日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月6日北里政義ほか1名宛加藤清正下知状(1)

清正は、5月25日付の朱印状の11日後、つまり当時の交通・通信事情からいえば「ただちに」本文書を発給している。しかも朱印状をそのままなぞっているのではなく、現地の状況に即し清正なりに咀嚼している点でも興味深い。なお本文書名を「下知状」と呼ぶのは書止文言が「仍下知如件」とあることによる。

 

 

    定

 

一、国中一揆起候といへ共、去年之儀者平百性之分被成御免御検地被仰付上*1ハ、如前〻罷直*2耕作等無如在*3可仕事、

 

一、平百性一揆御赦免之上ハたがひ*4之諸道具*5取散候共*6、いしゆ*7いこん*8有間敷候、若此旨相背候者於在之者、至隈本*9ニ可申越事、

 

一、国中麦年貢之儀、御検地之上を以三分二召置、三分一ハ百姓ニ可遣之旨被仰出候、雖然諸百性迷惑*10之躰見及候条在之、其立毛*11之上ニて百性共堪忍*12続候様可申付事、

 

一、在〻出置候上使*13之者、対百性ニ非分之儀於申懸者、以目安可直訴事、付り、麦年貢納取代官之外ニ何〻*14諸役申付者共、慥之墨付*15無之候ハ、其在所之代官へ引合、其上を以諸役可相調事、

 

一、従此方何〻儀に申付候上使にて候共、非分之儀申懸候ハヽ、其上使と申事すへからす候、外之儀ニ而候共以目安可直訴候、遂糺明を堅可申付事、

 

一、麦年貢定物成*16之義、我〻直ニ相定書付を在〻肝煎に相渡候外ハ*17、少も不可有別儀候、付り隈本へつめ使之儀拾石ニ一人ツヽ可出候、若不入候而帰候共奉行に礼儀少も不可曲事、

 

一、在〻質人*18出置替之時*19礼儀に立寄候者、上使ハ不及申ニ百性まて為可曲事、付りふしん*20道具・薪等申付之時ハ、人夫数ハ百石二付而二人ツヽ隈本へ持せ可越候、右条〻相背者候者可令成敗者也、仍下知如件*21

 

天正拾六年後*22五月六日      加藤主計頭*23(花押)

 

   北里三河入道殿*24

 

   同  左馬とのへ*25

 

(『熊本県史料 中世篇第一』509~510頁)

(書き下し文)

 

    定

 


一、国中一揆起こり候といえども、去年の儀は平百性の分御検地御免なされ仰せ付けらるる上は、前々の如く罷り直り耕作など如在なく仕るべきこと、

 


一、平百性一揆御赦免の上は互いの諸道具取り散らし候とも、意趣・遺恨あるまじく候、もしこの旨相背き候者これあるにおいては、隈本に至り申し越すべきこと、

 

    (以下次回)

 

(大意)

 

    定

 

一、肥後国中で一揆が起きたけれども、昨年は平百姓の検地について免除する旨仰せになったので、前のように帰村し耕作などを入念に行うこと。

 

一、平百姓が一揆に参加したことについて秀吉様がお許しになっているのだから、百姓同士が互いに生活を破壊しつくしたとしても、恨みに思わないこと。もしこれに背いた者が現れたなら、隈本まで出向き報告するように。

 

(以下次回)

 

 

天正16年は閏年で5月と6月のあいだに閏5月が置かれる。下表のように年間385日あった。西暦でも偶然閏年に当たったので2月は29日まである。月の大小は年により変わり、現在のように固定されていない。月(moon)の満ち欠け*26が月(month)の日数を定め、大の月は30日、小の月は29日ある。なお「曜日」という概念は和暦にない。

Table.

