2015年7月に報道された新発見秀吉発給文書は残念ながら名古屋市立博物館編『豊臣秀吉文書集1(永禄8年~天正11年)』(2015年2月)に間に合わなかった。そこでここで読んでみることにしたい。
まず前半部分の写真を掲載したのは毎日新聞だけだった。記事はすでに残っていないが、画像だけはさいわい残されていた。
画像の引用はこちら。
http://mainichi.jp/graph/2015/07/11/20150711k0000m040130000c/001.html
後半部分だけに注目が集まったようだ。
画像の引用はこちら。
その他の紹介記事。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO89199460R10C15A7CC0000/
下の写真を見ると「元亀四年とり」、「五月廿四日木下藤吉郎秀吉」、「(秀吉花押)」の部分が異なる筆跡であることが分かる。花押は秀吉自身、署名と日付が右筆によるものと推測できるが、年代部分はこの文書が作成された後のものではないだろうか。残念ながら写真だけでは判別しにくい。
川野方出来分
七貫文 松原平一郎 引請
四貫文 高見弥三 引請
拾六貫六百文 徳田佐介 同
五貫弐百八十文 大野
太郎衛門尉 同
四貫八百文 森源十郎 同
四貫百八十文 奥田五郎衛門尉 同
六貫九百文 岩越小二郎 同以上四拾八貫文(48貫760文)
右之分能々念入可有糺明、此書付の外在之ニ候間、縦縁者親類□りと云共不見隠有やうに堅あらため、其上にて可申付候、為其如此、恐々謹言
元亀四年とり
五月廿四日 秀吉(花押)
篠田傳七郎とのへ
(書き下し文)
川野方出来分
七貫文 松原平一郎 引請
(中略)
以上四拾八貫文(48貫760文)
右の分よくよく念を入れ糺明あるべし、この書付のほかこれあるに候間、たとい縁者・親類□りというとも見隠しあらざるように堅くあらため、その上にて申し付くべく候、そのためかくのごとし、恐々謹言
(大意)
川野方の新規開発分について
七貫文は松原平一郎の引請とする
(中略)
以上合計四拾八貫文である
右の土地に関して入念にただし、この書面のほかに何か異議ある者は、たとえ親類・縁者であっても隠したりせずに厳重に調べ、そのうえで命ずる、以上の通りである、おそれながら以上の通り申し上げました。
正直なところ正確に読めたか自信がない。おまけに48貫文の計算も合わない。通常銭の計算は96枚で100文とするがそれでも帳尻が合わず、前半部分の肝心な意味もよく分からない。また名前が挙がっている者たちも不明である。ただ「衛門尉」と呼ばれていることから有力土豪かも知れない。また宛所の「篠田傳七郎」は谷口克広『織田信長家臣人名辞典』にも見えず、未確認である。
木下藤吉郎最後の文書ということで注目されていたようだが、どういった内容の文書なのかまったく理解できなかった。読み損ないも含めて、ご指導いただければさいわいである。