日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

翻刻の罠 天正19年3月12日「近江国箕浦村おころ彦三郎等作職請状」

前回、宮川満氏により翻刻された史料集をもとに以下のように述べた。

 

 

「おころ彦三郎」らが、土豪の井戸村与六に「御検地の面々名付け仕り、指出仕り候とも何時によらず召し上げられ候とも、一言の子細申すまじく候」(検地帳に名請人として記載され、それを領主に差し出したとしても、いつ召し上げられてもひと言も申し分はございません)としたため(させられ)ている

 

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この最後の「したため(させられ)ている」というのは事実と若干異なるようである。峰岸純夫氏は「検地と土豪・農民」*1で、この「作職請状」がどのようにしてなったのか、ドラマ仕立てで以下のように描いている。

 

 

そう言いながら八郎右衛門はさらさらと一通の文書を相手の前に広げた。表書きには「天正十九年、井戸村与六様」と書かれ、なかには、数日にわたって調べあげたおころ彦三郎以下二六名の小作地の明細が書きあげられ、その下に署名と押判をすればよいばかりになっていた

                           

上掲書235頁、下線部は引用者

 

 

つまり、あらかじめ記載された文書に署名するだけだったという。さいわい宮川史料集の口絵には「作職請状」の写真が一部だが掲載されているので、確認しておこう。

 

Fig 近江国箕浦村おころ彦三郎等作職請状の写真

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        宮川満『太閤検地論 第Ⅲ部』御茶の水書房、1963年「図5」より

①「おころ 彦三郎(略押)」・・・おころ彦三郎が与六より「作職」を扶持された土地は以下の通りである。

②「以上」 ・・・以上が「おころ彦三郎」分である

③「衛門太郎(略押)」

④「此使(この使い) 八郎右衛門(花押)」*2

⑤「井戸村与六様」

 

青で示したアとイは「筆軸印」と呼ばれる略式の意思表示方法であり、ウの立派な花押とは好対照をなす。本文も名前もしっかりした文字でしたためられており、こちらも略式の印に似つかわしくない。やはり、八郎右衛門によってあらかじめ書きあげられた書面に押印するだけだったようだ。

 

ここに翻刻にのみ頼る罠が潜んでいる。翻刻はくずし字を活字にすると同時に多くの情報を捨象するのだ。昨今メディアが盛んにAIによる自動翻刻の話題を採り上げているが、多くの事実誤認や過大評価とともに、こうした重要な情報を削ぎ落とす致命的な欠陥に触れていないのは問題である。歴史学やアーカイブズ学への皮相な理解をそこに嗅ぎ取るのは当ブログだけではなかろう。

 

ブログ主にとって、おころ彦三郎と井戸村与六という人名は印象深いものがある。語呂の良さも手伝っているのだろうが、はじめて歴史学の講義を受けたときに読まされた史料の登場人物だったからである。様々な人名が登場する中近世移行期において、井戸村与六やおころ彦三郎らが歴史的に重要な人物であることは疑いないであろう。

 

これは蛇足だが、峰岸氏の執筆部分のみ上述したように脚本風に井戸村家とその周縁に位置する被官百姓や下人たちの歴史がわかりやすく描かれている。70年代のものだけに今日的には問題もあるが、「物語」そのものはとても興味深い。ステレオタイプの百姓像に食傷気味の方は図書館などで閲覧されることをお勧めする。

 

*1:佐々木潤之介編『日本民衆の歴史3 天下統一と農民』所収、三省堂、1974年

*2:峰岸氏によると八郎右衛門は与六の実弟

天正11年7月今堀惣中定書案

 検地の話が出たので、在地側の文書を読んでみたい。本史料はつとに注目されており、太閤検地を語る上で避けて通れない。中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)でも現代語訳が引用されている*1。その史料解釈の一部については以前疑問を述べたことがあるのでそちらを参照されたい*2
ただし、今読み返すと一気呵成に書き上げたため、真夜中のラブレターよろしくかなりイタい。
 
 
  
