日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月6日北郷時久宛豊臣秀吉朱印状写

就唐船*1相着、如目録*2到来、種〻取揃之段、別悦思食候、猶石田木工頭*3可申候也、

 

   十一月六日*4 (朱印影)

 

      本郷一雲軒*5

 

(書き下し文)

 

唐船相着くについて、目録のごとく到来し、種〻取り揃えの段、べっして悦び思し食し候、なお石田木工頭申すべく候也、

 

(大意)

 

唐船が到着し、目録にある貨物が届き、様々な商品を取り揃えているとのこと、秀吉様はことのほかお喜びである*6。なお詳細は石田正澄が口頭で述べる。

 

(四、2731号)

Fig.1 日向国庄内地方周辺図

                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

Fig.2 16世紀、明への倭寇行動地域と行動回数

                      横軸は上から順に後金、明、日本年号  

Fig.3 16世紀後半、明への倭寇行動地域と行動回数

 

 

Fig.4 16世紀の環シナ海世界

                          GoogleMapより作成

 

本文書は秀吉が島津氏の家臣である北郷時久に充てたものである。島津氏の領国内に「唐人」が多数いたことは以前触れた。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

各地の戦国大名は中央政権とは独立して国際貿易を行っており、島津氏もその例に漏れず「南蛮」=東南アジア諸国*7とさかんに交易を行っていた。秀吉はそれを自身の支配下に置こうとしたのである。

 

明人で後期倭寇の首魁でもあった王直*8は平戸や五島列島を本拠に一大海上勢力を築き上げ、鉄砲伝来に果たした役割も大きかった。このように倭寇は「貿易」の下地をつくったのである。図2、3によれば、倭寇は大坂城が落城したあとの元和年間まで続いていたから、秀吉の海賊停止令はそれほどの実効力を持ち得なかったことがうかがえる。

 

まとめると、貿易の利益を独占したい秀吉の思惑と依然として独自性を保つ地域権力たる大名や海上勢力の相剋を本文書に見出すことができるのである。

 

*1:中国風の船=ジャンク船。中国のみならず外国船を指す場合もある。これに対してヨーロッパ式の船は「黒船」と呼ばれる

*2:2732号文書。砂糖、花瓶、香炉、青銅の壺、金箔など

*3:正澄

*4:天正17年カ、グレゴリオ暦1589年12月13日、ユリウス暦1589年同月3日

*5:北郷(ホンゴウ)時久。島津氏の一族で日向国庄内地方の領主、下図1参照

*6:自分自身を「秀吉様」とするのは不自然な気もするが、文書を書いた右筆が自身と秀吉の身分差を意識してそう記したと解しておく

*7:図4参照

*8:?-1559年

天正17年10月14日清水寺成就院宛豊臣秀吉朱印状

 

 

清水寺本堂銭箱*1五ヶ所之事、妻帯之僧共取之、育女子*2、今度被成御改、何被為召上、当寺造営之為、永代被寄附訖、本願*3令執沙汰、修造*4可仕者也、

   天正十七年

    十月十四日*5(朱印)

      清水寺

       成就院*6

 

(四、2729号)
 
(書き下し文)
 
清水寺本堂銭箱五ヶ所のこと、妻帯の僧どもこれを取り、女子を育て候について、このたびお改めなされ、いずれも召し上げさせられ、当寺造営のため、永代寄附せられおわんぬ、本願執り沙汰せしめ、修造仕るべくものなり、
 
(大意)
清水寺本堂の五ヶ所にある銭箱から、妻帯の僧どもがこれを懐に入れ、妻子を養っている子を育ていることについて、このたび秀吉様がお調べになり、いずれも没収し、当寺造営のために永代寄附されました。本願をしっかり勤め、修理・造営の費用にあてるように。

 

 

Fig.1 清水寺周辺図

                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

 

Fig.2 銭箱

                       「人倫訓蒙図彙」より

本文書からわかることは次の諸点である。

 

一つ目は清水寺には妻帯者がいたことである。秀吉はこのこと自体を咎めてはいないようである。

 

二つ目はこの僧侶が清水寺の財産を横領していたことである。秀吉はこれを没収し、成就院の本来の役割である「本願職」に専念することを求めている。

 

