日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年9月8日福島正則宛豊臣秀吉朱印状

 

     条〻

 

下〻*1法度之儀堅申付、百姓以下ニ少も非分之儀不申懸、所務等*2之儀有様*3可申付事

 

民部少輔*4申付候内ニ、自然堺目等下〻申事雖有之*5左衛門大夫*6罷越、身ニ請*7、精を入可馳走*8、又左衛門大夫申付候内ニ有之共*9、民部少輔罷越、肝を煎*10可馳走候、少も如在*11を仕、手前さばき*12ニ仕候者可為曲事事、

 

、被仰出候御用等之儀*13、互*14申談守、御諚旨*15、無由断可申付事、

 

、九州・四国之かなめ所ニ候間、先〻儀*16、切〻*17人をも遣、聞届可言上事、

 

、居城其外立置候城〻*18、普請無由断申付、応知行人数可相拘事*19専一候也

 

    九月八日(朱印)

 

       福島左衛門大夫とのへ

 

(三、2299号)
 
(書き下し文)
 
 

    条〻

 

下〻法度の儀かたく申し付け、百姓以下にすこしも非分の儀申し懸けず、所務などの儀有り様申し付くべきこと

 

民部少輔申し付候けうちに、自然堺目など下〻申すことこれありといえども、左衛門大夫罷り越し、身に請け、精を入れ馳走すべく候、また左衛門大夫申し付け候うちにこれあるとも、民部少輔罷り越し、肝を煎れ馳走すべく候、すこしも如在を仕り、手前捌きに仕りそうらわば曲事たるべきこと、

 

、仰せ出だされ候御用などの儀、互いに申し談じ守り、御諚のむね、由断なく申し付くべきこと、

 

、九州・四国の要の所に候あいだ、先〻の儀、切〻人をも遣わし、聞き届け言上すべきこと、

 

、居城・そのほか立ち置き候城〻、普請由断なく申し付け、知行に応じ人数相拘うべきこと専一に候なり

 

  

 (大意)

 

     条文

 

、「下々」の者に法度を守るようきびしく命じ、「百姓以下」に理不尽なことを要求せず、年貢徴収なども過不足なく行うように。

 

、戸田勝隆の領地内で、境界について「下々」が異議を申し立てた際は、福島正則が現地に出向き、立ち会った上で、解決するよう入念に奔走しなさい。また正則の領地で同様のことが起きたときも勝隆が赴き、解決に向け努力しなさい。少しでも手を抜いたり、自分だけで処理してしまった場合は曲事である。

 

、こちらより命じられた御用の時は、互いによく相談し、秀吉の命ずる趣旨を徹底させるように。

 

、九州と四国の要所にあるので第二条のように境目相論が起きたときは頻繁に人を派遣して、その者の話をよく聞きこちらへ報告するように。

 

、居城やそのほかの城の普請は油断なく命じ、知行石高に応じて人を雇うことが重要である。

 

 

Fig.1 伊予国今治城、板島丸串城、大洲城周辺図

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                   『日本歴史地名大系 愛媛県』より作成

 

①では 「百姓以下に少しも非分の儀申し懸けず」とあるので「下〻」が「百姓以下に非分を働かないように」となる。つまり「下〻」に「百姓以下」は含まれず、「法度」を守るのは武家以上である。つまり「百姓以下」は「庇護下に置け」という撫民政策を採っていたことになる。「下〻」と「百姓以下」を図式的に表すと以下のようになる。

 

Fig.2 豊臣政権統治構造モデル

 

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ただし、「下〻」と「百姓以下」が截然と分けられるわけではない。郷村に住む「奉公人」などから「侍」や「若党」などと呼ばれる戦闘員が雇傭された場合もあったからである。同一人物でも、雇傭されているときは「下〻」であり、そうでないときは「百姓以下」となる。

 

また「所務」という年貢等の徴収を「公平に」行うよう命じている。際限なく徴収すれば百姓たちを飢えさせたり逃亡させたりして、かえって年貢徴収が「非効率化」するためである。短期的な目先の利益のみを追求するのではなく、長期的な視野に立てという意味でもある。

 

ところである土地を「知行」するとは現実にはどのような形を取るのだろうか。今日的発想からいえば、空間・領域を一色に塗りつぶした排他的なものを連想しやすい。しかし「半手」という、ひとつの村が敵対する双方の領主に年貢を納めていた方法も採られていたところから見て、そうではなさそうである。年貢や夫役の「徴収権」といった方が適切で、一村単位になるとは限らないのである。

 

 ②は勝隆、正則領地内で境界相論が起きたときの紛争処理手続きを定めたものである。自分の領地内であっても互いに勝隆・正則を立ち会わせ、解決に導くよう命じている。領内であっても、自分の裁量のみで判断することを禁じており、豊臣期の「領国」とはなにかを考える上で興味深い。戦国期の戦争は「国郡境目相論」と呼ばれるようにその本質は境界争いだった。戦国大名や豊臣政権などの上位権力はこうした「紛争の調停者」として振る舞い、またそうであることを期待されていた。境界争いの調停を失敗すれば、すぐさま上位権力としての正統性を失うことを意味したので、用意周到に行うことを秀吉は二人に命じたのである。

