:上掲書272頁

天正11年11月13日稲葉一鉄宛羽柴秀吉定

 

     定

①、今度池田*1方其方*2申事*3、互物成*4押領*5分於在之者、可被持返事,
池田方之百姓年貢をはらミ*6稲葉知行へ立隠*7候歟、又稲葉方之百姓年貢をはらミ、池田知行へ立隠族在之者、第一*8申事基候条、互急度相届候上、無沙汰*9之輩堅可為成敗事、
、諸奉公人、或緩怠・盜人・喧嘩・口論、或主・寄親へ号不足*10、暇不乞*11ニ権家*12へ立入候事可為停止*13、若拘置輩在之者、其者者可為成敗事*14
、公事篇*15ニ不限、喧嘩・口論・盗人以下於難決者、片切*16・伊木*17・那波・古江*18双方罷出可相決、其上二も不道行*19ハ、訴人論人*20召連大坂へ罷登、可請批判*21事、
、双方如此相定上、村質郷質*22一切停止事、
右条々無相違様、堅可被制止者也、仍如件、
                     羽柴筑前守
  天正拾一年十一月十三日            秀吉(花押)
   稲葉伊与入道殿*23


*紙継目裏に秀吉の花押あり

『秀吉文書集』一、838号、269頁
 
(書き下し文)
 

     定

一、このたび池田方・その方申すことについて、互いに物成押領分これあるにおいては、持ち返らるるべきこと,
一、池田方の百姓年貢を孕み、稲葉知行へ立ち隠れ候か、または稲葉方の百姓年貢を孕み、池田知行へ立ち隠るるやからこれあらば、第一申すことに基き候条、互いにきっと相届け候うえ、無沙汰のともがら堅く成敗たるべきこと、
一、諸奉公人、あるいは緩怠・盜人・喧嘩・口論、あるいは主・寄親へ不足と号し、暇乞わざるに権家へ立ち入り候こと停止たるべし、もし拘え置くともがらこれあらば、その者は成敗たるべきこと、
一、公事篇に限らず、喧嘩・口論・盗人以下決しがたきにおいては、片切・伊木・那波・古江双方罷り出で相決すべし、そのうえにも道行かざれば、訴人・論人召し連れ大坂へ罷り登り、批判を請くべきこと、
一、双方かくのごとく相定るうえ、村質・郷質一切停止のこと、
右条々相違なきよう、堅く制止せらるるべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)
 
 一、このたび恒興とそのほうが主張することについて、互いに押領した年貢などは元の持ち主へ返すこと。
一、池田領の百姓が年貢を滞納しながら稲葉領へ隠れるか、稲葉領の百姓が同様に池田領に逃げ込んだ場合は一箇条にもとづき、その旨互いに報告した上で、何もしない者は処罰すること。
一、奉公人のうちある者は怠けたり、盗みや喧嘩・口論などを起こし、ある者は主家や寄親へ不満があると言い暇乞いをせずに他の権家へ出入りすることを禁ずる。もしこういう者を抱え置いた場合その者は処罰する。
一、訴訟に限らず、喧嘩・口論・盗人などの処罰について決めがたいときは、片切・伊木・那波・古江の双方が出会いの上決しなさい。それでも決着しないときは、訴人・論人を連れて上坂し、裁定を受けなさい。
一、このように定めたので、双方とも村質・郷質などの手段に及ばないようにしなさい。
 右の通り相違ないようにしなさい。以上である。
 

 

天正11年11月、美濃清水城主稲葉一鉄と同大垣城主池田恒興のあいだで知行地の境界をめぐる相論が起きた。原因のひとつに、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川をはじめ大小様々な河川が乱流する輪中地帯であることが挙げられるだろう。流路が変われば事実上知行地は増減してしまう。目に見える境界は説得力を持つ分、押領の根拠ともなりやすい。係争地の関係略図を掲げておきたい。

 

Fig. 美濃国稲葉一鉄・池田恒興境界相論関係略図

f:id:x4090x:20200624143646p:plain

                   『日本歴史地名大系』「岐阜県」より作成

 

河川を国境や郡境と定めるのは机上では簡単だが、現実に流路は大きく変わるので河川の両岸や中州に飛び地ができてしまう。つまり境界線を決めるときに手を抜いた分、維持・管理にはそのツケが何倍にも跳ね返ってくるのだ。播磨国加古川でもそうだった。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

秀吉の裁定もこの延長線上にある。

Table 稲葉・池田境界相論裁定

f:id:x4090x:20200624150424j:plain

 

上表は本文書と同日稲葉一鉄に与えた知行目録を加工したものであるが、河川を境界としているうえ、稲葉領内に池田領が全体で41%、最大で61%も含まれてしまう実に妥協的な裁定を下してしまっている。その結果、④に見えるように片切・伊木ら在地の「噯人」の手にあまる場合、最終的な裁定が大坂に持ち込まれる場合も想定された。秀吉自身よくわかっていたのだろう。

