日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

2018年4月20日付のある地方紙の記事について

 

先日次の記事を書いた。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

当ブログはこの記事に対してむしろ好感を覚える。「幕府」といった初歩的な勘違いはともかく、文書の写真が掲載されていることは望ましいことだと思う。写真によってその文書がいかなるものか判断する材料が提供されているからだ。解釈は読者に任せる、そういうスタイルがあってもいいと思う。

 

朱印はまるで芋版で、文書としての完成度は低い。80年代までの時代劇では、一般人が朱印を据えた借用証文を平気で使っていたが、感覚的にはそれに近いと思う。「百万円札」のようなジョークとして作られた可能性すらある。あるいは小中学生の自由研究の作品と考えれば、かなりのレベルだ。

 

さてこうした歴史資料を観光資源として活用する事例は近年珍しくないし、またそのこと自体は責められるべきことではない。ただ、史料解釈にまで観光の論理先行という風潮は問題があると思う。

 

観光先行の説明には、ときどき首をかしげざるを得ないようなものがある。しかし、質問しようにもそれらしき人がいないことがしばしばである。

 

こうしたフラストレーションはテレビや雑誌の記事などによってさらに増幅される。だまされている気がしてならないのだ。

 

 

「英語で日本史を説明できる」ようなことはもちろん大切だと思う。しかし、それ以前に史料を読めるようにすることはもっと重要である。海外にも日本史研究者がいることを忘れてはならない。