先日以下の記事を書いた。
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
そこで木下藤吉郎秀吉と名乗る文書を東京大学史料編纂所のデータベースで検索してみると、天正3年とされる文書を見つけた。
余談だがそれぞれのデータベースの仕様が異なるのか、ひとつのEXCELシートにコピー・アンド・ペーストするとうまく行かない。最近話題の「ネ申エクセル方眼紙」が突然現れることもある。
閑話休題、史料総覧では天正3年、大日本史料、『豊臣秀吉文書集一』(11頁)では元亀元年としてあらわれる文書を紹介しよう。なお、三鬼清一郎編『豊臣秀吉文書目録』(1989年、名古屋大学文学部)では年未詳とされている(122頁)。引用は『文書集一』同頁。
其方買得分之事、御下知在之事候、何も徳政行候共不苦候、下々何角申候者可有注進候、我等かたより可申届候、恐々謹言、
十一月十一日 秀吉(花押)
立入左京進殿
御宿所
(書き下し文)
そのほう買得分のこと、御下知これあることに候、いずれも徳政おこない候とも苦しからず候、下々なにかと申しそうらわば注進あるべく候、我等方より申し届くべく候、恐々謹言、
*御下知:室町幕府が元亀元年10月4日に徳政令を公布したが、信長が個々に(たとえば摂津平野荘宛に)免除する、つまり徳政の対象外とする旨の文書を出しており、それらを指す。
*立入左京進:立入(たてり)宗継。代々禁裏御倉のうち上御倉職を勤める。
*御宿所:普通宿所ですみか、家という意味だが、ここでは宛所の脇につけて(脇付と呼ぶ)敬意を表している。
(大意)
貴殿が購入した土地について、信長様の命令が下されたのだから徳政が行われてもその土地は徳政の対象外である。下々の者があれこれ言ってくるならばこちらへ知らせるように。そうすれば我々の方から直接文句を言ってくる者どもに言い含めるでしょう。
文中の「徳政」という文言から元亀元年と年次比定されたものと思われる。したがって天正3年まで木下姓を名乗っていたとはいえなさそうである。
この頃の秀吉文書は「恐々謹言」や「恐惶謹言」といった書き止め文言に見られるように書状の形を取るものが多いようだ。書状の多くは月日のみで年次比定という点でいろいろ難しい。