日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

「天正3年3月17日今川氏真宛織田信長朱印状」

2017年10月8日放送分「おんな城主直虎」にて今川氏真が、織田信長の命により蹴鞠を披露する場面が紹介された。そこに登場するのが「天下布武」印が捺された朱印状である。

 

 

日付は「七日」と見えたので天正3年3月7日か17日、宛所は上総介=氏真宛、文面は「可被列鞠会」つまり「鞠会に列せらるべし」と読める。したがって文書名は「天正3年3月(1)7日今川氏真織田信長朱印状」となるが、残念ながらこの文書は見つけられなかった。「石川忠総留書」に17日氏真に鞠所望ありの文言が見えるので(東大史料編纂所データベース史料総覧稿本)、ここから「天正3年3月17日付朱印状」のヒントを得たのかも知れない。

 

 

3月16日氏真は信長の宿舎である相国寺へ出向き百端帆を献上し、蹴鞠の会は20日に行われた(『信長公記』など)。

 

*百端帆:和漢船用集〔1766〕八・呼帆為船名之に「五枚帆 或は五端、拾端、十五端、二十端、三十端と云て、帆の布数を呼て舟の名とす」とある。

 

 

天正10年6月13日乃美宗勝宛足利義昭御内書解釈への疑問

本能寺の変後、足利義昭が再上洛を果たそうして様々な大名に働きかけていたが、なかでも6月13日付の御内書は有名である。

 

本法寺文書:引用は『大日本史料』第11編2冊801頁)

 

信長討果上者、入洛之儀、急度御馳走由、対輝元・隆景申遣条、此節弥可抽忠切事肝要、於本意可恩賞、仍肩衣・袴遣之、猶昭光・家孝可申候也、

  六月十三日           (義昭花押)

    乃美兵部丞とのへ

 

(書き下し文)

信長討ち果つる上は入洛の儀、きっと御馳走のよし、輝元・隆景に対し申し遣わすの条、この節いよいよ忠節をぬくんずべきこと肝要、本意においては恩賞すべし、よって肩衣・袴これを遣わし、なお昭光・家孝申すべく候なり、

 

 

この冒頭部分を「信長を討ち果たす上は」と解釈するのには違和感を覚える。「対輝元・隆景」が文法通りなのに、「討果」を他動詞と解釈してもよいのだろうか。「信長討ち果つる上は」と自動詞として解釈する方が自然だと思われるのだが、興奮のあまりか、あるいは強調したかったのかで倒置的な表現になってしまったのだろうか。

 

ちなみに大日本史料の綱文は「足利義昭織田信長薨去に乗じ、毛利輝元に頼りて、京都に復帰せんとす」とあり、自動詞と解釈している。

 

11月2日島津義久宛御内書(同935頁)では

 

今度織田事、依難遁天命、令自滅候、

 

(書き下し文)

このたび織田のこと、天命遁れがたきにより、自滅せしめ候、

 

とある。すでに明智光秀の手によって殺害されたことが明らかなので、6月13日付の文書のように自らが信長を討ち果たしたとはいえず、「天命によって自滅させた」という因果応報の論理を持ち出したのかも知れないが、やはり文法的には乱れがない。

 

義昭の再上洛への執念と信長への敵愾心はすさまじいものがあるが、「信長を討ち果たす上は」ではなく「信長討ち果つる上は」と読んだ方がよいと思われるだが、いかがなものだろうか。

2017年10月6日に報道された秀吉直筆の文書を読んでみる について少々弁明

昨日以下の記事を書いたが、「あり」ではなく「あか」と読み「英賀」を指すのではという話を小耳に挟んだので、弁明(=逃げ道を用意)したい。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

仮名の「か」と「り」はよく似ていて、伊地知鐵男編『増補改訂仮名変体集』(1966年初版、新典社)でも「りはわ・か・れ・ると誤りやすい」とある(32頁)。

 

実際にこういったサイトもあるくらいだ。

#くずし字 変体仮名の「可」がいろんなものに似すぎている件 | 超・珍獣様のいろいろ

http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/wp-content/uploads/2016/05/IMG_5079s.jpg

同サイトの画像から引用。

http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/wp-content/uploads/2016/05/IMG_5079s.jpg

 

姫路市飾磨区に英賀という地名があるので、ここを本貫とする地侍の可能性もある。ただ確認はできなかった。

英賀 - Wikiwand

英賀合戦 - Wikiwand

英賀城 - Wikiwand

英賀城-兵庫県-〜城と古戦場〜

英賀神社 - Wikiwand

 

www.agajinja.jp

 