 

こうした状況下、百姓たちは②に見られるように互いの領地を行き来する、逃散におよんでいたようである。

 

*1:恒興

*2:稲葉一鉄

*3:言い分、主張

*4:年貢諸役

*5:田畑・年貢・公事などの知行を自己のものと主張して侵奪することを意味する法律用語

*6:孕む、年貢を滞納する。e.g. 宝徳2年12月3日「作人ひこ太郎と申す者孕み候て失せ候」(『大日本古文書 高野山文書之五』783号)

*7:身を隠す、逃散のこと

*8:①の箇条

*9:すべきことをしないこと、等閑にすること

*10:不平や不満

*11:主人に暇を願い出ること

*12:有力な家、権門。別の奉公先

*13:「今川仮名目録追加」第2条にも「おのおの与力の者ども、さしたる述懐(不平や不満)なきところに、みだりに寄親とりかふること、曲事たるのあいだ」と見える

*14:「其者」を「拘え置く輩」=「権家」と解釈した

*15:訴訟

*16:片桐カ

*17:伊木忠次カ

*18:那波・古江は未詳

*19:ミチユク、ことが捗る・決着する

*20:訴人は原告、論人は被告

*21:裁定、判決。「日葡辞書」は「批判」(Fifan)を「と(批)りわく(判)る」とし、是非を糺すこと、ものごとの詮議、吟味とする。ほかに人々の間で流れる噂の意味もあり、同義語として「評判」(Fiǒban/Feǒban)を挙げている

*22:被害を与えた「村」や「郷」の構成員に同等の報復をする慣行。逃散した百姓の年貢滞納分を、同じ郷村の他の百姓に納入させること

*23:一鉄

天正11年11月12日広瀬兵庫助宛羽柴秀吉書状

 

 

其方在所広瀬*1弐ヶ村事、従(闕字)上様*2御時当知行旨、聊不可有相違候、池田*3・稲葉*4両人も其通申候間、不可有別儀候、若何角申族於在之者、右趣可申届候、恐〻謹言、

  天正十一              筑前守

     十一月十二日           秀吉(花押)

   広瀬兵庫助*5殿

                       

『秀吉文書集』一、837号、268~269頁

 

(書き下し文)

 

その方在所広瀬二ヶ村のこと、上様御時より当知行の旨、いささかも相違あるべからず候、池田・稲葉両人へもその通り申し候あいだ、別儀あるべからず候、もしなにかと申すやからこれあらば、右の趣申し届くべく候、恐〻謹言、

 

(大意)

 

 そなたの知行地である広瀬二ヶ村の件、信長様がお認めになった当知行についてはいささかも相違はありません。その旨恒興・一鉄両名にも伝えているので支障はありません。もし横合いから異議を申し立てる者がいましたら、こちらへ申し伝えてください。謹んで申し上げました。

 

 

Fig 美濃国揖斐郡広瀬周辺図

f:id:x4090x:20200621163548p:plain

                   『日本歴史地名大系』岐阜県より作成

 

天正11年11月、池田恒興と稲葉一鉄の間で領地をめぐる訴訟が起きた。この書状はその争いに巻き込まれることを恐れた広瀬兵庫助に、信長が当知行を認めているので、問題はない旨書き送ったものである。

 

信長の死後一年以上経っても「上様」、「御時」と呼び、闕字で敬意を表している点は注意しておきたい。もちろん秀吉が心底そう思っていた、というつもりは毛頭ない。「慇懃無礼」というように、礼儀正しく振る舞っていてもその胸中は知りようがないからである。ただ、信長の権威が織田政権の継承者であろうとした秀吉にとって大いに利用価値があっただろうことだけはたしかである。

 

*1:美濃国揖斐郡、図参照

*2:織田信長

*3:恒興

*4:一鉄

*5:近江国人カ、本能寺の変直後秀吉らから500石充行われている

天正11年8月29日摂州本庄・芦屋郷・山路庄宛石持定

                     摂州

                       本庄*1

       定               芦屋郷

                       山路庄

一、対百姓不謂儀申懸族一銭切*2たるへき事、

一、田畠作毛*3あらす*4へからさる事、

一、石持者共不可宿借*5事、

右条々違背輩在之者、速可加成敗者也、仍下知如件、

  天正十一年八月廿九日             筑前守(花押)

                              『秀吉文書集』一、815号、261頁

 

(書き下し文)

                     摂州

                       本庄

       定               芦屋郷

                       山路庄

一、百姓に対し謂われざる儀申し懸くる族一銭切たるべきこと、

一、田畠作毛荒らすべからざること、

一、石持の者ども宿借すべからざること、

右の条々違背の輩これあらば、すみやかに成敗を加うべきものなり、よって下知くだんのごとし、

 

