日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年9月28日上杉景勝宛豊臣秀吉判物

 

書状加披見候、伊達左京大夫*1事、何様ニも上意*2次第之旨、御請*3通被聞召候、乍去会津*4之儀於不返渡者、被差遣御人数*5、急度可被仰付候条、成其意、堺目等之儀、佐竹*6相談、丈夫可申付候事肝要候、猶以会津之事如前〻被仰付候*7ハてハ不叶儀候条、佐竹可有上洛候由候共、彼面於猥者先無用*8、得其意、堅固行*9専一候、委細増田右衛門尉*10・石田治部少輔*11可申候也、

 

  九月廿八日*12 (花押)

 

    羽柴越後宰相中将とのへ*13

 

(四、2714号)

 

(書き下し文)

 

書状披見を加え候、伊達左京大夫のこと、何様にも上意次第の旨、御請け通り聞し召し候、さりながら会津の儀返し渡さざるにおいては、御人数を差し遣わされ、急度仰せ付けらるべく候条、その意をなし、堺目などの儀、佐竹相談じ、丈夫申し付くべく候こと肝要に候、なおもって会津のこと前〻のごとく仰せ付けそうらわでは叶わざる儀に候条、佐竹上洛あるべく候由候とも、彼の面猥りにおいては先ず無用、其意を得、堅固に行専一に候、委細増田右衛門尉・石田治部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

書状確かに読んだ。伊達政宗が「如何様の処分も上意次第」と承知したので聞き入れたが、蘆名氏から奪った会津を返還しない場合は軍勢を差し向け必ずや支配下に置くだろう。境目について義重と連携を取り確実に支配することが重要である。なお、会津について従来命じた通りに収まらないので義重が上洛するそうだが、関東の情勢が不安定なので上洛は無用である。守備を固めることに専念するように。なお詳しくは増田長盛・石田三成が口頭で述べる。

 

 

Fig. 会津黒川城周辺図

                   『日本歴史地名大系 福島県』より作成

 

7月4日、秀吉は政宗に宛てて蘆名氏を攻撃したことについて、「宿意」があれば秀吉に申し出てその裁可を仰ぐべきところ軍事行動に及んだことは「越度」である。景勝をはじめとした秀吉軍を派遣し討ち果たすであろう。「上意次第に」と申しているそうだが不実であると書き送っている*14

 

それを行動に移すべく景勝に発給されたのが本文書である。

 

また22日には施薬院全宗より政宗家臣片倉景綱宛に書状が発せられている。政宗による会津の蘆名氏攻略について全宗は次のように追及する。

 

 

私の儀をもって打ち果たさるるの段御機色*15しかるべからず候、天気*16をもって一天下の儀仰せ付けられ関白職に任ぜらるるの上は、前々と相替わり京儀*17を経られず候は御越度*18たるべく候条

 

(『米沢市史 古代・中世史料』760頁)

 

 

政宗の軍事行動は「私の儀」であり、天下を治めるべしと天皇より関白に任じられた以上、秀吉の許可がなければ「越度」だとしている。しかも「前々と相替わり」とこれまでの原則である「自力救済」とは異なるのだとも強調している。秀吉はみずから「新時代を切り拓いた」と広言していたのだ。むろん歴史学的な時代区分と彼の時代認識を即座に結びつけるわけにはいかないが、自力救済を過去のものとする秀吉の意図は明確である。

 

もちろんこれは秀吉の論理であって、政宗には政宗の論理があるだろう。

*1:イダテ政宗、出羽国置賜郡米沢城主

*2:秀吉の意思

*3:政宗の、秀吉への服属の意思表示

*4:陸奥国会津郡蘆名氏領国

*5:秀吉の軍勢

*6:義重

*7:「上杉家文書之二」所収の4月19日付佐竹義重宛秀吉判物「境目などのこと当知行に任せしかるべく候」を指しているカ

*8:何か非常事態に及ぶのなら佐竹の上洛は必要ではない

*9:テダテ、軍事行動

*10:長盛

*11:三成

*12:天正17年。グレゴリオ暦1589年11月6日、ユリウス暦同年10月27日

*13:上杉景勝、越後国頸城郡春日山城主

*14:2675号

*15:御気色=ミケシキ。秀吉の機嫌

*16:天皇の意思

*17:秀吉

*18:「御越度」とは妙な表現だが、全宗からみれば政宗は貴人であるので「御越度」とした

天正17年9月27日細川藤孝・忠興宛豊臣秀吉判物(領知充行状)