    定掟目条々事

一、検地之水帳*3付候物*4、相さは*5へき事、
一、人之田地のそむ*6へからさる事、
  其ぬし*7かてん*8候ハヽ、不可有別儀*9事、
一、為百姓内、迷惑*10仕様仕物*11候在之*12、掟目ことく中*13をたかい*14可申候、
右定処如件、
   天正十一年七月 日

今堀           
惣中          
連判          
『八日市市史 史料Ⅰ』226号、462頁   
(書き下し文)
 
    定む掟目条々のこと

一、検地の水帳に付き候もの、相裁くべきこと、
一、人の田地望むべからざること、
  その主合点候わば、別儀あるべからざること、
一、百姓内として、迷惑仕るよう仕る者これありそうらわば、掟目のごとく仲を違い申すべく候、
右定むるところくだんのごとし、

 

(大意)
 
     定めた掟の条々
一、検地の水帳に名請人として記載された者がその土地をすべて切り盛りすること。
一、他人の田地を欲しがってはならない。
  ただし、その土地の「主」が承諾した場合は障りのないようにしなさい。
一、百姓の内として困らせるようなことをする者がいた場合、決まりのように絶縁すること。
右のように定める。以上。
 

 

本文書は太閤検地の一地一作人の原則が在地にも浸透した証左として、解釈されてきた。何れの箇条も検地帳に記載された名請人の、土地への権利を強く保証するような文言だからである。しかし、中野上掲書はこの通説的解釈に異議を唱える。

 

二条目「つけたり」部分の「その主、合点候」の「合点」について、要請が容易に強制に転化しうるヒエラルヒッシュな村落社会においては「承諾」も「合点」もありえないと断ずる。2020年、この500年前の一郷村の事例は現実のものとなった。それはともかく、この検地帳に名請人として記載されたからといって、彼ら/彼女ら*15の権利を絶対的に保証するものではなく、土豪や名主百姓の前では無力であったことを示す妥協的文言と解すべきとする。

 

実際、天正19年に同じ近江国で「おころ彦三郎」らが、土豪の井戸村与六*16に「御検地の面々名付け仕り、指出仕り候とも何時によらず召し上げられ候とも、一言の子細申すまじく候」(検地帳に名請人として記載され、それを領主に差し出したとしても、いつ召し上げられてもひと言も申し分はございません)としたため(させられ)ている*17

 

なお以前の感想文に記さなかった疑問を一点付け加えておきたい。検地帳の呼称「水帳」についてである。中野氏はこれを「御図帳」とするが、検地の際使用する測量のための縄を「水縄」と呼ぶことには触れていない。この点も残念でならない。

 

 

*1:28~32頁

*2:

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

*3:検地帳

*4:名請人として記載された者

*5:く脱力

*6:望む

*7:

*8:合点

*9:支障

*10:困る、当惑する。迷うも惑うも困惑することの意

*11:困窮するようなことをする者

*12:者脱カ

*13:

*14:違い

*15:名請人には「後家」の記載が多数ある

*16:戦国大名浅井氏の家臣今井氏の被官

*17:天正19年3月12日「近江国箕浦村おころ彦三郎等作職請状」宮川満『太閤検地論』第Ⅲ部、196号、431~433頁。なお本年7月に、八木書店より『井戸村家文書』1、2が刊行される予定である。https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2215 https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2216

天正11年8月1日浅野長吉宛羽柴秀吉書状

前回、浅野長吉宛の知行充行状および知行目録を読んだ。今回は同じ8月1日付の書状を見ておきたい。

 

 

 

多羅尾四郎兵衛尉*1分、和束*2内千石、并しからき*3事、為与力申付候条、遂糺明*4軍役已下有様可沙汰候也、恐〻謹言、

  天正十一*5

    八月朔日            秀吉(花押)

      浅野弥兵衛尉殿

『秀吉文書集』一、750号、240~241頁
 
(書き下し文)
 
