日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

慶長5年7月17日立花宗茂宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署副状写を読む

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この映像に次のようなナレーションが流れる。

<ナレーション>


この地(佐和山)で家康打倒の密談を行い、その罪を列挙した書状を諸大名に送ります

 

 しかし「罪を列挙した書状」そのものでなく、上記の文書を持ち出すのはやや不親切であろう。

 

まず、この文書を読んでみる。

(小切紙か)

急度申入候今度景勝発向*1之儀
内府公上巻之誓帋*2并被背(平出)
太閤様御置目秀頼様被見捨出馬候間
各申談及鉾楯*3内府公御違之条候
別帋*4ニ相見候此旨尤と思召(平出)
太閤様不被相忘御恩賞候者(平出)
秀頼様へ可有御忠節候恐惶謹言
          長束
   七月十七日   正家
 柳川侍従殿*5   増右
     人〻御中  長盛
          徳善
           玄以

(書き下し文)

きっと申し入り候、今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙ならびに、太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候あいだ、おのおの申し談じ、鉾楯に及び候、内府公御違の条候、別紙にあい見え候、この旨もっともと思し召し、太閤様御恩賞をあい忘れられず候わば、秀頼様へ御忠節あるべく候、恐惶謹言、 

(大意)

必ず申し上げます。このたびの会津攻めは、家康公が五大老五奉行連署した誓紙および太閤様のご遺言に背き、秀頼様を見捨てられ、出馬したので、われらで相談し、合戦に及ぶとの結論にいたりました。家康公が約束を違えたことは別紙にあるとおりです。この趣旨にご賛同くだされ、太閤様の御恩を忘れられないのでしたら、秀頼様へ御忠節を尽くしてください。謹んで申し上げました。

 

この文書は副状*6である。ではどの文書の副状か、下線部にあるとおり同じ日付で発せられた「内府ちがひの条〻」である。「条〻」とこの副状が一組で「筑紫古文書」に写し取られている。「大日本総合史料データベース」の同日の条を見ると、前田利長、筑紫広門、堀尾吉晴島津義弘あての文書が採録されている*7

 

また「義演准后日記」*8翌々19日条に「十三ヶ条数*9、流布し、一見しおわんぬ」とあり、「内府ちがいの条〻」が主役であることを物語っている。

 

「我々は相談し、家康との戦いに及ぶこととした」と解説するが、それでは単に私戦を企てることになり、豊臣政権の後継者を名乗ることができなくなる。その蜂起の正統性を示すのが「内府公御違之条候別帋」であり、副状であるこの文書を単独で扱うのは適切な取り扱いとはいえない。そもそも秀吉の「惣無事」を認める立場なら、自分たちの戦いが「公儀」であることを明らかにしなければならない。2通1組で解釈すべき所以である。

 

ただ「内府ちがひの条〻」の本文を扱うさい「五人之御奉行」*10「五人之年寄」*11の意味を丁寧に説明する必要があるので止むを得ないともいえる。

 

 

まとめておこう。

1.この文書を副状であることを踏まえずに解釈するのは危険である。

 

2.諸大名に檄を飛ばす以上は公儀の戦であることを示さなければ正統性は得られない。そこで「内府ちがひの条〻」の添状であることの意味が重要になってくる。

 

3.しかし、「内府ちがひの条〻」の解説は注意を要するため、こうしたナイーブな説明に傾くのももっともかもしれない。

 

 

*1:軍勢をもって攻め入ること、会津攻め

*2:誓紙、慶長3年9月3日五大老五奉行連署起請文、たとえば浅野家文書106号

*3:ホコタテ、合戦

*4:別紙、内府公御違之条

*5:立花宗茂

*6:一般には高貴な人の意を奉って文書を作成した右筆などが、別にその文書に副えて、それを発給したことを伝える書状形式の文書をいう。しかしこの文書の場合差出人は同じであり、本状を要約したものであるという点で異なる

*7:画像表示 - SHIPS Image Viewer

*8:義演は醍醐寺の第80代座主

*9:箇条書きにした文書

*10:いわゆる「五大老

*11:いわゆる「五奉行