日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正元年12月7日甲賀郡・伊賀惣奉行人連署状を読む その3/止

 

 

一、御弓矢ノ手前、此分にて可有御落居候、并此判請之通何も下々本人衆へも具可被仰付候事、

右前書之旨無贔屓偏岐(頗)通、乍恐翻宝印、存分順路令存知異見申候、若私曲偽於申ニ者、此霊社上巻起請文御罰深厚可罷蒙者也、仍前書如件、

        甲賀郡奉行十人

               惣(花押)

天正元年癸酉十二月七日  

        伊賀奉行十人

               惣(花押)

和田殿

同御同名中  まいる

 

(ここから)

敬白 天罰霊社上巻起請文之事

謹請散供再拝々々、惟当来年号者天正元年癸酉、月並者十二ヶ月、日数者凡三百五十余ヶ日、撰定吉日良辰、致信心謹奉勧請、掛忝上者奉始梵天・帝釈・四大天王・日光菩薩・月光菩薩・三千星宿劫・(以下神仏など略)後生者阿鼻無間地獄堕□(在)未来永劫無浮事、仍霊社上巻起請文如件、

天正元癸酉年十二月七日 

         大原主□助

          鞆定(花押)

          □□□九郎次郎

          重□(花押)

 和田殿

 同御同名中参

(ここまで熊野那智滝の牛王宝印の紙背が使われている)

(書き下し文)

ひとつ、御弓矢の手前、この分にて御落居あるべく候、ならびにこの判請の通りいずれも下々本人衆へもつぶさに仰せ付けらるべく候こと、

右前書の旨ひいきへんぱなき通り、おそれながら宝印を翻し、存分順路存知せしめ異見申し候、もし私曲・いつわり申すにおいては、この霊社上巻起請文御罰深厚(じんこう)まかりこうむるべきものなり、よって前書くだんのごとし、

(中略)

うやまいもうす天罰霊社上巻起請文の事

謹請(きんじょう)散供(さんぐ)再拝再拝、おもうにまさに来たる年号は天正元年みずのととり、月なみは十二ヶ月、日数はおよそ三百五十余ヶ日とすべし、吉日良辰を撰び定め、信心をいたしつつしんで勧請たてまつり、かかるかたじけなき上は、梵天をはじめたてまつり、帝釈、四大天王、日光菩薩、月光菩薩、三千星宿劫、(以下神仏など略)後生は阿鼻無間地獄に堕在し、未来永劫浮くことなし、よって霊社上巻起請文くだんのごとし、

(大意)

ひとつ、合戦になる直前のところで、このように解決いたしました。さらにこの文書の趣旨を、甲賀・伊賀の下々本人衆へも詳細に命じること。

以上前書の趣旨を依怙贔屓なく、恐れ多くも那智滝の牛王宝印の紙背に、十分に道理を言い含めます。もしわたくしの曲事や虚偽を言う者がいれば、この起請文にある神仏の罰を受けます。

以上起請文前書はこの通りです。

(起請文の決まり文句は省略)

 

起請文は通常以下のような牛王宝印(ごおうほういん)の紙背(裏側)に書かれる。「おんな城主直虎」の最終回に井伊直政が各大名から起請文を集める場面があったが、あそこでも牛王宝印を料紙としていた。

 「那智滝 牛王宝印」の画像検索結果

 

 

 

 ちなみに神仏名は「第六天魔王」などA5版2段組約2頁分にわたっている。

古文書はやはり現物がお薦め 最近博物館に行ったとき一番感じたこと

最近博物館に行ってきた。古文書が展示されているので、ガラスケース越しだがひさびさに現物を目にした。

 

もちろん燻蒸されているので臭いはないし、和紙の手触りも感じ取ることはできない。背中がかゆくなることもない。しかし、墨の濃淡や運びは写真の比ではない。ここのところずっと新聞やテレビなどのニュースの映像越しに文書を読んできたが、現物だとストレスなく眺めることができる。

 

文書は継紙の場合、裏判と呼ばれるものが据えられ、順序を入れ替えることができなくなっている。それも手に取るようにわかり、印影も明瞭だ。

 