ユリウス暦の代表的なものとしてロシアの1917年革命を例に挙げる。二月革命、十月革命はそれぞれグレゴリオ暦の3月、11月の出来事だが、現地では2月、10月にあたる。グレゴリオ暦は1582年10月に導入されたばかりである。

 

本文書の充所にある北里氏は阿蘇郡小国郷の北里村に居を構える土豪=「国衆」である。北里村の位置と地勢図を下に示しておく。

 

Fig.1 

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

Fig.2

               国土地理院「地理空間情報ライブラリー」より作成

なお、この直後の閏5月15日付で清正および小西行長に肥後国を与えている。知行地の分布を掲げておこう。

 

Fig.3

       2515号文書、国土地理院「地理空間情報ライブラリー」より作成

①では早々に帰村し耕作するよう促し、勧農を行っていて領主にふさわしい模範的な姿を見せている。また②は一揆鎮圧後の郷村の百姓間に漂う「気まずい雰囲気」を和らげるべく「意趣・遺恨あるまじく」と説諭していて興味深い。

 

加藤清正と言えばやたら武勇談ばかり採り上げられるが、こうした「きめ細やかな」在地支配を行っていた点では石田三成らのいわゆる「吏僚派」とまったく変わらないのであって、それこそが「あるべき領主像」なのである。

 

最後に本音を少々。インターネット上でいやでも目にする戦国大名の覇権を競うゲームの広告や、根拠に乏しくありきたりの想像力で創作した英雄譚に辟易しており、こうした「地に足のついた」史料を読むとなんだか救われるような気がする。惜しむらくは翻刻により読みに揺れがあるところである。

 

*1:「仰せ付けた」のは秀吉

*2:以前の状態に戻り

*3:「如在」は手抜かりや疎かにすること。「入念に」の意。今日の「如在ない」は「抜け目がなく愛想がいいこと」というどちらかと言えばネガティブなニュアンスが強い。地域によっては「ずるい」「悪賢い」という意味もある

*4:互い

*5:様々な武器、または日用品

*6:ここでは「日常生活を破壊しつくした」という意味か

*7:意趣。恨み

*8:遺恨

*9:熊本

*10:「迷い惑う」の字句通り「戸惑う」、「困窮する」、「途方に暮れる」の意

*11:収穫前の田畠の農作物。実り具合

*12:生活

*13:隈本から各地へ派遣した使者

*14:史料編纂所稿本は「仰之」と読んでいる

*15:確実な文書

*16:毎年決められた年貢

*17:直接「肝煎」宛に発給している文書に記したもの以外は

*18:「人質奉公」と呼ばれた質物奉公人。借金の担保として子女を差し出し、元本返済まで「人質」として無償で労働させる奉公形態。この無償労働が借金の利息がわりとなる

*19:奉公人が契約を更新する季節

*20:普請

*21:この「下知」は秀吉からの命。すなわちこの書止文言は「以上が秀吉様の仰せである」という意味

*22:「閏」

*23:清正

*24:政義

*25:重義カ

*26:朔望。なお数学者を主人公にしたアメリカのドラマ「numbers」でも「朔望」が登場した

天正16年5月25日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

書状披見候、妻子召連早〻令下着*1旨、尤被思食候*2、依之家来*3之者・百姓以下迄致安堵、荒地*4相返*5致開作*6由可然候、猶以守御法度*7旨、諸事可申付候、委細長束*8可申候也、

   五月廿五日*9 (朱印)*

      加藤主計頭とのへ

(三、2497号)

(書き下し文)

 

書状披見し候、妻子召し連れ早〻下着せしむる旨、もっともに思し食され候、これにより家来の者・百姓以下まで安堵いたし、荒地相返し開作いたすよししかるべく候、なおもって御法度の旨を守り、諸事申し付くべく候、委細長束申すべく候なり、

 

(大意)

 

書状拝読しました。妻子ともども早々そちらに到着した旨、もっともなことと感じ入っております。家中の者から百姓以下にいたるまでさぞかし安堵していることでしょう。荒廃した田畠を耕し、山野を切り開くのがふさわしいことです。なお法度の趣旨をよく守り、万事命じること。詳しくは長束正家が口頭で申します。

 

 

 

荒廃した田畠を耕させ、山野を切り開いて領国経営の安定化を図り、また法度の趣旨を守るように命じている。

 

問題となる天正14年1月19日付「御法度」が指すものは以下の箇条である。

 

 

 

①百姓が住む在所の田畠を荒らしてはならない。「給人」はその在所へ出向き未進のないように収穫の3分の2を年貢として徴収すること。

 

②万一凶作などの年は1反あたり1斗以下の出来ならすべて百姓の取り分とし、翌年の植え付けをさせるよう命じなさい。1反あたり1斗を超える出来なら右に定めたように3分の2を収納しなさい。