 

丹後一国領知方拾壱万七百石之事、対父子一軄*1令扶助内、軍役之儀、少将*2三千人、幽斎*3千人、都合四千之可為役儀、此之*4条全可領知*5者也、

 

  天正十七年

   九月廿七日*6 (花押)

     羽柴丹後少将とのへ

     幽斎

(四、2713号)
 
(書き下し文)
 
丹後一国領知方11万700石のこと、父子に対し一軄に扶助せしむるうち、軍役の儀、少将三千人、幽斎千人、都合四千の役儀たるべし、この条まったく領知すべきものなり、
 
 
(大意)
 
丹後一国の領知分11万700石については忠興・幽斎父子に一職に与えるので、軍役は忠興3000人、幽斎1000人合計4000人負担するように。この旨理解しなさい。
 

 

本文書は領知充行状なので朱印状ではなく花押を据えた判物で発せられている。非人格化著しい朱印状より判物は厚礼であるが、署名がなく花押のみというのは「とのへ」*7という敬称とともに薄礼である。それでも判物で記されるということはそれだけ武家の人格的な主従関係が社会の基本であったことを示している。

 

細川父子は丹後一国の領知を与えられた。藤孝は家督を忠興に譲り、宮津城から田辺城へ移った。領国内にある由良川では鮭漁も盛んだった。

 

Fig.1 丹後宮津城、田辺城

                   「丹後国」(『国史大辞典』より作成

 

11万700石に対して父子合わせて4000名の軍役を課している。秀吉はのちに領知目録に「台所分」、「無役」*8などを差し引いた石高に軍役を課す旨詳細に明記するようになる。それらの例から、軍役の負担は10万石に対して課されたと思われる。

 

忠興分3000名、幽斎分1000名すべてを彼らが譜代の家臣として抱えていたかというとそうではない。百姓などから徴用することもあるし、一年季で奉公人を雇傭することもあった。軍役の構成を図示しておこう。

 

Fig.2 譜代の家臣と年季奉公人

奉公人が主人に暇乞いをせず勝手に雇傭主を変えていた様子については下記を参照されたい。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

上記のように奉公人がころころと奉公先を替えれば、主人である武家は主君から課された軍役に足る軍勢を確保できなくなる。一方でこうした下級兵士自身はこう語っている。

 

 

おれは主を四五拾人も取て見たが、所所に依て覚悟がちがふものだ。今武家の水をのんで*9、殊に陣中へつん出た*10が、惣て侍衆の云こんだ、打死が手柄だときいたが、金六*11めつたと死なゝいもんだぞ

 

(『雑兵物語・おあむ物語』65頁、岩波文庫)

 

 

主人を40~50人も取っ替え引っ替えしてきた自分たち雑兵は「武家」や「侍衆」と異なり死に急ぐものではないと仲間に諭しているのだ。沈みゆく船から最後に避難するのは責めを一身に担う船長であって航海士や機関士ではない*12。代々同じ主家に仕える譜代家臣は家名・家業・家産三位一体の「イエ」の存続を第一に考えるが、守るべき「イエ」が確立していない奉公人のエートスは異なったものとならざるを得ない。また「所所によって覚悟が違う」と家風がずいぶん異なる点も興味深い。

 

 

*1:丹後を一円的に支配するという意味と国人の地頭職や在地の荘官職など中間得分を否定するという意味の二重の意味での一職。太閤検地論争のキータームのひとつ

*2:細川忠興

*3:同藤孝

*4:衍字カ

*5:前に出て来た「領知」は領国を支配する意味だが、こちらの「領知」は承知するの意

*6:グレゴリオ暦1589年11月5日、ユリウス暦同年10月26日

*7:「殿」のもっともくずれた字。くずれるほど薄礼である

*8:軍役を免除する石高、現代風にいえば控除分

*9:武家の風習にかぶれて

*10:飛び出す

*11:会話の相手の名前

*12:ノブレス・オブリージュ

天正17年9月24日福島正則宛豊臣秀吉朱印状写

 

