日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(2)

 

 

一、天正十三*1年に信雄*2尾張国ニ有之、不相届刻、彼むつのかみ又候哉*3、人質を相捨、別儀をいたし、加賀国はしへ令乱入、城〻をこしらへ候間、則被出御馬、は城*4うちはたさせられ、越中陸奥守居城と山の城とりまかさせられ候之処、又候哉むつのかみあたまをそり走入候間、あはれニ思召、不被作*5刎首*6、城をうけとらせられ、越中半国被下、女子をつれ在大坂有之ニ付て、不便ニ被思召、津の国のせ郡*7一職ニ女子為堪忍分*8被下、剰*9位儀、公家*10ニまて被仰付事、

 

 

(書き下し文)

 

一、天正十三年に信雄尾張国にこれあり、相届かざる刻、彼陸奥守またぞろや、人質を相捨て、別儀をいたし、加賀国端へ乱入せしめ、城〻を拵え候あいだ、すなわち御馬出され、端城討ち果たさせられ、越中陸奥守居城富山の城取り巻かさせられ候のところ、またぞろや陸奥守頭を剃り走り入り候あいだ、哀れに思し召し、刎首なされず、城を受け取らせられ、越中半国下され、女子を連れ在大坂これあるについて、不便に思し召され、津の国能勢郡一職に女子堪忍分として下され、あまつさえ位の儀、公家にまで仰せ付けらるること、

 

(大意)

一、天正13(12)年に信雄が尾張国におり、目が行き届かなくなった際、あの陸奥守はまたもや、人質を捨てて、裏切り、加賀国境へ乱入し、あちらこちらに城を構えたので、すぐさま出馬し、出城を落とし、成政の居城富山城を包囲したところ、またもや剃髪して駆け込んできたので、哀れに感じ、頸を刎ねることもせず、城を与え、越中半国を与え、妻子は大坂にいて不憫に思い、摂津能勢郡一職を堪忍分として与え、そのうえ官位を公家にまでしてやったのだ。

 

 

 

ここで秀吉は「又候哉」を二度使っている。「またも懲りずに」、繰り返し裏切られたというわけである。しかも妻子に堪忍領を与えたうえ、「侍従」という昇殿が許される公家にさせてやったのに、というわけである。

 

下表1の通り、侍従は従五位下であり、官職では少納言に相当する殿上人である。

 

Table.1 従五位下

ちなみに公家の世界は生まれでスタートもゴールもほぼ決まってしまう。

 

Table.2 堂上家一覧

Fig.1 越中・加賀・尾張・摂津位置



Fig.2 摂津国能勢郡周辺図

                   『日本歴史地名大系 大阪府』より作成

 

*1:12

*2:織田

*3:またぞろや。懲りもせずまたもや

*4:端城。根城に対して出城や支城をいう

*5:なす

*6:フンシュ

*7:摂津国能勢郡

*8:堪忍領

*9:あまつさえ、その上

*10:成政は「羽柴陸奥侍従」、すなわち従五位下相当という、天皇に対面できる殿上人=公家に列せられた。なお下表1参照

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(1)

 

秀吉は、信長横死のさい多数派工作のため、天正10年6月5日づけで「京より罷り下り候者たしかに申し候、(闕字)上様*1ならび殿様*2いずれも御別儀なく、御切り抜けなされ候、膳所が崎*3へ御退きなされ候」*4と中川清秀にあてて虚偽の情報を意図的に流した*5。「京よりの使者が申したことなので確かだ」というのはみずからの情報源が正規の使者によるものとして正確性を、「近江の膳所に逃れた」とは信長らが実際に逃れうる、京都近くの琵琶湖南岸の地名を挙げることで現実性や「希望」を持たせる効果があったことだろう。一方清秀は、それに一杯食わされたのか、それとも渡りに船とばかりに便乗したのか思惑は様々ありえただろうが詳らかにできない。そのあたりの事情はともかく、秀吉のデマゴーグとしての才能をそこに見出すことはできる。すでに天正11年5月15日柴田勝家を自害に追い込んだ際も、小早川隆景に宛てて戦況を詳細に記した上で「東国は氏政*6、北国*7は景勝*8まで、筑前*9覚悟*10に任せ候」*11と大風呂敷を広げている点からも想像はつく。