 

③百姓が年貢を納めず、また夫役なども勤めず、隣国や他郷へ出歩いてはならない。もしこれについて隠匿した場合はその在所全体の責任とする。

 

④給人は領分の百姓が「迷惑」(=困窮)しないように支配しなさい。「代官」*10などに任せず、直接念を入れて支配しなさい。百姓に対して理不尽な言いがかりを付けた際は給人の責任とする。

 

⑤年貢を徴収する際は10合=1升の枡を使用し、あるがままを量りなさい。なお付加税である「打米」*11は1石につき2升(2%)ととし、それ以外の役米を徴収してはならない

 

⑥領分に堤などがある場合は正月の農閑期に修理させ、大破したときなど給人や百姓の手に負えない場合は秀吉まで報告せよ

 

 

 

①から俗に「二公一民」などといわれる。しかしつづく②にあるように反収が1斗以下*12、つまり10分の1まで落ち込んだ場合は全額免除とするとあり、実際のところは確認できない。今年はこれだけの年貢を納めよという村宛の「年貢免状」や「年貢割付状」が見られるのは徳川期に入ってからである。

 

③では百姓が勝手に領分から奉公先を求めて出歩くことに頭を痛めている様子がうかがえる。奉公先としてもっともポピュラーなのは戦場である。

 

④は秀吉から領地を与えられた給人自身が直接村と相対し、他人任せにしないよう命じている。百姓が困窮するような支配を行った場合給人の責任とし、無制限の領国支配を認めたわけではないことが読み取れる。

 

⑤では年貢徴収に使用する枡を定め、様々な口実で賦課されていた「打米」の上限を定めている。実際この前後の時期で比較してみると1石あたり2斗(10%)から2升(1%)へ10分の1に激減している。この時期の文書でよく目にする「あれやこれや理由を付けた賦課する」状況が実際にあったことが確認できた。

 

Table. この前後の時期の1石あたりの「打米」比率(単位:升)

 

 米の容積は「石ー斗ー升ー合ー夕・勺ー才」で10進法、1升=1.8リットル  

 

⑥は農業用水や水害などから村々を守る堤などの修理を念入りに行うよう命じており、現地の手に負えないケースは秀吉の裁可を仰ぐよう付け加えている。給人に無制限の権限を与えない④と表裏の関係にある保護的な面を覗かせている。

 

以上をまとめると次のようになるだろうか。

 

Fig.「御法度」の趣旨

清正は翌閏5月6日付で、本文書のより徹底した内容を記した文書を阿蘇小国の土豪北里氏に発しており*13、秀吉の命に忠実である様子がうかがえる。ちなみにこの北里氏の子孫から輩出した人物に、感染症研究で知られる北里柴三郎がいる。

 

*1:ゲチャク/くだりつく。都から地方の目的地へ向かい到着すること。対義語は「上着」=ジョウチャク/のぼりつく

*2:秀吉自身への敬意表現

*3:もともとは「家礼」と書き摂関家に奉仕する貴族を指したが、のちに武家社会で臣従する者を呼ぶようになった。ここでは清正の「家中」全体を指している。ただし武家社会のみではなく、隷属的な百姓や商家の雇傭人を「家来」と呼ぶこともしばしばある。「御館」(おやかた)や「御家」(おいえ)と呼ばれる地主的農民に対して、身分的・経済的に隷属する農民を「被官」、「家抱」(けほう)と呼ぶように当時の社会全般に見られた関係である

*4:荒蕪地となる原因は災害や戦乱のみならず、百姓の逃散による労働力不足の側面もある。逃散する理由は重い負担に抗議するためであったり、戦乱から生命や財産を守るためでもあるので原因が単一であるとは限らない

*5:耕作する。e.g.「田を返す」で「田を耕す」

*6:山野を開墾して田畠とすること、開墾

*7:天正14年1月19日付の「定」、1841~1845号

*8:正家

*9:天正16年

*10:文字通り「代わりに勤める者」、「給人」の家臣

*11:海難に遭遇した船舶が安全を保つために積み荷の米を海中へ投棄することを打米と呼ぶが、それとは別らしい

*12:1反あたり1石あたりが目安

*13:『阿蘇郡誌』497~498頁、1926年

天正16年5月11日福島正則宛豊臣秀吉朱印状写

 

