猶々急度可遣上使*1候へ共、上使銭以下造作*2之条、立佐*3差遣候、若於由
断者、自是*4可申付候、以上、
英賀*5にけのき*6候もの共、預ヶ物*7可在之条、悉以可運上*8候、自然於相隠置者、後々聞付次第可成敗者也、
藤吉郎
卯月廿六日*9 秀吉(花押)
惣中
「一、234号、77頁」
(書き下し文)
英賀逃げ退き候者ども、預ヶ物これあるべくの条、ことごとくもって運上すべく候、自然相隠し置くにおいては、後々聞き付け次第成敗すべきものなり、
なおなお急度上使遣わすべく候え共、上使銭以下造作の条、立佐差し遣し候、もし由断においては、これより申し付くべく候、以上、
(大意)
英賀城から逃げ出した者の預け物があるとのこと、すべて差し出しなさい。万一隠し持っている者がいた場合、後日露見した際はその場で成敗します。
なお、必ず上使を差し遣わしますが、上使銭以下の諸費用、手間については小西隆佐を派遣するのでよくよく相談して不調法のないようにしてください。万一まとまらないときはこちらから直接命じます。
図 網干・英賀周辺図
網干、英賀ともに、日本でもっとも有名になった史料のひとつである「兵庫北関入舩納帳」に船籍地として見える交通の要衝であり、商業が盛んだったことで知られている。本文に見える「預ヶ物」は、英賀の一向宗徒が焼失を避けて近隣の町場である網干の土倉などに預けて置いた金品であろう。秀吉は敵対勢力が預け置いた動産をことごとく没収するという手段に及んだわけである。二日前の24日には、播磨の国人である安積将監宛に「一人も遁さず搦め捕り候か、首討ち出でらるべく候」(232号)と残党狩りを徹底するよう依頼する旨の書状を書き送っている(長水城についても同様、233号)。
尚〻書きの部分では、使者を迎える準備を網干惣中と小西隆佐が相談の上、準備怠りないようにと指示している。小西隆佐が秀吉と網干惣中を仲介する立場にあったのだろうか。