 

Fig.1 近江国志賀郡膳所

                   『日本歴史地名大系 滋賀県』より作成

 

天正16年閏5月14日、秀吉は佐々成政を自害に追い込むと同時に諸大名に宛てて成政を糾弾する、長文の朱印状を発した。現在残されているものは下表1の通りである。九州大名のみならず越前の長谷川秀一にも発せられているところから、成政への処罰を正当化するものであることは間違いない。逆に言えばすでに関白に上りつめていながら、諸大名に正当化する弁明を要したともいえ、「正当な支配」であることをデモンストレートする目的を持っていたともいえる。

 

Table.1 「陸奥守前後悪逆事」条々充所一覧



 

     陸奥守*12前後悪逆事

 

一、天正拾弐*13年、柴田*14(闕字)殿下*15へたいし謀叛あひかまへ*16、江州北郡よご*17表へ乱入いたし候ニ付て(闕字)関白殿自身かけ付させられ、切崩、其足にて越前北之庄*18討果させられ候処、むつのかみ*19しは*20田と令同意、越中国ニ有之、加賀国かなさわ*21の城佐久間玄蕃*22居城、柴田相果候ニより明退候処*23、陸奥守かなさわの城へかけ入、相踏*24候間、従越前直ニ御馬をいたされ、彼かなさわ城とりまかせられ候処、あたまをそり*25可被刎首由申候て、走入候間、かうべ*26をもはねさせられす、如先〻越中一国被下、飛騨国取次*27迄被仰付候事、

 

(三、2506号)

(書き下し文)

 

     陸奥守前後悪逆事

 

一、天正拾弐年、柴田殿下へ対し謀叛相構え、江州北郡余呉表へ乱入いたし候について関白殿自身駆け付けさせられ、切り崩し、その足にて越前北之庄討ち果てさせられ候ところ、陸奥守、柴田と同意せしめ、越中国にこれあり、加賀国金沢の城佐久間玄蕃居城、柴田相果て候により明け退き候ところ、陸奥守金沢の城へ駈け入り、相踏み候あいだ、越前よりじかに御馬を致され、彼の金沢城取巻かせられ候ところ、頭を剃り首を刎ねられるべき由申し候て、走り入り候あいだ、頭をも刎ねさせられず、先〻のごとく越中一国下され、飛騨国取次まで仰せ付けられ候こと、

 

(大意)

  

    成政がこの間に行った「悪逆」*28の数々について

 

一、天正12年(11年のこと)、勝家は関白殿下*29に対し謀叛を構え、近江国北郡余呉へ乱入してきたので、わたし自身が戦場へ赴き、打ち破り、さらに越前北之庄まで追い詰め討ち果たした。そこで成政は勝家と組み、越中にとどまり、加賀の金沢城主佐久間盛政が勝家自害の報に接し城を明け渡したところ、成政は金沢城を我が物とした。越前から直接わたしが出陣し、城を包囲したさい、剃髪の上斬首されてもよいと駆け込んできたので、赦免した上に、従来通り越中一国を与え、さらには飛騨国の三木自綱への取次まで任せたのである。

 

 

 

Fig.2 近江国北郡(伊香郡)余呉・丹生・称名寺

                   『日本歴史地名大系 滋賀県』より作成

 

Fig.3 五畿七道略図と中世日本の東西南北端


島津攻めにさいして作成された天正15年元日付の堀秀政宛朱印状に「羽柴陸奥侍従」と見えることから*30、成政が厚遇されていたことは確かである。西海道唯一の「大国」*31肥後を与えられたことからもその点は頷けよう。恩を仇で返されたとここで強調しているのである。

 

Table.2 西海道諸国一覧

                         「延喜式」

Table.3 「大国」一覧

 

自身を「殿下」と呼び、その「殿下」の前を一字分空白にして敬意を表す、闕字まで駆使していてそのナルシシスト振りはとどまるところを知らない。

さて秀吉は天正11年3月15日、勝家との戦時に近江国浅井郡尊勝寺村の称名寺に宛てて以下のように命じている。

 