三つ目はこの事件を契機にもともと清水寺の財産である「銭箱」の中身を「寄附」したということである。秀吉自身の懐を痛めることなく「寄附」するというのはおかしいが、彼自身はこれを「寄附」と称していた。

*1:銭を入れる箱。頑丈な作りで錠前が施されている。下図2参照。ここでは清水寺ないしは本堂の公的財産の意味

*2:「子女」の書き誤りの可能性もある

*3:寺院、仏塔、仏像などを建てること

*4:建物などを修理、造営すること

*5:グレゴリオ暦1589年11月21日、ユリウス暦同年同月11日

*6:清水寺の組織「三職六坊」のうち「三職」のひとつ

天正17年10月3日松浦兵部卿法印宛豊臣秀吉朱印状

 

 (包紙ウハ書)

「       松浦兵部法印*1  

  (異筆)

  「到来 天ノ十七 十一ノ七日亥刻」*2

                       」

 

急度被(闕字)仰出候、日本国〻之事者不及申、海上迄静謐ニ被仰付候*3、従大唐*4令懇望、相渡候進物之船罷出候処、去春*5其方自分領号商売船*6、てつくわい*7と申唐人為大将、八幡*8ニ罷越、彼唐船之荷物令海賊候由、被(闕字)聞召候間、右之商売舟之由申候て、去春罷出候てつくわい・其外同船之輩、何も不残可差上候、於此方被遂御糺明、可(闕字)被仰付候、自然*9彼者共何角申族有之、於不罷出者、其方迄可為曲事候条、成其意、早〻可差上候、猶小西摂津守*10可申候也、

 

  十月三日*11 (朱印)

 

     松浦兵部卿法印

 

(四、2722号)

 

(書き下し文)

 

急度仰せ出だされ候、日本国〻のことは申すに及ばず、海上まで静謐に仰せ付けられ候ゆえ、大唐より懇望せしめ、相渡し候進物の船罷り出で候ところ、去る春その方自分領商売船と号し、てつくわいと申す唐人大将として、八幡に罷り越し、彼の唐船の荷物海賊せしめ候よし、聞こし召され候あいだ、右の商売舟のよし申し候て、去る春罷り出で候てつくわい・その外同船の輩、いずれも残らず差し上ぐべく候、この方において御糺明を遂げられ、仰せ付けらるべく候、自然彼の者どもなにかと申す族これあり、罷り出でざるにおいては、その方まで曲事たるべく候条、その意を成し、早〻差し上ぐべく候、なお小西摂津守申すべく候なり、

 

(大意)

 

きびしく申し渡す。日本の国々は言うに及ばず、海上まで平和を命じたことで、大唐国が通商を請いに進物を積んだ舟を派遣したところ、この春、そなたは自分の領内にやってきた商売船だと称して、テッカイなる唐人を大将として海賊行為に及び、掠奪を行ったと聞き及んでいる。(この行為は海賊停止令に違背しているので)この商売船の事件について詳細に報告し、昨年春に海賊行為に及んだテッカイ、その他の者どもを残らず上洛させるように。当方において糺明し罪科に処すであろう。もし彼らがなにかと理由を付けて出頭しない場合には、そなたも同罪とするので、趣旨を理解し早々に差し出すようにしなさい。なお詳しくは小西行長が口頭にて申すであろう。

 

 

Fig.1 松浦党分布図

                   「松浦党」(『国史大辞典』)より作成

Fig.2 中近世移行期の日本列島と取り巻く環境

                           GoogleMapより作成



松浦兵部卿法印については未詳だが、松浦党のひとりであろう。

 

ところで「大唐よりの船」とあるが、明王朝は海禁政策をとっていた明は1567年海禁を解除したが、日本への渡航は認めなかったので必ずしも秀吉の言うような使節を乗せた船ではなく、後期倭寇と呼ばれる船の可能性がある。

 

さて①では「国〻」=陸上はもちろん海上まで「静謐」を命じたと述べ、陸海ともに秀吉の支配下であることを再確認させている。これは「海賊停止令」のことであるが、②によると松浦兵部卿法印は「自分の領内にやってきた商売船」だとして海賊行為を行ったことがわかる。兵部卿法印は相替わらず自力救済原則に則り活動していたのである。

