天正16年島津義久宛に与えられた在京賄料が、文禄3年、同4年に改めて義弘に与えられた。その記載例は以下の通りである。
知行方目録
先高 摂州豊嶋郡
一、千八百石 栢野村
出米
九拾壱石三斗四升 同村
(以下略)
島津家文書之一 443号文書 434~436頁
下線部の「先高」は天正16年の知行充行の際の石高であり、「出米」は文禄3年に検地により新たに打ち出された石高である。その一覧を見てみよう。
Table.1 文禄3,4年の在京賄料 赤字は計算値
Table.2 天正16年の在京賄料
摂津国豊島郡栢野村のように「先高」に対して「出米」が5%程度の村から、同国能勢郡倉垣村のように127%に上る村までばらつきが多い。村ごとの比率をグラフにした。
Fig. 文禄3年 在京賄料 「先高」と「出米」の比率
「先高」を超える「出米」が打ち出された村もいくつか見える。天正検地にくらべて文禄検地は相当厳密だったようだ。その原因として考えられるのは、①天正検地後新たに開発した田畠の検地帳への登録、②隠田の摘発、③従来の石盛の見直しなどであろう*1。その分村数は減らされたようである*2。