日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

慶長3年8月6日石川光元宛豊臣五奉行衆連署状(大阪城天守閣蔵)を読む

大阪市制100周年記念「華」ー大阪城天守閣名品集図録79号文書、別冊解説文と写真から。  

 猶以、葛東郡壱万石、あほし半分

 之事、御同名掃部(石川掃部頭

 明)へ被仰付候間、可被得其意候、

 以上、

 

其方御代官所之儀、前より被仕候分者、取沙汰不及是非候、重而可被(闕字)仰付分儀、御煩ニ付て、御朱印不相調候、然者、時分柄之儀候間、先当納之義被取納、物成被入御念、可有御運上候、追而得御諚可申入候、恐々謹言、

慶長三

  八月六日   徳善

               玄以(花押)

         長大

               正家(花押)

         増右

               長盛(花押)

         石治少

               三成(花押)

              浅弾少

          長政(花押)

  石川紀伊守殿

      御宿所

(書き下し文)

 

その方御代官所の儀、前より仕まつられ候分は、取沙汰是非におよばず候、重ねて仰せ付けらるべく分儀、御煩いについて、御朱印あいととのわず候、しからば、時分柄の儀候あいだ、まず当納の義取り納められ、物成御念を入れられ、御運上あるべく候、おって御諚を得申し入るべく候、恐々謹言、

なおもって、葛東郡壱万石、網干半分のこと、御同名掃部へ仰せ付けられ候あいだ、その意を得らるべく候、以上、

 

*御代官所:蔵入地のことで「御」があることから秀吉の蔵入地であることがわかる。ちなみに徳川期には幕府直轄地を「御代官所」と呼ぶ。

 

*取沙汰:1)世間でうわさになること、2)取り扱う、処理する

 

*当納:当年納めるべき年貢

 

*物成:年貢諸役

 

*御諚:貴人の命令、おことば。ここでは秀吉の意思

 

*葛東郡壱万石あほし半分之事:播磨国飾東郡網干にある豊臣蔵入地1万石のうち半分の5000石分について。

 

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*御同名掃部:石川頼明(?-1600)秀吉家臣。慶長5年現在で1万2000石。関ヶ原戦後自刃。(『戦国人名辞典』)

 

*石川紀伊守:石川光元(?-1601)秀吉の馬廻組頭。関ヶ原で西軍に属し所領没収。(『戦国人名辞典』)

 

(大意)

 

貴殿の蔵入地管理の件、以前から取り扱っていた分は、問題としないこととします。もう一度ご命令が下される件については、なにしろ秀吉様がご重篤なので、朱印状は準備できませんでした。こういったご時世ですので、まず当年納めるべき分の年貢などをしっかり収納し、年貢諸役を入念に、秀吉様まで差し上げるようにしてください。おって秀吉様のご下命を伝えます。謹んで申し上げました。

なお、葛東郡一万石網干のうち半分は、石川頼明に命じられましたので、ご承知置き下さい。以上。

 

 

秀吉が没する十日あまり前に、五奉行連署で発給された文書である。五奉行が年貢算用を主たる仕事としていたことは、文禄4年8月3日前田玄以増田長盛長束正家連署血判起請文などに見えるのでその体制が秀吉最期のころまで継続されたことを示している。

 

「時分柄」が唐入りのことを示すとも思われるが、ここでは秀吉が重篤である時節柄といった意味で使われていると解釈した。

 

飾東郡にある豊臣蔵入地の年貢収納事務が滞っていたようで、石川光元の負担を半減することを五奉行が決めたようである。

 

年貢滞納がなぜ起こったのか。百姓等の抵抗などがあったのか、代官所での収納事務で問題が生じたのか、といえば後者の可能性が高そうだ。光元ひとりでは負担が重すぎるということで、頼明と負担を分け合うようにと判断されたのかも知れない。