 多羅尾四郎兵衛尉の分、和束のうち千石、ならびに信楽のこと、与力として申し付け候条、糺明を遂げ、軍役以下ありよう沙汰すべく候なり、恐〻謹言、
 
(大意)
 
 多羅尾光俊が支配するうちの、和束から千石。および信楽庄について多羅尾をそなたの与力としますので、よくよく調べて、軍役などをきちんと務めるように命じなさい*6。謹んで申し上げました。
 

 Fig 山城国和束および信楽周辺図

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                   『日本歴史地名大系』滋賀県より作成

 

図を見て分かるように、和束と信楽は国を異にしているとはいえ、地続きである。信楽庄は摂関家領荘園だったが、明応年間中(16世紀初頭)に荘官だった多羅尾氏に押領された。多羅尾光俊は信楽庄小川に住む、信楽を実質支配する有力国人である。

 

与力とは、寄親である上級の大名などの指揮下に入ることで、土地を媒介にした主従関係とは異なる。したがって家臣というわけではない。与力は独立性・自立性が高い存在で、多羅尾は秀吉によって天正13年に信楽を追われるが、前年の同12年に徳川家康からも知行を充て行われており、在地土豪として隠然とした存在感を放っていたようだ。

 

こうした在地土豪が盤踞する地域においては、検地などで直接郷村を把握するのではなく、軍役徴発という間接的なかたちで外堀を埋めていったのだろう。前回見た「正福寺与力青木左京進」と同様、秀吉が直接掌握し得ない土地も近江には点在していたようである。

 

最後に下線部について述べておきたい。和束の「千石」というのは検地を行っていない以上、多羅尾の申告による数値であろうし、検地を実施したからといって石高に結ばれた数値はあくまで石高にすぎないが、年貢や軍役の負担の基準となるものである。したがって軍役などを「ありように」=ありのままに、あるべき姿で負担させることは、在地支配をより深化させることを意味する。実際、蒲生郡ではあるが浅野長吉は翌天正12年11月6日、検地の漏れを秀吉から咎められており*7、秀吉が徴発可能な線ギリギリを模索していただろうことは明らかである。

 

*1:光俊

*2:山城国相楽郡。下図参照

*3:信楽庄、近江国甲賀郡。下図参照

*4:「糺明」というと辞書的には「追及する」のニュアンスが強いが、中世文書では「よく事実関係を調べた上で」という意味で使われることが多く、ここでも後者の意

*5:書状に年代が記されるのは珍しい

*6:和束千石分と信楽庄に見合った軍役かどうか

*7:『大日本史料』第11編10冊111~112頁 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1110/0112?m=all&s=0111&n=20

天正11年8月1日浅野長吉宛知行充行状・知行目録

天正11年8月1日、秀吉は家臣に充てて知行(領知)充行状、知行目録を一斉に発給した。『豊臣秀吉文書集』一の748号から795号までのほとんどがそれに相当するところから見ても、その規模がうかがえる。知行充行状は家臣に土地を永代にわたって与えるという証文であり、とくに所領が多くの村々にわたる際は「目録別紙」として知行目録が副えられる。ここでは浅野長吉(のちの長政)宛のものを見ておきたい。

 

 

 [史料1]

江州下甲賀*1九千七拾石、同栗本郡*2内壱万千弐百五拾六石、都合弐万三百石事*3、目録別紙*4相副、令扶助畢、永代全可領知之状如件、

  天正拾壱

   八月一日                    秀吉(花押)

    浅野弥兵衛尉*5殿

『秀吉文書』一、748号、239頁
 
 [史料2]
   江州①下甲賀所〻*6知行目録事
一、九百弐拾六石六斗       菩提寺
一、弐千五拾八石         いしべ*7
 
(中略)
一、(ア)三百石            正福寺
(中略)
    ①*8八千七百九拾石
   同国栗本郡内所〻知行目録
    ②田上郷之内*9
一、六百五拾石五斗       里村
一、六百五拾六石弐斗三升    もり村*10
 