於其国*1寺沢越中守*2相註伐置候大仏*3材木・其外御用木共、依由断遅怠、無是非次第候、然者為御奉行水原亀介*4・美濃部四郎三郎*5被指下候条、急度到尼崎*6可相届候、猶以於無沙汰者、可為曲事候、委細浅野弾正少弼*7・増田右衛門尉*8可申候也、

 

   九月廿四日*9  御朱印

       福島左衛門大夫とのへ*10

 

(四、2712号)
 
 
(書き下し文)
 

その国において寺沢越中守相註し伐り置き候大仏材木・その外御用木とも、由断により遅怠し、是非なき次第に候、しからば御奉行として水原亀介・美濃部四郎三郎指し下され候条、きっと尼崎に到り相届くべく候、なおもって無沙汰においては、曲事たるべく候、委細浅野弾正少弼・増田右衛門尉申すべく候なり、

 

 
(大意)
 
伊予国の、寺沢広政が註文し伐った大仏の用材、その他の御用材木などがそなたの「油断」により到着が遅れたことは仕方のないことであるので、奉行として水原吉一・美濃部四郎三郎を派遣したので摂津尼崎まで届くように差配しなさい。重ねて遅怠あるときは処罰する。なお詳しくは浅野長吉・増田長盛が口頭で述べる。
 
 

 

Table.1 福島正則伊予国領知高

                   『愛媛県史 資料編 近世上』より作成

 

なお上表のような郡別の石高を持ち出しておいて何だが、石高とはあくまで軍役賦課基準高に過ぎないことにも注意しておきたい。石高の多寡のみをもって「生産量が高い/低い」というのは意味のある比較とは思えない。下表2のように米の取れない屋敷地に高率の石盛が付されていたように、そもそも石高は「年貢高」なのか「年貢賦課基準高」なのか「生産高」なのかが明確でないのだから。

 

Table.2 文禄度石盛

豊臣政権が主従関係を基本とする武家政権である以上、軍事動員のための一元的な軍役賦課基準を設ける必要がある。そのための軍役基準高程度に考える方が無難だろう。全国土全人民を石高=軍役で国家的に編成することが「天下統一」であり、豊臣政権や徳川政権の特徴だったのだ。

 

この秀吉から課される軍役が「際限なき軍役」と呼ばれるほど過酷だったことは、宇都宮国綱が朝鮮出兵時「京家へ公役*11相重さなり候上、なお今度唐入りについて知行分物成三分一納所し料簡なく候*12*13と家臣に嘆いているところからうかがえる。

 

様々な普請に加えて「天下統一」戦争への度重なる軍事動員が禍したのか福島正則は方広寺大仏殿の用材運搬で遅延という失態をおかした。そこで秀吉は急がせるため水原・美濃部といった側近を派遣したというわけである。この年の2月24日正則は桑村郡河原津*14に宛てて、文意が取りにくいものの船賃に関する「掟条〻」を発している*15。その点彼はけっして怠慢だったわけでなく、むしろ周到に準備していた。秀吉が「是非なき次第」といったように不可抗力の災害や事故に遭遇した可能性もある。

 

Fig.1 伊予国桑村郡河原津

                   『日本歴史地名大系 愛媛県』より作成

 

 

Fig.2 尼崎・京都間周辺図

                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

 

*1:福島正則の領国すなわち伊予国

*2:広政。大仏殿建立のための材木運搬船の指揮を執った

*3:方広寺大仏殿

*4:吉一。金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん=金地の旗指物を与えられた選ばれし者)のひとり、普請奉行として重用される