敵陣取りに至りきっと出馬押し詰むべく候、まことに北国*32は敗軍たるべし、然る時は余呉・丹生そのほか在々所々の山々に隠れ入る土民百姓以下、ことごとく罷り出で、後を慕い*33、忠節を励まし、首を取る輩におきては、あるいは知行を遣わし、あるいは当座の隱物*34を出すべし、もし望みの儀あらば諸役免除すべく候、この旨相心得、申し触れらるべきものなり*35

(一、610号)
 
(大意)
 
敵が陣取りをしたので必ず出馬して彼らを追い詰めてやるつもりです。勝家らは敗北者です。そのさい余呉や丹生そのほかの在々所々の山に避難している土民百姓ら全員が出て来て、勝家軍を追撃し、こちらに忠節を誓うよう促すようにしなさい。首を取った者には知行を与えるなり、当座の生活に必要な物なりを与える。また希望する者の諸役は免除する。この趣旨をよく心得た上で、土民百姓らに伝えるように。
 
 

 

秀吉と勝家が戦火を交えた際周辺の村々の者は避難していることが分かる。こうした山深くに難を逃れていた百姓らを召し出し、勝家追撃に利用しようとしていた点は見逃せない。これまでにも、籠城せざるをえなかった老若男女が秀吉らによって撫で切りにされたり磔刑に処せられたことを確認してきた。こうした記録や記憶に残されず、統計にすらなれなかった人々が歴史上圧倒的多数派であったことは念頭に置くべきであろう。

 

 

*1:織田信長

*2:信忠

*3:図1参照

*4:424号

*5:この時点で織田政権の乗っ取りを目的としたかどうかまでは判断できない

*6:北条、この時点で北条氏は秀吉に服属していない

*7:「北国」は北陸道諸国、特に越後を指す。図3参照

*8:上杉

*9:秀吉

*10:「格護/挌護」。支配下に置くこと

*11:705号

*12:佐々成政

*13:11

*14:勝家

*15:秀吉

*16:相構え

*17:近江国伊香郡余呉。秀吉文書では伊香郡などを「北郡」と呼ぶことがある。図2参照

*18:図3参照、以下同じ

*19:陸奥守

*20:

*21:金沢

*22:盛政。もと信長家臣でのち勝家に属す

*23:勝家自害後秀吉から降伏するようすすめられたが拒絶し、斬首された

*24:押さえ

*25:剃髪することで謝罪の意思を示すことはごく最近まで行われていた

*26:

*27:飛騨国の戦国大名三木自綱へ服属を促す取次役

*28:あくまで秀吉の言い分なので括弧=エアクオートを付した

*29:当時は関白に任じられていないので自身を「殿下」とよぶのは本来おかしい

*30:2072号

*31:諸国を「大上中下」と4等級に格付けした最上級クラス

*32:勝家軍

*33:逃げた者を追う、追跡する。「上杉家文書之三」307頁に「敵慕い候ところ、押し返し数十人討ち捕る」とあるのは「敵が追撃してきたが、押し戻し数十人討ち取った」の意

*34:「音物」。上位の者が下位の者に与える物、当座の生活に必要な物を与えよという意味

*35:称名寺は代官だった

天正16年閏5月6日北里政義ほか1名宛加藤清正下知状(4/止)

 

 

一、在〻質人*1出置替之時*2礼儀に立寄候者*3、上使ハ不及申ニ百性まて為可曲事、付りふしん*4道具・薪等申付之時ハ、人夫数ハ百石二付而二人ツヽ隈本へ持せ可越候、右条〻相背者候者可令成敗者也、仍下知如件*5

 

天正拾六年後*6五月六日      加藤主計頭(花押)

 

   北里三河入道殿*7

 

   同  左馬とのへ*8

 

(『熊本県史料 中世篇第一』509~510頁)

(書き下し文)

 

一、在〻質人出置き替えの時礼儀に立ち寄り候は、上使は申すに及ばず百性まて曲たるべきこと、つけたり普請道具・薪など申し付けの時は、人夫数は百石について二人ずつ隈本へ持たせ越すべく候、右条〻相背く者にそうらわば成敗せしむべくものなり、よって下知くだんのごとし、