(中略)
     ②合四千三百三拾壱石五斗
一、③千五百拾壱石四斗      勢田郷
一、③五百六拾七石        南かさ((笠))
(中略)
     ③合六千九百弐十四石四斗
                  ④下甲賀正福寺 与力
一、弐百八拾石         青木左京進
 都合*11弐万三百石
  天正拾壱年八月朔日         秀吉(花押)
          浅野弥兵衛尉殿
  同上書、749号、239~240頁
 
(書き下し文)
 

  [史料1]

江州下甲賀九千七十石、同栗本郡のうち一万千二百五十六石、都合二万三百石のこと、目録別紙相副え、扶助せしめおわんぬ、永代まったく領知すべきの状くだんのごとし、

 

  [史料2]

   江州下甲賀ところどころ知行目録のこと
一、九百二十六石六斗       菩提寺
(中略)
                  下甲賀正福寺 与力
一、二百八十石         青木左京進
(以下略)
 
(大意)
 
  [史料1]
近江国下甲賀に9,070石、同じく栗太郡に11,256石、計20,300石、別紙目録の通りに充行うものとする。永代にわたって領知しなさい。
 
 
  [史料2]
    近江国下甲賀所々に散在する知行地の目録
一、926石6斗           菩提寺村
(中略)
一、下甲賀正福寺村の青木左京進を与力とし、左京進の所領280石を勘定に入れるものとする。        
(以下略)
 

 

史料2の目録にある地名を明治期の地図にプロットしてみたのが下図である。

Fig. 天正11年浅野長吉所領

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            『日本歷史地名大系』「滋賀県」より作成

一覧して気づくのは所領が一円的・空間的にまとまっていず、あちらこちらに点在していることである。われわれが現在地域別・国別などの領域を排他的に一色で塗りつぶす手法はあくまで近代的な発想にもとづくもので、歴史上すべての時代にそうした手法を持ち込むことが適切かどうかは十分に注意する必要がある。

 

次に史料2を一覧にしたのが下表である。

 

Table 天正1年8月1日浅野長吉所領一覧

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      史料2より作成

史料2の①から④までは表の番号と同じである。柑子袋村のように1600石と百石単位のところもあれば、田村のように「升」単位まで記載するなど精粗の差が激しいが、それは措いておく。

 

問題は④の正福寺村である。およそ半世紀のちの寛永石高帳では正福寺の村高は668石余りで、本文書の580石と100石ほどの差である。したがって、この580石が天正11年における正福寺の村高と考えてよさそうである。甲賀郡中惣の構成メンバーである「五十三家」には村名を名字とする家が見られ、青木家もあるところから見て*12 正福寺村在住の土豪であろう。傍線部(ア)にあるように正福寺村300石がすでに①として計上されているので、まっさらな土地ではなく、青木を浅野長吉の「与力」とすることで領主つき、俗な言い方をすれば「紐付き」の土地を与えたと考えたい。

 

つまり天正11年8月1日、秀吉が浅野長吉に充て行った土地には、①から③までの排他的で近世的な土地領有権と、④の中世的な上級領主権(本家職・領家職のような)が混在していたのである。

 

 29

 

 

*1:近江国甲賀郡

*2:同栗太郡

*3:足し合わせると20,326石となり、26石多い

*4:史料2

*5:長吉・長政

*6:あちらこちら、別々の場所

*7:石部

*8:小計

*9:タナカミゴウ、享保年間に編まれた『近江輿地志略』によれば中世の広域通称名で黒津庄4ヶ村・牧庄6ヶ村・中杣庄の3庄を含むという

*10:

*11:総計

*12:木戸雅寿「甲賀の城のネットワーク」、財団法人滋賀県文化財保護協会『紀要』19号、2006年 http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/19_kido.pdf

天正11年7月29日多賀谷重経宛羽柴秀吉書状写(抄出)

天正11年7月29日秀吉は武蔵岩付城主太田資正、常陸下妻城主多賀谷重経に長大な返書を書き送っている。二通とも写しか伝わっていないが、ほぼ同文である。ここでは重経宛の最後の一つ書きと文末を読んでみたい。

 