去十六日之書状加披見候、其国*1検地大形*2相済候由、然ハ宇土境*3之在所*4二三ヶ村令一揆付、討果候旨聞召*5候、惣徒者*6之儀於有之者、悉成敗可申付候、頓*7隙明次第可罷上候也、

 

  五月十一日*8 御朱印

  

    福島左衛門大夫とのへ*9

(三、2494号)
 
(書き下し文)
 
去る十六日の書状披見を加え候、その国検地大方相済み候よし、しからば宇土境の在所二、三ヶ村一揆せしむるについて、討ち果し候旨聞し召し候、そうじていたずらものの儀これあるにおいては、ことごとく成敗申し付くべく候、やがて隙き明け次第罷り上るべく候なり、
 
(大意)
 
先日16日付の書状確かに拝見しましました。肥後国の検地があらかた済んだとのこと。また宇土あたりの百姓ども二三ヶ村が起こした一揆を攻め滅ぼしたことも聞き及んでいます。「徒者」はすべて撫で切りにするよう命じなさい。時間に余裕があれば上洛するように。
 
 

 

福島正則らは吉川広家に宛てて書状をしたためている。その一覧表を下表1にまとめてみた。

 

Table.1  天正16年4月吉川広家宛書状

「出典」を明記していないものは
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1588/16-1-1/6/0021?m=all&s=0021

これらによると、吉川広家は肥後国玉名郡の小代城*10の「普請」を担い、加藤清正・福島正則・蜂須賀政家・生駒親正らは肥後の検地を担当したようである。この命に従わない「徒者」(いたずら者)はことごとく成敗せよという文言は、のちの天正18年8月12日付浅野長吉宛朱印状の「一郷も二郷もことごとく撫で切り仕るべく」を彷彿とさせる。

 

小代城主の小代親泰は下表2のように、当初は秀吉から、ついで佐々成政から、成政失脚後は清正から知行を充て行われることになった。それはとりもなおさず、豊臣大名になり損ね、秀吉の陪臣の地位に甘んじざるを得なかったことを意味する。自立的な領国支配を行っていた「国人」*11たちはこうして秀吉によってその存在を否定されるようになった。

 

小代氏は13世紀には玉名郡野原庄の地頭職に任じられており、14世紀には預所職も兼務するなど長期にわたって野原庄一帯を支配してきた。天正15年に安堵された村々は野原八幡宮の大行事、小行事を年番でつとめるなど宗教的にも地域的一体性を保っていたものと推測される*12

 

ともあれ小代氏は数世紀にわたり影響力を誇示した、父祖伝来の玉名郡から切り離されることで、近世的な領主となったと言えるだろう。大名は「当座の預かり主」に過ぎず、百姓はその地に根を張るというのが豊臣政権の政策基調であることは繰り返すまでもない。

 

Table.2 小代親泰宛の知行充行状況

          『長洲町史』、 細川藩政史研究会編『熊本藩年表稿』などより作成

Fig. 小代氏の移封先と宇土境周辺図

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

 

*1:肥後国

*2:大方。あらかた、ほとんど

*3:肥後国宇土郡、下図参照

*4:郷村のこと。ほかに「在地」、「地下」(じげ)などと呼ぶ。また領主の知行地を指す場合もある

*5:秀吉自身への尊敬表現

*6:「御徒町」のように「かちもの」と読む場合は馬に乗らない下級の戦闘員を指すが、ここでは前に「一揆」とあることから「いたずらもの」と読み「ならず者」、「不逞の輩」といった秀吉に臣従しない者たちの意で騎馬戦士か歩兵かは問わない

*7:やがて

*8:天正16年

*9:正則

*10:筒ヶ嶽城

*11:黒田基樹『国衆』平凡社新書、2022年は「国人」などといった曖昧な概念は使うべきでないと指摘する。まだ読み終えていないので本ブログのこれまでの慣行に倣い「国人」としておく

*12:『大日本史料』第9編25冊320頁大永3年雑載、同第11編27冊417頁天正13年雑載

天正16年5月18日充所欠戸田勝隆・浅野長吉連署判物写「定」

 

鍋島直茂が長崎の太閤蔵入地代官に任じられたことについて以前触れた。豊臣政権が当該地方の百姓たちをいかに支配しようとしたかを述べた史料を今回見ておきたい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

