引き続き文禄3年「石田三成島津分国掟写」を読んでいく。
(三条目)
一、綿之事、兎角公方へ上り可申物ニ候間、米成にても又綿にて成共、百姓も迷惑不仕様ニ、又公方之失墜も不行様ニ、其所之桑之有様躰見合つもり候て、帳ニ可書載候、然上者、桑之在之屋敷並畠、何も上畠ニて不可在之事、
(書き下し文)
ひとつ、綿のこと、とかく公方へ上り申すべき物に候間、米成りにてもまた綿にてなるとも、百姓も迷惑仕らざるように、また公方の失墜も行かざるように、そのところの桑の有り様ていに見合わせ積もり候て、帳に書き載せるべく候、しかるうえは、桑のこれある屋敷ならびに畠、いずれも上畠にてこれあるべからざること、
*綿:宮川満氏によれば「絹カ」としている。桑の記述があることからここでは宮川氏の解釈にしたがう。
*米成にても又綿にて成共:「成」(ナリ)は本来年貢率を意味するが、ここでは「米で納めるかあるいは絹で納めるか」という意味とした。あるいは、米年貢の基準を用いるか、それとも絹の課税率を用いるか」という意味も考えられる。
*公方へ上り可申物:公方は豊臣秀吉。小物成のこと。
*失墜:金銭などが滞ること。ここでは、年貢や諸役の未進を意味する。
*有様躰見合つもり候て:実態をよく見極めた上で。
*上畠にてこれあるべからざる:ここでは「石盛」の基準について述べている。上畠並みの石盛は不可とし、おそらくそれよりきびしい基準で石盛をつけなさい、という意味と思われる。桑の木が屋敷や畑にあるということは絹を作っているのではないか、と考えていたのかも知れない。
(大意)
絹のことは特に豊臣家へ納めるものであるから、米で納めるにしても絹で納めるにしても、百姓どもが迷惑しないように、かつ収納の漏れがないように、桑の木の実態を調べて検地帳に(その耕作人を)記載しなさい。そういうことだから、桑の木が植えてある屋敷地や畑には上畠の基準を用いてはならない。
この条文だけを読むと、石田三成の行った検地が田畑のみではなく絹などの小物成と呼ばれる「雑税」にも注目していたことが分かる。雑税扱いされていたが、11条の内の3条目にあることから、案外重視していたのかも知れない。まさに「山の奥、海は櫓櫂の続き候まで」の文言通り、米のみならず海の幸・山の幸までも視野に入れていたといえよう。