 

   (前略)

一、廿五日*1加州*2出馬候之処、諸城雖相抱候、筑前守太刀風*3ニ驚、草木迄靡随*4躰ニ、加州・能州*5・越州*6迄、平均ニ相果*7、依之越中境目金沢*8申城ニ馬*9を立*10、国之置目等申付候内、越後長尾*11人質を被出、筑前守次第被申候之条、令赦免*12候事、

就中従信長御時、別被仰談*13之旨、淵底*14令存知候条、是以後何ニ而茂御用之儀可被仰越候、聊不可存如在*15候、恐〻謹言、

  七月廿九日               秀吉(花押影)

      多賀谷修理亮*16殿

            御返報*17

『秀吉文書集』一、745号、237~238頁

 

 (書き下し文)
 
一、廿五日、加州へ出馬候のところ、諸城相抱え候といえども、筑前守太刀風に驚き、草木まで靡き随うていにて、加州・能州・越州まで、平均に相果たし候、これにより越中境目金沢と申す城に馬を立て、国の置目など申し付け候うち、越後長尾人質を出だされ、筑前守次第と申され候の条、赦免せしめ候こと、
 
なかんずく信長御時より、べっして仰せ談ぜらるるのむね、淵底存知せしめ候条、これ以後いずれにても御用の儀仰せ越さるべく候、いささかも如在存ずべからず候、恐〻謹言、
 
(大意)
 
 一、四月二十五日、加賀へ出馬したところ、多くの城を抱えているとはいえこちらの働きぶりに驚き、草や木が風になびくように敵がつぎつぎに降伏し、加賀・能登・越中まで平らげました。さらに越中との国境にほど近い金沢という城に本陣を構え、統治の基礎を固めているうちに、越後の長尾景勝が人質を差し出し、秀吉に一任すると申し出られたので赦免いたしました。
 
以上が北国攻めのことの次第です。とりわけ、あなた様は信長様がご存命のころより親しくされているのを存じておりますので、御用のさいは何なりとおっしゃってください。お気遣いは無用です。謹んで申し上げました。
 

 

 Fig. 北陸道三ヶ国略図

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          Wikipedia「北陸道」掲載図より作成

太田資正・多賀谷重経ともに信長と交流していたので、「なかんずく信長御時より、べっして仰せ談ぜらるるのむね、淵底存知せしめ候条」というのはまんざら社交辞令ではない。こうして秀吉は信長が築いた関東とのコネクションを継承していったようである。

 

さて、本文書でも秀吉の大仰な物言いは健在で、下線部の「筑前守太刀風に驚き、草木までなびき」は読んでいるこちらの方が赤面してしまうほどである。

 

6月28日づけで秀吉は太刀や馬などの礼状を、7月11日には「証人」すなわち人質を請け取った旨上杉景勝宛に書き送っている*18。充所はいずれも「上杉弾正少弼殿」で本文書のように「長尾」ではない。しかし4月25日宇喜多秀家宛*19、5月15日小早川隆景宛*20、翌12年8月4日金剛峯寺惣分中宛*21では「越後長尾」と呼んでいる。

 

*1:4月

*2:加賀国

*3:勇猛な戦いぶり、猛烈なさま

*4:ナビキシタガイ

*5:能登国

*6:越中国

*7:成し遂げる

*8:加賀国

*9:馬印

*10:「馬印を立て」で本陣を構え

*11:上杉景勝

*12:攻め滅ぼさずに和睦に応じたという意味。相手の言い分を「詫言」と呼ぶのと同根で、それを「許す」という論理

*13:「仰せ談じる」の「仰せ」で重経に敬意を表している

*14:くわしく

*15:気を遣わず、遠慮せず

*16:重経

*17:返書につける脇付。ここから多賀谷氏から秀吉にあてて書状が発せられたことが分かる

*18:『大日本史料』各日条

*19:653号

*20:705号

*21:『大日本古文書 高野山文書之二』343号。ただし『豊臣秀吉文書集』二では「天正12年」比定を採用していない