*5:美濃守ともいうが諱未詳。やはり金切裂指物使番のひとり

*6:摂津国河辺郡、下図2参照

*7:長吉

*8:長盛

*9:天正17年カ。グレゴリオ暦1589年11月2日、ユリウス暦同年10月23日

*10:正則。下表1のように伊予国東部を領有。当人発給文書のうち黒印状では「左衛門太輔」、判物では「正則」と名乗っている

*11:城郭だの寺院だのの普請役

*12:手の施しようもない、むちゃくちゃである

*13:秋田藩家蔵文書 42 城下諸士文書巻3

*14:下図1参照

*15:『愛媛県史資料編近世上』52~53頁。代官による恣意的支配を排除しようとした点で、正則は太閤検地の政策基調に忠実だったことがうかがえる

天正17年8月日本丸鉄門番宛豊臣秀吉朱印状(本丸鉄門ニ付定)

 

   定 御本丸鉄*1御門番事

 

一、とり*2の上刻*3より、明るたつ*4の刻*5まて、女房*6とも*7一切城中の出入あるへからさる事、

 

一、夜中に状文*8の出入、番衆*9として書中を見候て、手くり*10に取次、とゝけ可申事、

 

一、御用候てまいり候女房衆こし*11の事は、とをし*12可申、いて*13候時ハおく*14より印*15にて出し申へき事、

 

一、諸奉公人*16の事、小性一人・さうりとり*17一人めしつれ可入之、但御用の物もた*18せ候ハヽ、そのもの*19はあらため*20とをし可申事、

 

一、不断御用被仰付候ともから*21、其主人にうけこハせ*22、若党・小もの*23入申へき事、

 

一、夜中に御よう*24被仰出*25に付てハ、当番の輩書状を御門番として可相届事、

 

一、当御門番衆の外、おとこのたくひ*26一切ふせる*27ましき事、

 

   天正十七年八月 日*28 (朱印)

(四、2703号)
 
 
(書き下し文)
 

   定む 御本丸鉄御門番のこと

 

一、酉の上刻より明くる辰の刻まで、女房ども一切城中の出入あるべからざること、

 

一、夜中に状文の出入、番衆として書中を見候て、手繰りに取り次ぎ、届け申すべきこと、

 

一、御用候て参り候女房衆輿のことは通し申すべし、出で候時は奥より印にて出し申すべきこと、

 

一、諸奉公人の事、小性一人・草履取一人召し連れこれを入るべし、但し御用の物持たせそうらわば、その者は改め通し申すべきこと、

 

一、不断御用仰せ付けられ候輩その主人に請け乞わせ、若党・小者入れ申すべきこと、

 

一、夜中に御用仰せ出でられるるについては、当番の輩書状を御門番として相届くべきこと、

 

一、当御門番衆のほか、男の類い一切伏せるまじきこと、

 

 
(大意)
 

   本丸鉄門番のことを定める

 

一、酉の上刻より明朝辰の刻まで、女房どもの城中の出入りは禁ずる。

 

一、夜中に文書のやりとりするさいは、番衆の務めとして書面を確認し、順繰りに取り次いで届けること。

 

一、秀吉への用向きがあって登城してきた女房衆の輿は通しなさい。出るさいは奥より合図して出すように。

 

一、諸奉公人については小性一人・草履取一人のみを召し連れて入るように。ただし御用の品物を持たせている場合は、物を持たせている者をよく改めた上で通しなさい。

 

一、日常的に御用を仰せ付かっている者たちは、その主人に身許保証するよう願い出で若党・小者を入れること。

 

一、夜中に御用が仰せ出された場合、当番の者が書状を門番の務めとして届けること*29

 

一、当番以外に男の類いを一切隠し置かないように。

 

 

 

本文書に充所は記されていないが、特定の個人ではなく、かつ名前など知る由もない身分の低い者へのものなので書かないことで尊大さを示したと解した。つまり宛所が欠けているのではなく「あえて書かなかった」というわけである。

 

本文のうち厄介なのはである。「不断御用被仰付候ともから」が「其主人」なのか「若党・小もの」なのかという問題である。若党・小ものといった豊臣政権の最下層に属し、半年もしくは1年単位で雇傭される彼らが果たして日常的に「御用仰せ付けられ」るほど重用されうるのかという点で不自然であり、また彼らに身請けできる「主人」がいるということは若党・小ものが秀吉の倍臣以下であることを示してもいるからである。ここでは次のような数段階の主従関係を想定してみた。

