今度(闕字)御両殿様*1不慮之儀付而、城介殿*2若子様*3、為宿老*4中奉守、天下之義被仰付候、然者洛中政道方、先奉行*5裁許、於順路*6者、可為如其置目*7候、若非分*8族*9於在之者、被成御改*10、可被加御宥免*11之条、前後之儀*12無其憚*13可令言上候、為其尋*14遣*15候、恐〻謹言、
惟住*16五郎左衛門尉
六月廿七日*17 長秀
羽柴筑前守
秀吉
池田勝三郎
恒興
柴田修理亮
勝家
上下京中
「一、445号、140頁」
(書き下し文)
このたび御両殿様不慮の儀について、城介殿若子様、宿老中として守り奉り、天下の義仰せ付けられ候、しからば洛中政道方、まず奉行裁許、順路においては、その置目のごとくたるべく候、もし非分の族これあるにおいては、御改なされ、御宥免加うらるべくの条、前後の儀その憚りなく言上せしむべく候、そのため尋ね遣し候、恐〻謹言、
(大意)
このたび信長様・信忠様が不慮の死を遂げられたので、信忠様の若君を宿老中としてお守りし、天下を治めていくことになりました。したがって洛中の仕置はまず町の奉行が裁許し、正当であればその決定通り処罰しなさい。ただし異議のある場合は政権が調べ、宥免するので、遠慮なく言上しなさい。そのために問い質す者を遣わします。
本文書の日付はいわゆる「清洲会議」が行われた日で、同日高山右近、堀秀政宛に上記4名連署の知行充行状が発給されている*18。下線部に記されているとおり、宿老4名による織田政権は機能していたといえる。
信長・信忠父子死後の織田政権を「宿老中」として支えていくとあり、そういうことだから洛中の仕置もまず「奉行」が裁定し、道理があれば処罰すべきとする。ただし、この裁定に異議がある者は、織田政権が調べ、宥免するので遠慮することなく申し出よと述べている。ここから上下京中の自検断をほぼ認めていたと解釈できるが、共同体の検断に問題があれば「言上」し、上級権力の裁定を仰ぐように認めている点に近世的な秩序を見出すこともまた可能であろう。