 

(大意)

 

一、各郷村の奉公人出替わりのさいに礼銭や礼物などを持参して訪問することは、相手が使者はもちろん百姓であろうとも禁ずる。つけたり、隈本への人足に普請道具や薪などを持参するように命じるさいは、100石につき2人までとする。以上の箇条に背いた者は厳罰に処する。以上が秀吉様の下知である。

 

 

前後の脈絡に関係なく「つけたり」が付されるので意味がやや取りにくい。

 

「質人」は通常は人質を意味するが、ここでは「人質奉公」や「身売り奉公」と呼ばれる奉公人を指す。これらは、借金の方に子女を差し出し、元金を返すまで無償で働かせ、それを利足(当時利息を「利足」と書いた。もちろん複利である)としていた。「荒子」という中世的な語彙が阿蘇郡で「農家の下男、作男」を意味する言葉として今も使われている。同様に「名子」も芦北郡や天草郡では「小作人」を、球磨郡では「主家に住み込みの家族同様の作男」を意味していることから、そうした農業の大規模経営が最近(戦後の農地改革)まで続いていたことをうかがわせる*9。人身売買の例としてよく知られるのは前年のウォール街の株価大暴落に端を発した1930年の昭和恐慌時、東北を中心としてなされた「娘の身売り」だろう。「アメリカがくしゃみをすれば日本は肺炎になる」とは映画「あゝ野麦峠」のセリフであるが、そのアメリカが肺炎に罹ってしまった*10ので世界中が大混乱に陥ったことは周知の通りである。

 

Fig.1 「名子」、「荒子」分布

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

Fig.2 小経営と大経営

 

ただしここでいう「質人」は本来の「人質奉公」という人身の年季売に限らず、奉公人(雇傭人)全般を指す総称と考える方がよさそうである。

 

秀吉や清正はこうした在地の「付け届け」という社会的慣行を否定したかったようだ。領主宅へ百姓が金品を持参し、また領主から接待を受けることが中世社会では見られたが、そうした人格的関係を清算しようとしたのかもしれない。

 

「つけたり」部分は⑥のやはり「つけたり」にある隈本への詰夫について定めているが、普請道具や薪などをみずから賄う者は100石につき2名までとする。⑥を踏まえると10石に1名詰夫を出し、100石分つまり10名につき2名は道具や薪を自弁としたようだ。この詰夫についての⑥、⑦とも「つけたり」としていることから書き上げたあとに加筆した可能性もあり、意味が取りにくい。なお当時は条文の整合性より「3、5、7」といった縁起のよい箇条数となることを重視していたためであろう。今から見れば本末転倒だが、吉凶を重視する当時にあっては合理的であった。

 

次回から秀吉文書集にもどることにしたい。

 

*1:「人質奉公人」と呼ばれる奉公人

*2:年季の明けた奉公人が入れ替わる季節

*3:礼銭や礼物を持参して訪問すること、礼参り。暴力による報復を意味する「お礼参り」ではない

*4:普請

*5:以上が秀吉様の下知です。つまり清正ではなく秀吉の意を奉じて伝えた、という意味。実際は清正独自の文言がかなり加えられているが

*6:

*7:政義

*8:重義カ

*9:図1,図2参照

*10:食糧の配給に長蛇の列ができる街の光景や、失業した夫のかわりに夜間ダンスホールで小銭を稼ぐ妻の姿がドラマ「コールドケース」で描かれた。また妻が夫に、ニューディール政策の代名詞であるTVA(テネシー川開発公社)の求人には応募したのかと詰め寄るシーンもある

天正16年閏5月6日北里政義ほか1名宛加藤清正下知状(3)

 

 ⑤一、従此方*1仰之儀*2に申付候上使にて候共、非分之儀申懸候ハヽ、其上使と*3申事すへからす候、外之儀*4ニ而候共以目安可直訴候、遂糺明を堅可申付事、

 