  

 

すなわちこの「不断御用被仰付候ともから」が従者を引き連れてよいかを大名である「主人」に身請けさせるということではないかと。

 

 

前近代日本では、日の出から日の入りまでと日の入りから日の出までをそれぞれ6分割する不定時法を採用していた。つまり夏は昼の時間が14時間程度冬は9時間程度になるという具合に*30。「秋の夜長」と言っても現在は日の長さに関わらず均等に分割する定時法なので単なる比喩でしかなく、夜の時間が物理的に伸びるわけではない。しかし19世紀まで実際に秋の夜は「長かった」のである。村の掟にも農作業を行ってよいのは「明六つから暮六つまで」(日出から日没まで)と記され、夜間の野良仕事は「盗み」とされた。日中と夜間は異なる「世界」と認識されていたのである*31

 

1973年の第1次石油危機では様々な節電対策がとられ、23時に繁華街のネオン消灯が行われ、テレビ放送も明朝まで休止された。21世紀の現在23時は「宵の口」程度だが、当時の23時は「深夜」である。現代のわれわれは体内に時計が埋めこまれたかのように時間の感覚が内面化、規律化されてるがそれは必ずしも人間の本性に由来するものではない。時間の感覚も歴史的、社会的な文脈に左右されるのである。

 

Fig. 近世の時刻と現代の時刻

保柳睦美「江戸時代の時刻と現代の時刻」3頁(『地学雑誌』86巻5号、1977年)より作成

 

さて本文書を読むと、大坂城本丸(「奥」)とその外=公共空間を夜間隔絶する目的で出されたようである。ひとの出入りはもちろん、文書すら書中を確認した上で順繰りに取り次ぐように指示している。きっかけとなるような事件について触れるところはないが、①③⑦に見えるように「女房衆」や「おとこのたくひ」とあるところから男女の密通でもあったかと勘ぐりたくなる。

 

野良仕事と異なり明け六つより遅い卯の刻としたのは十分明るくなってからといった女房衆への配慮からだろうか、それとも早起きは苦手ということだろうか。いずれにしろ夜間は大坂城本丸と外側を遮断する意図から出されたものであることは間違いない。つまり夜間の本丸は秀吉のprivateな空間とする宣言である。

 

また本丸は昼は政庁として機能するが夜間は私邸とすることも意味する。言い換えれば大坂城本丸は日中は「公儀」の空間であり、夜間は私的なそれで時刻で同じ空間の機能の切替を行ったわけである。

 

 

④、⑤の奉公人については下記を参照されたい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

*1:くろがね

*2:

*3:日没頃

*4:

*5:午前8時頃

*6:女性

*7:複数形を表す接尾辞「共」

*8:文書

*9:警固にあたる武士

*10:

*11:輿

*12:

*13:

*14:奥。「表」=publicの反対語で「private」な空間。秀吉は大坂城本丸を「奥」と位置づけた

*15:合図

*16:後述の「若党」や「小者」など一年季半年季雇傭の奉公人。供給元は百姓や町人

*17:草履取

*18:

*19:

*20:改、調べて

*21:

*22:請け乞わせ。身許保証を雇傭主に願い出ださせて

*23:前述の「諸奉公人」と同義

*24:

*25:秀吉からの命

*26:男の類

*27:伏せる。隠し置く

*28:天正17年8月は「大」の月なので1ヶ月は30日。よってグレゴリオ暦1589年9月10日~10月9日、ユリウス暦同年8月31日~9月29日

*29:諸大名が大坂城下に集住していることを前提としている

*30:下図参照

*31:日本のような中緯度および低緯度な地域はこれで対応可能だが、白夜や極夜のある高緯度地域では想像もつかない。冬深雪に閉ざされていることに目をつぶっても、月や星、雪明かりのみで屋外で活動するのはかなりむずかしい。逆に夏は一睡もせず働かねばならなくなる。そういった環境に適した生活をしていたのであろう