(大意)

 

          摂津国菟原郡本庄・芦屋郷・山路庄のものたちへ

      定

一、本庄・芦屋郷・山路庄の百姓に対して、謂れのない言いがかりをつけてくる者は「一銭切り」とする、

一、田畠の収穫を台無しにしてはならない。

一、「石持」の者たちに宿を貸してはならない。

右の箇条に違背する者は、ただちに処罰するものである。以上が下知である。

 

 Fig 摂津国菟原郡本庄・芦屋郷・山路庄の周辺図

f:id:x4090x:20200619160500p:plain

                    『国史大辞典』「摂津国」より作成

 

大坂城築城のために「石持」なる人足役が徴発されたために出された、郷村保護を目的とした禁制である。理由もなく言いがかりをつける者は厳罰に処することを約束すると同時に、田畠の耕作をおろそかにしないことを命じている。三箇条目は宿賃を取る商売を禁じているのか(田畠を荒らさぬよう耕作に専念させ、年貢徴収の安定化を図る)、むやみに見知らぬ者に宿を貸すことを禁じているのか(治安維持)、おそらく両方なのだろう。

 

 

いずれにしろ、郷村保護政策が年貢徴収を実現するためのものであることにかわりはない。太閤検地は家父長制的奴隷制社会の解体を企図し、小農民の自立を促したとかつてはよくいわれたが、秀吉の政策もまたパターナリスティックだったというのはいささか嫌みに聞こえるだろうか。

 

 

*1:菟原郡、以下同じ。図参照

*2:①「一銭でも盗んだ者は斬罪に処す」②「切は限りの意で、罪を犯した者は財産を一銭残らず没収する」③「銭は千の宛字で一千切、つまり細かく切り刻む」などの解釈があるが立ち入らない

*3:収穫、実り具合

*4:荒らす

*5:「借」という字は「借りる」「貸す」どちらにも使うが、この「定」が本庄などの郷村宛であることから「貸す」の意味になる。「日葡辞書」には「宿借り」として文字通り「宿を借りること」との説明もあるが、そちらだと意味が通らなくなる

天正11年8月22日一柳某宛羽柴秀吉書状

 

 

書状拝見候、仍堺宗久*1令逐電*2由候、如何様之子細*3候哉、沙汰外候*4、誰哉之者おとし*5候て其分*6候哉、宗久事者早〻可罷帰由可申遣候、宮法*7へも書状遣し候、其分可申付由候、将亦*8石持道*9*10、無由断申付由尤候、随普請者*11共宿事*12、播州衆*13なとも見計方切〻仕候て、宿儀可相渡候、恐〻謹言、

                      筑前守

  八月廿二日                 秀吉(花押)

    一柳[   ]殿

                        『秀吉文書集』一、806号、257頁

 

 

(書き下し文)

 

書状拝見候、よって堺の宗久逐電せしむるよしに候、いかようの子細候や、沙汰のほかに候、誰やの者脅し候てそのわけ候や、宗久の事は早〻罷り帰るべきよし申し遣わすべく候、宮法へも書状遣し候、そのわけ申し付くべきよしに候、はたまた石持道のこと、由断なく申し付くるよしもっともに候、したがって普請者ども宿のこと、播州衆なども見計らい方切〻仕り候て、宿儀相渡すべく候、恐〻謹言、

 

(大意)

 

 お手紙拝見しました。堺の今井宗久が失踪したそうで、どのような事情があったにせよもってのほかの所業です。誰かの配下の者が脅したので出奔したのか、早く戻るように申し遣わすようにしてください。松井友閑へも早く帰るように書状をしたため申し伝えてください。また石持の道中のことは、播州衆らが適当に宿を与えてください。謹んで申し上げました。

 

 

この書状は二部構成になっている。すなわち、前半では今井宗久が逐電したので戻るように手配していることが、後半では大坂城築城のために集まってくる「石持」と呼ばれる者たちの宿をうまく手配するようにと書かれている。

 

今井宗久の出奔はその後、秀吉発給文書に見えないので詳細はわからずじまいである。秀吉はこのとき宗久に裏切られたと感じたのだろうか。

 

「石持」についてもわからないが、石を切り出す「石工」ではなくそれを運搬する人足だったようだ。

 

 

 

*1:今井

*2:出奔、消息を絶つこと、失踪

*3:事情

*4:「沙汰の限り」に同じ、もっての外である

*5:脅し

*6:逐電したこと

*7:松井友閑

*8:ハタマタ、ここから別の話題に入る

*9:道中

*10:大坂城築城のために石を運ぶこと。8月28日家臣に充てて「普請石持付而掟」を発給している。809~812、814号

*11:普請のための人足

*12:上述「普請石持について掟」には彼らの宿について記されている

*13:8月1日播磨に知行地を与えられた片桐貞隆・加藤嘉明らのこと