一、麦年貢定物成*5之義、我〻直ニ*6相定書付を在〻肝煎に相渡候外ハ、少も不可有別儀候、付り隈本へつめ使*7之儀拾石ニ一人ツヽ可出候、若不入候而帰候共奉行に礼儀*8少も不可出事、

 

 

(書き下し文)

 

 ⑤一、この方より仰せの儀に申し付け候上使にて候とも、非分の儀申し懸けそうらわば、その上使の申すことすべからず候、ほかの儀にて候とも目安をもって直訴すべく候、糺明を遂げ堅く申し付くべきこと、

 


一、麦年貢定め物成の義、我〻じかに相定むる書付を在〻肝煎に相渡し候ほかは、少しも別儀あるべからず候、つけたり隈本へ詰め使の儀10石に1人ずつ出すべく候、もし入らず候て帰り候とも奉行に礼儀少しも出すべからざること、

 

 

(大意)

 

一、こちらから差し向けた使者であっても、非分を申し懸けたならその使者の命にしたがうことはない。些細なことであっても目安を捧げて直訴しなさい。必ず黒白(コクビャク)をつけて処罰する。

 

一、麦年貢定年貢について、こちらから定めた書面を各郷村の肝煎たちに直接渡している。それ以外に記載のない諸役を課してはならない。つけたり、隈本への詰夫については10石につき1名を出させなさい。もし不要だということで帰村しても奉行に礼銭を渡すことは無用である。

 

 

⑤は正真正銘清正の派遣した使者であっても、恣意的な命を下した際にはそれにしたがわないようにと命じている。また「外の儀に候とも」、すなわちどんなに些細なことでも直接書面をもって訴え出よとの文面は、秀吉の朱印状に見られず清正独自の判断で加えたものである。わざわざ書き添えている点は虎退治や七本鑓に代表される「豪胆な」というイメージとはかなり遠い。「武闘派」と「吏僚派」という構図はもともと互いに排他的であることを前提とするが、そうした命題が正しいという保証はどこにもない。

 

⑥も同様に邪な課役に応じる必要はないと述べている。また熊本城の普請に駆り出す人足は10石につき1名を上限とすると述べている。ただしいくら上限を定めたといえ、もう少しあとの数百石から千石に1名の「千石夫」がくらべると数十倍から100倍の高率である。

 

この駆り出された人足が不要ということで帰されても、役人に礼銭を渡すことは無用とする。末端の役人が現地で接待を受けたり、金銭を渡されたりすることは実際にあった。古今東西変わらぬ光景である。

 

*1:清正

*2:前回までの「何〻」から「この方より仰せの儀」とした方が意味が通るので改めた。なお原本を見たわけではないので読み誤りかどうかは判断できない

*3:「の」の誤りカ

*4:問題外と思われること、些細なこと

*5:作況に関係なくあらかじめ収納量が定められている年貢

*6:じかに

*7:「使」は使役される者で「詰夫」のこと。詰夫は現在の「ボランティア」にあたる。徴兵された者に対して、自発的な意思に基づく志願兵や義勇兵を英語でvolunteerというので日本語の「ボランティア」とは異なる

*8:礼儀は礼儀作法の礼儀ではなく「礼銭」「礼物」、つまり報酬のこと。藤木久志氏は中世の労役に対し、その多寡にかかわらず対価が支払われていたことを指摘している。同『中世民衆の世界』岩波新書、2010年

天正16年閏5月6日北里政義ほか1名宛加藤清正下知状(2)

 

 

一、国中麦年貢*1之儀、御検地*2之上を以三分二召置*3、三分一ハ百姓ニ可遣之旨被仰出候*4、雖然諸百性迷惑*5之躰見及候条在之、其立毛*6之上ニて百性共堪忍続候様*7可申付事、

 

一、在〻出置候上使*8之者、対百性ニ非分之儀於申懸者、以目安可直訴事、付り、麦年貢納取代官之外ニ何〻*9諸役申付者共、慥之墨付*10無之候ハ、其在所之代官*11へ引合*12其上を以諸役可相調*13事、

 

(書き下し文)

 

一、国中麦年貢の儀、御検地の上をもって三分二召し置き、三分一は百姓にこれを遣わすべき旨仰せ出され候、しかりといえども諸百性迷惑のてい見及び候条これあり、その立毛の上にて百性ども堪忍続き候よう申し付くべきこと、