いずれにしろ秀吉の陪臣であり、そこまで支配が及ぶとなると、小出秀政との主従関係はわりと限定的だったといえる。陪臣の立場でいえば、主人が自身の扱いを等閑視すれば越訴、つまり段階を超えて秀吉に直接訴え出ることで待遇改善ができるということになる。越訴の代表例が時代劇で見る直訴であるが、これは身分制度を揺るがしかねないもので、現代でもあまり望ましいこととはされていない。そういう点でも興味深い史料である。

 

信長、家康にくらべて秀吉発給の文書はかなり多く、事実信長、家康の文書集は刊行されて久しいが、秀吉のものは全9巻のうち天正16年までの3巻しか出ていない。軍記物や講談、時代劇などでイメージが固まっている感があるが、一次史料の全貌はまだまだ把握できていない。今後も新発見はあり得るだろうし、逆にあったはずのものが散逸していることもある。現在デジタル化によって多くの情報が得られることは確かであるが、現物に触れないと得られないものもある。秀吉研究はまだ緒に就いたばかりである。

 

 

2017年10月6日に報道された秀吉直筆の文書を読んでみる

本日もまた秀吉直筆の文書が見つかったと報道された。

www.kobe-np.co.jp

https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201710/img/b_10619904.jpg

画像は2017年10月6日17時付神戸新聞より

 

https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201710/p1_0010619903.shtml

 

五人ふちありけんハ

に出し可申候

なり

  天正十三月十日     (秀吉花押)

             甚さいもん

 

 (書き下し文)

五人扶持、ありけんはちに出し申すべくそうろうなり、

 

 

*ありけんハ:この文書の宛先の家臣。

 

*甚さいもん:甚左衛門、小出秀政(1540~1604)のこと。尾張中村に生まれ、天正10年(1582)播磨姫路城の留守居の筆頭となる。

 

天正十三月十日:天正十年の年を省いた書き方。

 

石田三成島津分国検地掟写を読む その3

以下の記事の続きを書いてみる。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

(四条目)

一、藪之事、其藪々々とし々々十分一きり十分一之内を藪主十分一可遣之候、 たとへ百本在之やぶて、一年竹拾本きり九本公方へ上り、一本藪主とり、九拾本立置分相定、可書付事、

 

(書き下し文)

一、藪のこと、その藪その藪にて、としどしに十分の一きり、十分一のうちを藪主に、十分の一これを遣わすべく候、 たとえば百本これあるやぶにて、一年に竹拾本きり、九本は公方へ上り、一本藪主とり、九拾本は藪に立ち置く分にあい定め、書き付くべきこと、

 

*其藪々々、とし々々:宮川著書では踊り字は「くの字点」。二文字ずつの繰り返しは本来「くの字点」を使うが機種依存文字である上、縦書きにしか使えないので「々々」で代用した。ひらがなの踊り字は「ゝ」なので「としとし」は「としゝゝ」で代用すべきところだが、煩雑なため上述の様にした。

なお、踊り字については以下を参照されたい。

www.wikiwand.com

 

Wikipediaに「二の字点」の記述もある。厳密には「々」と「二の字点」は区別され、活字もそれぞれ用意されているが、戦後は「々」に統一される傾向があり、もはや絶滅しつつある。

 

http://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/kokken_mado/04/03/mado04_03_01.jpg

http://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/kokken_mado/04/03/mado04_03_01.jpg

www.ninjal.ac.jp

https://www.sanseido.biz/DispRes.aspx?fi=d82f1904-583a-423f-8318-74cad01cc734

 https://www.sanseido.biz/DispRes.aspx?fi=d82f1904-583a-423f-8318-74cad01cc734

 

なお、ATOKでは「おどりじ」で変換すると、「々」のほかに「ゝ」「ヽ」などが候補に挙がる。

 

(大意)

 

 ひとつ、藪のこと、その藪その藪において十分の一だけを伐採し、そのさらに十分の一を藪主に渡すようにしなさい。たとえば百本あるやぶでは、一年に竹を10本だけ切り、そのうち9本は公方へ納め、残りの1本を藪主の分とする。90本は藪に残すようにし、帳面に記載しなさい。

 

藪は薪をはじめとする様々な資源が取れる場所である。ここで豊臣家へ納めるものと藪の持ち主の取り分を9:1とし、さらに毎年伐採する割合を1割に決めており乱伐を禁止している。「藪主」がひとりの地主を意味するのか、それとも入会地とする村々のことか明らかでないが、いずれにしろ秀吉による介入が見られる。

 

前回も触れたが、秀吉は米だけで満足することはなかったようである。