 

 

     定


一、当所御料所*1ニ被仰付候上ハ、非分之儀*2有之間鋪事、


一、有様之御公物*3納所*4申上迄横役*5不可有之事、附り地子*6者得上意*7可免之、


一、当所之儀、此両人ニ被仰出候間、為代官飛騨守*8ニ預ケ置候間何も可得其意事、


一、黒舩*9之儀前〻の如くたるへきの間、地下人令馳走*10、当所へ可相付*11候事、


一、自然*12*13として不謂儀申置*14者有之共、一切承引仕間敷事、


右之旨相背輩於有之者、急度両人方ヘ可申越候、堅ク可申付者也、仍而如件、

 

  天正十六年五月十八日*15  戸田民部少輔勝陣*16


               浅野弾正少弼長吉

 
(「大日本史料総合データベース」11編912冊195頁)


(書き下し文)

 

     定


一、当所御料所に仰せ付けられ候うえは、非分の儀これあるまじきこと、


一、ありようの御公物納所申し上ぐるまで横役これあるべからざること、つけたり地子は上意を得これを免ずべし、


一、当所の儀、この両人に仰せ出だされ候あいだ、代官として飛騨守に預け置き候あいだ、いずれもその意を得べきこと、


一、黒舩の儀前〻のごとくたるべきのあいだ、地下人馳走せしめ、当所へ相付くべく候こと、


一、自然下として謂われざる儀申し立つる者これあるとも、一切承引仕るまじきこと、


右の旨相背く輩これあるにおいては、急度両人方ヘ申し越すべく候、かたく申し付くべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

   

    定め書き

 

一、当所を秀吉様の直轄地とした以上、謂れのない負担を強制することは禁ずる。

 

一、嘘偽りのない年貢納入を終えるまで横役などを懸けてはならない。つけたり、地子については当方へ上申し許可を得た上で免除とする。

 

一、当所の支配については勝隆・長吉両名を通じて直茂を代官に任じたのでその旨心得ること。

 

一、南蛮船については従来通りなので、地下人が奔走し、当所へ着船させること。

 

一、万一「下々の者」として正当な理由のない異議申し立てをしようとも、一切聞き届けてはならない。

 

右の箇条に背いた者がいた場合は、この両人へ上申すること。厳科に処すものである。

 

 

    

 

本文書は充所を欠いているため「誰に」命じたのかが明らかでないが、おそらくは「遵法精神を期待されている」上層階層であろう。「御料所」=太閤蔵入地の代官に鍋島直茂を任じ、年貢納入を彼に委ね、また「当所」の治安維持は戸田勝隆、浅野長吉が担ったということになる。複雑だがそういうことになろう。概念図を下に掲げておいた。

Fig. 蔵入地代官鍋島直茂と戸田勝隆、浅野長吉

 

 「公」と「私」

 

年貢を「公の物」と呼ぶことについて少々述べておきたい。日本の歴史上「公」とは朝廷を意味してきた。それに対する概念として「私」である。またその中間に位置するはずの「公共」(みんなの)もまた「公」と同じように使われることが多い。簡単にまとめてみた。

 

Table.1 「公」と「私」

Table.2 「祖」と「税」と「貢」
 

今日taxにあたるものをわれわれは「租税」と呼んでいるがもともとは朝廷に納める「貢ぎ物」といったようなものが原型だった。
 
本来「公」には「国家」以外に①社会全体の、②情報が公開されている、③公正・公平であることの意味も含意していたのだ。

 

*1:「蔵入地」と同義。ここでは太閤蔵入地。徳川期にも「蔵入」を用いる

*2:「領主」などと称して課役することなど

*3:年貢など、年貢を「おおやけのもの」と呼ぶ点については後掲「公と私」を参照されたい

*4:納める

*5:横合いから非分の課役を懸けること。戦国大名などはこれを禁じている

*6:年貢以外の雑税

*7:代官の意思

*8:鍋島直茂

*9:ヨーロッパから来た艦船が黒く塗装してあったため、中国船や和船と区別するためこう呼ぶ

*10:奔走すること、適切に処理すること

*11:着船させる、こちらを港とする

*12:万が一にも

*13:地下人=じげにん

*14:立カ

*15:G暦1588年6月12日、J暦同年同月2日

*16:勝隆

天正16年5月2日浅野長吉ほか7名宛豊臣秀吉朱印状

 

