日本史史料を読むブログ 

日本中近世史史料講読で可をとろう

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

映画やドラマでの自称・他称問題と学校教育における「体罰」問題

 

映画やドラマを見ているとおかしな言葉を使う場面にしばしば出くわす。その代表例が「犯人グループはテロリストを名乗っています」というものだ。

 

テロリストのほとんどは、自身の行為を思想信条から絶対的正義にもとづいた正統性をもつものと信じている。現世や現体制下の秩序や法体系などは不正義で、それらを超越した「正義」を実行している確信犯である。

 

したがって彼ら彼女らによる犯行声明は「正義の実現」を目的とする旨が書かれている。みずからを「救世主」「革命戦士」などと呼ぶことはあっても、対外的に「テロリスト」などと名乗ることはあり得ないのだ。

 

 

話は飛ぶが「スクールロイヤー」が登場するドラマを見た。ある種の期待を持って見たのだが、その望みはみごとに打ち砕かれた。

 

昭和二十二年法律第二十六号

 

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない

 

これは学校教育法の条文である。この法律施行以後「体罰」は違法行為と認定され、現在にいたっている。いかなる場合であれ「体罰」は禁止されているのだ。この法的知識抜きに体罰問題が論じられているのが現状であり、それに一石を投じるドラマになるのでは、と期待していたのだ。

 

しかし、スクールロイヤーはこの法的根拠を説明せず、いきなりある行為が「懲戒」にあたるか「体罰」にあたるかの議論に入ってしまった。

 

体罰」は教育的効果があるから必要だという主張をときどき見かける。しかし違法行為を効果覿面だから採用すべし、と言い換えてみれば如何であろうか。これは教育的効果を絶対的正義とすれば現行法は不正義であり、これにひるむことなく「正義」を実行すべし、という主張に容易に転化しうる。確信犯である。

 

どうしても採り入れたいのなら「愛のムチ」「インセンティブ」などと言い換えることで懲戒の範囲内に納める方法がより堅実であるとは思う。