河内国中銭之取渡之事、京・堺如相定可在之旨*3申遣候間可有其御意得*4候、恐〻謹言、
羽筑
十二月四日*5 秀吉(花押)
池田丹後守殿*6
多羅尾玄蕃殿*7
野間左吉殿*8
御宿所
「一、537号、172頁」
(書き下し文)
河内国中銭の取り渡りのこと、京・堺相定るごとくこれあるべき旨申し遣わし候あいだ、その御意得あるべく候、恐〻謹言、
なおもって段銭・諸成物など、銭年貢のこと、三文立たるべく候、已上、
(大意)
河内国において銭のやりとりについては京・堺で定めたのと同様にすべしと命じましたのでその通りにしてください。謹んで申し上げました。
なお、段銭やそのほかの銭納年貢は「三文立」にしてください。以上。
充所の三名は三好義継が若江城主だったころの重臣で若江三人衆と呼ばれる。織田信長は天正元年以降河内の北半分を、三人衆に半国守護として統治させており、本文書中に見える「段銭諸成物」はこの守護公権にもとづくものであろう。
下線部の「三文立」という表現は同年10月の「銭定之事」*9にも見える。
<参考史料>
銭定之事
一、なんきん*10銭、うちひらめ*11銭、この二銭のほかハゑら*12むへからさる事、
一、右ニ銭之外ハ、三文立にとりやり*13すへき事、
(以下略)
<参考史料>では、南京銭、打平銭以外は撰銭を行わないように、つまり銭を請け取る側が銭の選り好みしてはならない。この二種類の銭以外は「三文立」でやりとりすべしと定めている。この「三文立」はおそらく永楽銭に対し、悪銭で三倍をもってあてるという意味であろう。文書中では通常「永楽銭で〇貫〇文」と書かれるが、実際に流通している銭の種類は様々で「永1貫文=銭3貫文」などのレートで取り引きされる。今日でいう「円建て」「ドル建て」のようなものといえる。
また、「多聞院日記」によれば筒井順慶が 9月13日に奈良に撰銭令を出しており、「三貫直(アタイ、値の意)にこれを取るべし」と見える*14ので、織田分国中は永楽銭と悪銭の交換レートが1:3だったようだ。
表 「三文立」計算例
この文書は私的な書状という形式ながら、内容としては秀吉が若江三人衆を引き続き守護と認めたものと考えてよいだろう。とすれば、少なくとも河内においては秀吉が守護任命権を独占的に掌握していたと見ることができる。もともと織田政権の宿老合議制が織田分国中を統一的に支配していたのか、四名それぞれが分割して支配していたのか(不勉強のため)不明だが、この時期は秀吉が単独で掌握しうる地域が存在したということになる。
また筒井順慶が奈良に撰銭令を出していることから、撰銭令などは国単位で触れ知らせるべきものであったのかもしれない。