於肥後国領知方、都合拾九万四千九百拾六石、目録<別紙在之>事、被宛行之訖、但此内弐万石国侍*1ニ可被下之条、御朱印次第*2相渡、則其方可致合宿*3、其外見宛*4全可令領知候也、
天正十六
後五月十五日*5(朱印)
加藤主計頭とのへ*6
(三、2514号。<>内は割註、下線部は引用者による)(書き下し文)肥後国において領知方、都合19万4916石のこと<目録別紙これあり>、これを充行われおわんぬ、ただしこのうち2万石国侍に下さるべくの条、御朱印次第相渡し、すなわちその方合宿致すべし、そのほか見宛てまったく領知せしむべく候なり、(読みやすさを優先しアラビア数字に改めた)(大意)肥後国の領知について、都合19万4916石のこと(目録は別紙参照)、これを充てがう。ただしこのうち2万石は国侍に与えるので、朱印状が発せられ次第知行地を彼らに渡し、そなたの寄子としなさい。そのほかは可不足なく領知するように。
19万4916石を清正に与えるという領知充行状である。ただしそのうちから2万石を国侍たちに後日朱印状が発給され次第彼らに分与するようにとする。つまり差し引き17万4916石が清正の知行地で、国人一揆の戦後処理が落ち着くまで暫定的に2万石分余計に預かるわけである。領知の具体的な内訳は次号の文書を読む際に示す。