1980年代、戦中から戦後にかけて製造された酸性紙が大問題となった。触れると破損するため、書籍は所蔵されていても利用できないのである。マイクロフィルムで代用するしかなかった。同様に和紙も手で触れればそれだけ劣化する。利用と保管はトレードオフの関係にある。

 

しかし和紙は1000年以上耐えてきたという実績がある。墨もそうだ。しかも修復可能である。最先端技術と言っても耐用年数はシミュレーション上での仮説に過ぎず、実績はない。たとえば万年筆などと僭称するが実際のところは「三年筆」と名前を改めるべきである。

 

また碑文や墓石などの金石文はそのものでは読みにくいため拓本で読むのが良いとされている。拓本をとれるのも和紙である。

 

和紙に耐性があるからこそ、日本銀行券は楮や三椏などを原材料としているのではないか。

 

墨と和紙にもう少し親しんでもよいと思う。

 

 

天正元年12月7日甲賀郡・伊賀惣奉行人連署状を読む その2

こちらのつづきを読んでみる。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

□(一、)五段田へ取申候長福寺同宿の脇指、来廿日ゟ内ニ走舞を以而可返迄候、然者脇指取候者之内一人、当月廿五日ゟ被召失、来亥才二月廿五日ニ可被召返候事、

 

 

(書き下し文)

□(ひとつ、)五段田へ取り申し候長福寺同宿の脇指、来たる二十日よりうちに走り舞いをもって返すべきまで候、しからば脇指取り候者のうちひとり、当月二十五日より召し失せられ、来たる亥の才二月二十五日に召し返されるべく候こと、

 

 

*長福寺:現万寿寺(三重県伊賀市柘植町)

igakanko.net

 

位置関係は以下の通り。

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Google マップより作成

 

 

*走舞:奔走、尽力


*来亥才:天正3年


*同宿:同僚の僧

 

*召返:もとに返す

 

(大意)

ひとつ、五段田村側が奪い取った長福寺の僧侶の脇指について、尽力した結果今度の二十日以前に返すべきと決した。そのうえで脇指を奪い取った者のうちひとりが、当月二十五日から逃亡し、天正3年2月25日までに村に戻るようにすること。

 

 

ここで山に入った上柘植村の者の脇指を、五段田村側が奪い取っている。藤木久志氏によればこういう行為を「鎌を取る」と呼び、中世社会に広く見られた習俗であるという。

 

ちなみに藤木門下生の一人が清水克行氏である。

 

またここから中世末期の村人が帯刀していたこともわかる。刀狩後の近世でも在村鉄炮と呼ばれる鉄炮が見られた。しかしそれらは農作物を荒らす獣害に対抗して威嚇のため使用される、武器ではなく、農具としての鉄炮であった。

 

260貫文は銭26万枚か?

新井堀の内遺跡で大量の埋蔵銭と「二百六十」「貫」(または「くわん」)と墨書された木簡が同時に発掘された。

 

  260貫文=260,000文

 

これは正しい。しかし、出土した遺物には「繦」(ぜにさし)と呼ばれる紐のようなものも見られる。

www.kahoku.co.jp

 

1文銭を96枚貫いたものを100文とするのが「九六銭」で、100枚で100文とするのは丁銭と呼ばれ、例外的である。かりに260貫文入っているとすれば計算式は

   2,600*96=  249,600枚(九六銭)

  2,600*100=   260,000枚(丁銭)

の二本立てになる。

「安政元年」2月27日篤姫宛栗川孫吉書状を読む

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安政元年二月二十七日(平出)
安芸守様御病気御養生不施・・・
叶(闕字)被遊大磯別荘ニ於テ御逝去
早々篤君様へ可被達候、
  二月二十七日
            栗川孫吉
篤君様


(書き下し文)


安政元年二月二十七日、安芸守様ご病気ご養生施こしかなわずあそばされ、大磯別荘において御逝去、早々篤君様へ達せらるべく候、

 

*安芸守:島津忠剛