天正17年8月27日島津義弘宛豊臣秀吉朱印状

 
今度至于片浦*1黒船*2着岸之由言上候、然者糸*3之儀商売仕度旨申之由候条、先銀子弐万枚、御奉行*4差添被遣候、有様ニ相場を相立可売上候、若糸余候ハヽ諸商人かハせ*5可申候、買手無之ニ付ては、有次第可被為召上候、此以後年中ニ五度十度相渡候共、悉可被為召上候間、毎年令渡海何之浦〻にても、付よき所*6へ可相着候由、可被申聞候、縦雖為寄船*7、於日本之地者、聊其妨*8不可有之候、糸之儀被召上儀者、更〻非商売之事候、和朝*9へ船為可被作着、如此之趣慥可申聞候、此方より御奉行被差下候まてハ、先糸之売買可相待候、猶石田治部少輔*10可申候也、
 
  八月廿七日*11 (朱印)
 
    羽柴薩摩侍従とのへ*12
 
(四、2699号)
 
(書き下し文)
 
今度片浦に至り黒船着岸の由言上候、しからば糸の儀商売仕りたき旨これを申す由に候条、先ず銀子弐万枚、御奉行差し添え遣わされ候、有様に相場を相立て売り上ぐべく候、もし糸余りそうらわば諸商人買わせ申すべく候、買手これなきについては、有り次第召し上げさせらるべく候、これ以後年中に五度十度相渡り候とも、ことごとく召し上げさせらるべく候あいだ、毎年渡海せしめ何の浦〻にても、付きよき所へ相着くべく候由、申し聞けらるべく候、たとい寄船たるといえども、日本の地においては、聊かもその妨げこれあるべからず候、糸の儀召し上げらるる儀は、さらさら商売のことにあらず候、和朝へ船着かせらるべきため、かくのごときの趣きたしかに申し聞くべく候、この方より御奉行差し下され候までは、先糸の売買相待つべく候、なお石田治部少輔申すべく候なり、
 
(大意)
 
今回、片浦に黒船が着岸したと報告があった。そこで生糸の取引を行いたいとのことなので、銀2万枚を奉行に持参させ派遣する。世間並みの相場で奉行に売りなさい。その上で糸が余れば、諸商人に買わせなさい。買い手がいない場合はすべてこちらに召し上げるものとする。今後年に5回、10回と来航してもすべて(公儀として)召し上げるので、どこの浦においても着岸しやすいところへ来航すべき旨仰せ出された。たとえ漂着船であっても日本の地においては少しも取引の邪魔をしてはならない。生糸を召し上げるのは儲けを独占しようとしてではなく、本邦へ交易船が無事に航行できるようにするため、公儀としてきびしく命じたわけである。こちらより奉行を派遣するまでは、生糸の売買を行わないようにしなさい。なお石田三成が詳細を述べる。
 

 

Fig.1 薩摩国片浦周辺図

                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

Fig.2 16世紀の環シナ海世界

              永原慶二『戦国時代』(講談社学術文庫)より作成



秀吉は各大名が自律的に行っていた海外貿易に対して介入を行った。生糸は重要な輸入品(輸出品は銀)だがそれを独占的に扱うことで財政を潤そうとしたようだ。下線部で「さらさら商売のことにあらず、和朝へ船着かせらるべきため」と豊臣政権による「私益」の追求でなく、海外貿易を盛んに行わせるためである旨述べられているが、かえって言い訳がましい。

 

秀吉はいわゆる「バテレン追放令」でも貿易を目的とした黒船来航を望んでいた。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

石見銀山を掌握した秀吉にとって貿易はさらなる蓄財手段であった。

 

*1:薩摩国川辺郡、下図1参照

*2:南蛮製の大船

*3:生糸。このころマカオ周辺からポルトガル人が生糸を購入し,日本に輸出していた

*4:「御」があるので秀吉の奉行

*5:買わせ

*6:接岸しやすいところ

*7:漂着船。漂着船の積荷を「寄物」といい、所有権は漂着地の領主や百姓にあったが、その慣習を悪用して故意に船を難破させ、積荷を奪う掠奪行為も盛んだった

*8:寄船や寄物に対する掠奪行為

*9:我が国

*10:三成

*11:天正17年カ。グレゴリオ暦1589年10月6日、ユリウス暦同年9月26日

*12:島津義弘