 

一、在〻出し置き候上使の者、百性に対し非分の儀申し懸くるにおいては、目安をもって直訴すべきこと、つけたり、麦年貢納め取る代官のほかに何〻諸役申し付く者ども、たしかの墨付これなくそうらわば、その在所の代官へ引き合わせ、その上をもって諸役相調うべきこと、

 

(大意)

 

一、肥後国の麦年貢について、検地をしたさい三分の二を徴収し、三分の一は百姓に遣わすようにとの秀吉様が仰せになりました。しかしながら諸百姓が困窮している様子が見て取れますので、実際の実り具合を検分した上で百姓たちが生活できるよう申し付けるようにしてください。

 

一、各郷村に派遣した使者のうち、百姓に対して不当な言いがかりをつける者があれば書面をもって直訴させるようにしてください。つけたり、麦年貢を納め取る代官のほかに様々な理由を付けて諸役を吹っ掛ける者がいても、確実な書面を携えていなければ、その地域の代官に照会したうえで諸役の用意をさせるようにしてください。

 

 

 

閏5月は「麦秋」*14つまり麦の収穫時期であり、また田植えの時期である。③の麦年貢とはこの麦に課す年貢である。秀吉はこの時点で「麦年貢」と具体的に言及していないので、この部分は清正のオリジナルである。検地の際の秀吉の命を引用しつつ、百姓の生活が成り立つように配慮せよと述べている。なお秀吉は慶長2年二度目の出兵直後、前田玄以を通じて諸国に田方の麦年貢は3分の1を上限とする旨触れている*15

 

④では不当な要求をする代官が現れても、書面を確かめたり、代官に照会したりして間違いの無いよう命じている。直訴は、苛斂誅求をきわめている地頭当人へ訴え出ても当然握りつぶされるだけなので、その地頭の上級権力者に訴え出る手段を認めたわけであるが、これは徳川期にも引き継がれ「代官衆の儀非分これあるにおいては、届けなしに直目安申し上ぐべきこと」*16との触が発せられている。ここでも「届けなしに」とその地頭当人へ断ることなく直訴させるよう述べている。直訴を「堅く御法度」としながらも、である。

 

なお閏5月14日付清正書状によれば、北里政義らは国衆一揆に加わった下城右近を唐津にて誅殺し、さらに6月7日付書状において豊後日田に隠居していた下城伊賀を討ち、頸5つが清正のもとへ届けられたと記されている。北里と下城の位置関係は下図の通りである。

 

Fig. 肥後国阿蘇郡小国郷北里と下城

 

*1:麦の収穫時期「麦秋」は陰暦5月

*2:秀吉が清正や福島正則らに行わせた肥後検地

*3:「召す」は尊敬語。「召し置く」で「お取り上げになる」。「お召し物」は「お着物」の意

*4:「仰せ出す」の主語は秀吉

*5:「迷い惑う」の文字通り「困惑する」、「困窮する」の意

*6:実り具合

*7:生活できるように

*8:ジョウシ。加藤清正から各郷村へ派遣した使者

*9:「仰之」と読むものもあるが原文書を見られないのでここでは立ち入らない

*10:偽造していない正真正銘の清正発給文書

*11:すぐ前の「麦年貢納め取る代官」のこと

*12:照合して、確認して

*13:ととのえ=揃える、過不足な用意する。「調」で「みつぎ」とも読み、神や王などへの「供給物」(「キョウキュウブツ」ではなく「たてまつりもの」と読む)の意味もある

*14:「秋」は季節としての秋、つまり7~9月を指すことが多いが、「収穫時期」の意味もあり、「麦秋」の「秋」は後者の意味で「初夏」のこと。「秋」にはへんとつくりが左右反対の異体字「秌」がありU79CCとして登録されている。なお天正16年閏5月6日はユリウス暦1588年5月20日、グレゴリオ暦で5月30日にあたる

*15:慶長2年4月12日前田玄以折紙

*16:慶長8年(1603)3月27日内藤清成・青山忠成連署覚