 

そしてテッカイらの処罰権は兵部卿法印になく、秀吉にあったことを示している。すなわち海上の紛争も裁定者は秀吉であることを示している。

 

図2のように当時の日本列島は今日と大きく異なり、また海域世界を通して開かれていたことは念頭に置くべきだろう。

 

*1:未詳。肥前松浦郡に盤踞していた松浦党の一人カ。図1参照

*2:文書の到着が11月7日の亥の刻=22時頃。1ヶ月以上かかったことになる

*3:天正16年7月8日海賊停止令

*4:中国のことを王朝にかかわらず「唐」または「大唐」と呼ぶ。「高麗」も同様

*5:今年の1~3月

*6:自分の領内にやってきた商売船だと称して

*7:テッカイ、人名

*8:バハン。倭寇や海賊行為のこと

*9:もし万一

*10:行長

*11:天正17年。グレゴリオ暦1589年11月10日、ユリウス暦同年10月31日

天正17年10月1日石田三成・大谷吉継宛豊臣秀吉朱印状(検地掟)

 

     検地御掟条〻

 

一、田畠屋敷共ニ五間*1六拾間之定、三百歩*2ニ縄打*3可仕事、

 

一、田地上、京枡*4壱石五斗代*5、中壱石参斗代、下壱石壱斗代ニ可相定、其ゟ下〻ハ見計*6可申付事、

 

一、畠上壱石壱斗、中壱石、下八斗ニ可相定、其ヨリ下〻ハ見計可申付事、

 

一、給人百性*7ニたのまれ*8、礼義*9・礼物*10一切不可取之、至于後日も被聞召付次第、可被加御成敗事、

 

一、御兵粮被下候上ハ、自賄*11たるへし、但さうし*12・ぬか*13・わら*14ハ百姓ニ乞可申事、

 

  天正十七年十月朔日*15(朱印)

 

        石田治部少輔とのへ*16

 

        大谷刑部少輔とのへ*17

 

(四、2717号)

 

 

(書き下し文)

 

     検地御掟条〻

 

ひとつ、田畠屋敷ともに五間・六拾間の定め、三百歩に縄打仕るべきこと、

 

ひとつ、田地上、京枡壱石五斗代、中壱石参斗代、下壱石壱斗代に相定むべし、それより下〻は見計らい申し付くべきこと、

 

一、畠上壱石壱斗、中壱石、下八斗に相定むべし、それより下〻は見計らい申し付くべきこと、

 

一、給人、百性に頼まれ、礼義・礼物一切これを取るべからず、後日にいたるも聞し召し付けられ次第、御成敗を加うらるべきこと、

 

一、御兵粮下され候上は、自賄たるべし、但雑地・糠・藁は百姓に乞い申すべきこと、

 

 

(大意)

 

 

     検地御掟条〻

 

一、田畠、屋敷地ともに5間×60間=300歩として測ること、

 

一、田地の上は1反あたり京枡1石5斗、中は1石3斗、下は1石1斗とし、それより下の「下々」などは相応に定めるように。

 

一、畠の上は1石1斗、中は1石、下は8斗とし、それより下の「下々」などは相応に定めるように。

 

一、給人が百性に頼まれて、礼義や礼物などを受け取ることは禁ずる。後日でもそのような事実が聞こえたら罪科に処す。

 

一、御兵粮は(秀吉が)与えるので、自弁とし百姓らに提供を強要してはならない。ただし塩や味噌、馬の飼料である糠や藁は百姓に分けてもらうよう申し出ること。

 

 

同日、ほぼ同文の文書が片桐貞隆・石田正澄宛に発せられている*18。そちらでは長良川から越前との国境までを検地の範囲としており、具体的に検地を行うにあたって示された方針であると見てよい。言い換えれば、こうした原則はその都度試行錯誤的にだされたものと見るべきだろう。全体的にはある方向性を示しているものの、細部は実情に合わせて軌道修正していったものであると。

 