其国*1悪逆人□見計*2、成敗可申付旨、最前被仰含候処、得御諚*3之段、ぬるき*4申上事候、忠節之者*5*6ハ立置て*7悪逆人一類妻子共ニ*8悉令成敗、くさり*9候共塩付□候て*10、首差上可申候、あはれミ*11在之安国寺*12同前ニ、何事申上候哉、従其方書立*13加披見、則成敗候者共書付被遣候也、

 

  五月二日*14 (朱印)

 

    浅野弾正少弼とのへ*15

    生駒雅楽頭とのへ*16

    戸田民部少輔とのへ*17

    黒田勘解由とのへ*18

    森壱岐守とのへ*19

    加藤主計頭とのへ*20

    小西摂津守とのへ*21

    福島左衛門太夫とのへ*22

 

(三、2490号)
 
(書き下し文)
 
その国の悪逆人□見計らい、成敗申し付くべき旨、最前仰せ含められ候ところ、御諚をうるの段、緩き申し上ぐることに候、忠節の者どもは立て置いて、悪逆人一類妻子ともにことごとく成敗せしめ、腐り候とも塩付□候て、首差し上げ申すべく候、憐れみこれある安国寺同前に、何事申し上げ候か、その方より書立披見を加え、すなわち成敗候者ども書き付け*23遣わされ候なり、
 
(大意)
 
肥後国の謀反人どもをよくよく見極めて処罰を命ずべきと先日伝えましたが、お考えを理解するにその決定はぬるすぎると上申してきました。我が方に臣従を誓った者はその知行を安堵し、謀反人たちは親類縁者妻子ともども処刑し、腐敗が始まった首は塩漬けにして必ず差し出しなさい。憐れみ深い恵瓊も同様に、いかなることを申しているか、そなたたちが書き上げよく見た上で、成敗した者の交名とともに書き上げて報告しなさい。
 

 

Fig. 本文書充所の大名領知分布

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 『分邦詳密日本地図 改訂』1890年版より作成、なお小豆島は讃岐でなく備前とした

Table. 天正13年太閤蔵入地、秀吉家臣および勧修寺晴豊・近衛前久の知行地

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本文書は「悪逆人」は親類縁者妻子ともども斬罪とすべきとする一方で「忠節の者」には本領を安堵するように8名の家臣に命じたものである。本人だけでなく血縁関係にあるものや地縁で結ばれた者までが連帯責任を負うしくみを連坐/連座という。近代では一部を除き連座制の適用は認められないが、社会的にはまだまだ連座制を適用すべしとの規範は残っている。

 

秀吉の怒りはすさまじく、腐敗し始めた頸さえ塩漬けにして届け、その名を書き上げて差し出すよう徹底している。

 

また「憐れみ深い」安国寺恵瓊がこの徹底した処断方法に従うとは思えないと漏らしている点は興味深い。

 

 

*1:肥後国

*2:見極める

*3:秀吉の意思

*4:緩き。手ぬるい、寛大である、厳しくない

*5:秀吉に臣従した在地の土豪。彼らが局外中立を保つことは許されない。それが秀吉の「惣無事」の論理

*6:「共」は複数を表す接尾辞。e.g.「野郎ども」「者ども」「女ども」など

*7:そのまま維持すること

*8:「妻子ともに」と読んでおく。なお当時は「子ども」(複数形)を「子共」と書いた

*9:腐り

*10:腐敗し始めた首であっても塩漬けにして腐敗防止を施した上で

*11:憐れみ。不憫に思うこと、同情すること

*12:恵瓊

*13:古文書の様式。成敗した者たちの人名を一つ書きに列挙したもの

*14:天正16年

*15:長吉、のちの長政。若狭国主

*16:親正。讃岐国主

*17:勝隆。伊予大洲城主

*18:孝高。豊前馬ヶ岳城のち中津城

*19:毛利吉成。豊前小倉城主

*20:清正。和泉堺周辺の太閤蔵入地代官

*21:行長。備前小豆島代官

*22:正則。伊予今治城主

*23:こちらは動詞とした