日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの古文書オタ、いえ歴史学徒として史料を読んでいきます

石田三成島津分国検地掟写を読む その1

文禄3年(1594)7月16日石田三成が「薩州奉行」へあてた検地掟を少しずつ読んでみる。典拠は宮川満『太閤検地論第Ⅲ部』327~328頁(1963年、御茶の水書房)によった。

 

  34. 石田三成島津分国検地掟写(長谷部文書)

(端裏書)

「石治少様掟之写十壱ケ条」

  

     覚

一、今度就検地、浦役之事、年貢つもりニもり付候歟、不然者、当座々々見計可申付候、其村浦之躰ニより可申候之条、何篇公方へ上り可申物令分別、帳ニ可書載事

 

一、山役之儀、右可為同前事

(途中九ヶ条略)

   已上           石治少様 在判

  文禄三年七月十六日

    薩州奉行中

 

 

*浦役:いわゆる漁村のことを当時は「浦」と表現した。ここでは「浦」にかかる年貢のこと。

 

*年貢つもりニ:耕地を中心とした村にかける年貢と同様に、という意味。

 

*当座々々見計:「々々」の部分は原文では「くの字点」=二文字の繰り返しを表現する「踊り字」だが機種依存文字のため、このように表現した。そのときそのときの状況によって判断する、という意味。

 

*其村浦之躰:その村や浦の状況。ただ「村や浦」なのか「村」と呼ばれる漁村のことなのかの判断は保留する。

 

* 公方:『邦訳日葡辞書』(159頁)によれば「将軍のこと、日本全体の総大将、あるいは総司令官の位」とあり同義語として「御所」「上聞」「上意」を挙げている。また中世では荘園領主なども公方と呼ばれていた。「公方へ上り申すべき物は分別せしめ」とあるように、島津へ納める年貢とは区別するように注意しているのでここでは秀吉のことを指すと思われる。

 

*帳:検地帳のこと。

 

*山役:山深い、耕地のほとんどない村にかかる諸役のこと。村の生産高は石高で表現するものの、実際は米が取れない場合に代用品や銭をもって納める年貢諸役のこと。

 

*石治少様在判:ここに「石治少」様の判がありましたという意味。ただし、このように差出人が自らを省略して書くのは薄礼(=相手に対して尊大)にあたるので、写をとったものができるだけ再現性の高いものを、とした可能性がある。仮に原本も同様に書かれていたのだとすると、「薩州奉行」に対して石田三成はかなりの高位に属していたということになる。とすると、この「薩州奉行」は秀吉の直臣ではなく、石田家中の者か島津家家中の者と判断すべきなのかも知れない。

 

*薩州奉行:薩摩国の検地を担当する秀吉の検地奉行のことなのか、島津家の家中のもので検地を担当する検地奉行の者を指すのかはこの史料だけでは判断できないので保留とする。

 

 

(書き下し文)

 

 (端裏書)

「石治少様掟の写十壱ケ条」

ひとつ、このたび検地について、浦役のことは年貢つもりに盛り付け候か、しからずんば、当座当座見計らい申し付くべく候、その村浦のていにより申すべく候の条、いずれへん公方へ上り申すべき物分別せしめ、帳に書き載せるべきこと

 

ひとつ、山役の儀、右同前たるべきこと

 

端裏書とは、文書を折って保管するので開くまでなにが書いてあるかわからないため、裏側に索引代わりに要約をつけたものである。通常文書は内側に折り込み、文頭が最初に来るようにしていた。もちろん後世の人が書いた可能性もあるし、これは「写」であって原本ではないので、本文自体がこの日付からどれほど経って書かれたものか、これだけでは判断できない。

 

 

端裏書によれば、石田治部少輔三成が出した(発給という)「掟」11カ条の「写」とわかる。治部少輔とは律令制の官職で治部省の次官(すけ)という意味だが、現実には形骸化している。しかし「越前守」(=越前の国司の長官(かみ))のように任官される者、勝手に自称する者がいたことから、かなりの権威づけになったようだ。

 

 

 

この最初の二条を見ると、いわゆる漁村や山村など田地が主要でない村々の検地にあたっての注意書きとみられる。「このたび検地について、浦役のことは年貢つもりに盛り付け候か、しからずんば、当座当座見計らい申し付くべく候」とあるように、今回の検地で村高を年貢と同様に決めるのか、それともそのときそのときで判断してきめるのかを、その村浦の実態に即して決めなさい、としている。石高制では村を米の収穫高(村の石高については、近年また見直しがされている)で表すが、日本全国どこでも米ばかり作れる環境にあるわけではない。しかしそれも含めて秀吉は「山の奥、海は櫓櫂(ロカイ=舟を漕ぐ艪のこと)の続き候まで」、しかも検地に反対する村があれば「一郷も二郷も撫で切りにせよ」という強い意志で検地を行った。したがって、その基準に合わない村々も石高制に包摂する必要があったのだ。

 

「山の奥、海は櫓櫂の続き候まで」「一郷も二郷も撫で切りにせよ」の史料紹介もいずれ行いたい。