①は田畠屋敷地の区別なく面積を、従来の「30間*12間=360歩=1反」から「5間*60間=300歩=1反」に変更することを命じている。今日も「1坪」という単位が用いられるが「1間*1間=1歩=1坪」なので、360坪=1反から300坪=1反へ切り替えたことになる。しかし人々の意識が簡単に切り替わるわけではないし、当時は通信や交通手段が極めて限られていたこともあり、またメートル原器のようなものもなくスムースに移行したと見るわけにはいかない。

 

1反を360歩から300歩に「圧縮」した意図は明確ではないものの年貢量が1反あたりで測られる以上百姓の負担が増えたことは間違いない。安良城盛昭がこれを「作合否定」と呼び、中世の家父長制的奴隷制ウクラードから近世的な小農自立型ウクラードへの画期をなすものと位置づけたのはあまりにも有名である。

 

②と③は田と畠の「斗代」を地種によって格付けしたものである。「斗代」が(平均的な)生産高なのか年貢納入高なのか、年貢賦課基準高なのかは論争のあるところである。

 

④は検地を行う者が、受ける側の百姓から金銭や物品を受け取って手心を加えることを禁じたものである。

 

⑤も④と同様、検地を行うものと受ける側の癒着を防ぐ目的だとみなせる。

 

*1:1間=6尺、約1.8メートル

*2:長方形5間*60間=300歩=1反と定める。それまでは30間*12間=360歩=1反

*3:測量

*4:中世社会は様々な升があったので「京枡」に統一しようとしたが、現実には困難を極めた。また偽の「京枡」を売る者も現れた

*5:「斗代」は中世では1反あたりの年貢収納高。1石は約180リットル、1斗は約18リットル。米は現在重量で取り扱われるが最近までは「俵」や「斗」などの容積で取り引きされていた

*6:現状に鑑みて

*7:「給人・百性」と並列関係にあるのか、「給人が百性に恃まれ」なのかで意味はまったく変わってくるが、受け身の「らる」があるので後者と解釈した

*8:恃む・頼む。あてにする、頼りにする

*9:「礼儀」には謝礼、報酬の意味もある

*10:謝礼として贈る金品。フロイス『日本史』もたびたび指摘しているが日本では人を訪ねるさい礼物や礼銭を持参する習慣があった

*11:自弁。ここでは百姓から酒食を振る舞われること、あるいはそれを強要することに対しての自弁。天正6年3月19日柴田勝家黒印状にも同趣旨の文言がある

*12:「雑地」。塩や味噌を置くところ。転じてここでは塩や味噌類のこと

*13:籾殻

*14:藁、ぬかとともに馬の飼料

*15:グレゴリオ暦1589年11月8日、ユリウス暦同年10月29日

*16:三成

*17:吉継

*18:2718号

天正17年9月28日太田牛一宛豊臣秀吉朱印状写(蔵入目録)

 

 

    上山城*1御蔵入目録事

 

一、五百六拾五石七斗      寺田*2

 

一、百八拾九石九斗       ミつし*3

 

一、百四拾参石壱斗       なしま*4

 

(中略)

 

一、五十石           ひらを*5

 

   合弐千参百参拾九石六斗

 

 右令執沙汰*6、可致運上*7候也、

 

   天正十七年九月廿八日*8 秀吉朱印

 

           太田又助とのへ*9

 

(四、2715号)

 

(書き下し文と大意は省略した)

 

 

 

Fig.上山城関係図

                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

Table. 上山城蔵入地一覧

山城国のうち綴喜、相楽の2郡2340石ほどの地を太田牛一が蔵入地代官として支配していたことを示す史料である。

 

こういった数値のみの史料を読むのは、砂を嚙むような作業だが重要である。

*1:南山城のことか

*2:山城国綴喜郡寺田村、下図、下表参照。以下同じ

*3:水主

*4:奈島

*5:平尾

*6:トリザタ、支配する

*7:年貢などを蔵に納めること

*8:グレゴリオ暦1589年11月6日、ユリウス暦同年10月27日

*9:牛一。織田信長の弓衆、秀吉の検地奉行、蔵入地奉行をつとめた。『信長公記』を著したことで知られる