 

 ③は秀吉から普請や陣夫役などの徴発を受けた際に、勝隆・正則が調整した上で勤めさせよと命じている。彼らは戦時の指揮官であると同時に、領国を統治する領主でもあった。後者の面で不安があったのだろうか、給人間で互助的に行動するよう秀吉はアドバイスしており、彼のパターナリスティックな一面をここでも見出すことができる。

 

④は今治と板島丸串、大洲が九州・四国の要所に位置することから、②の対応を間違えないように念を押している。また頻繁に人を遣わし、逐一報告するよう命じている。

 

⑤は居城や破却していない城におく人員を知行石高に応じて負担するよう命じている。石高に応じた軍役をいつでも務められるよう備えよという意味である。「備えよ常に」とはボーイスカウトやアメリカ海兵隊のモットーであるが、日本にも「備えあれば憂いなし」ということわざがある*20

 

 

 つけたり 鉄道ネタ2題

 

 1.予讃線下灘駅は「海の見える駅」として知られる。予讃線は岐の高松から伊の宇和島を結ぶ幹線であるが、網羅的であるため主要都市間は遠回りになる。1986年内子線(単線非電化)=ローカル線が全通したため風光明媚な下灘や伊予長浜など迂遠な区間は急行・特急の運行しない幹線へ事実上降格され、翌年全島全線単線非電化という満身創痍のまま民間へ払い下げられた創意工夫のし甲斐ある点で、他の追随を許さない理想的な状態のままJRへ移管された。さらに翌々年、すべての発列車が「下り」である点で東京と肩を並べていた函館、高松は青函トンネル、瀬戸大橋開通によりその「光栄ある孤立」状態から、「上り」列車も発車するごく平凡な駅へ利便性を高めた。新宿から信濃路へ向かう「8時ちょうどのあずさ2号」が時刻表からも消し去られ、忘却の彼方へ去って行く好機を虎視眈々と狙っていた東京は、さらに東北・上越・北陸新幹線延伸という大量破壊兵器夢の実現によって、夜行列車のターミナル=「北の玄関口」上野を焦土と化し動物園や博物館の最寄り駅に純化し、発列車がすべて「下り」となる「帝都のゲートウエイ」としてその地位を揺るぎないものとしていった。巨大ターミナル東京は他のターミナル(terminal)を次々とターミネート(terminate)していったターミネーター(terminator)でもあったのだ。

seaside-station.com

 

2.予土線はその名の通り伊北宇和島駅と土くろしお鉄道中村線川奥信号所(!)を結ぶ全線単線非電化のローカル線である。単線であるためタブレット*21の授受という字義通りの「通過儀礼」を目にすることもできる。非電化なので電車は走らない。走るのは「汽車」=ディーゼルカーである、それがいかに新幹線に似せたものであっても、である。「カニカマ」がカニよりおいしくとも、カニカマを食べることがカニを食べることを意味しないのと同様である。もちろんカニやカニカマを食べてもカニバリズム(cannibalism)に該当しないが、蟹工船に乗ることを「地獄に行く」と形容する場合もある。また謝肉祭=カーニバル(carnival)でカニバリズムが行われてもよさそうな気もするが、そのようなこともない。

*1:家臣団の末端にいたるまで。後述

*2:年貢などの徴収

*3:ありのままに、粉飾などせず、誤魔化さず

*4:戸田勝隆、伊予国宇和郡板島丸串城主のち喜多郡大洲城主。図1参照

*5:万一土地の境界紛争などがあった際でも。所領争いや郷村の境界争いなど

*6:福島正則、伊予国越智郡今治城主。図1参照

*7:立ち会わせて

*8:奔走する

*9:正則の領国内の場合でも

*10:熱心に

*11:ジョサイ。手を抜くこと、なおざりにすること

*12:捌き。自分だけで処置すること

*13:秀吉より命じられた御用

*14:秀吉の給人同士。「同志」ではない

*15:秀吉の命じた趣旨

*16:二ヶ条前の件

*17:頻繁に

*18:破却せず残していた城

*19:知行石高に応じて人を雇傭する

*20:『世界ことわざ比較辞典』よりいくつか挙げておく。「乞食ですら三ヶ月の備蓄がある」(台湾)、「平和を望むなら戦争に備えよ」(ラテン語/英語/フランス語/スペイン・メキシコ)、「賢者は備える」(ドイツ)、「注意を受けると二人分育つ」(オランダ)、「鍛えられた一人の者、二人分に値す」(ロシア)、「よい守りは危険を避ける」(ルーマニア)、「あとで驚くよりもあらかじめ用心するのがよい」(ハンガリー)、「予備は腐らない」(スワヒリ語)、「黒い不幸な日に備えて白い幸運のピアストル(お金)を隠しておけ」(アラビア語)、「白い銀貨は黒い日のためのもの」(トルコ)、「雨期の心配は冬にしろ」(ネパール)、「夏に乳を搾るなら冬に養え」(チベット)、「物があるとき食べずにいれば、なくなったとき食べられる」(インドネシア)、「貯蔵しておけばいつか使い物になる」(モンゴル)、「モレ(料理名)を作るなら、焦がさないように鍋の火に気をつけよ」(メキシコ)

*21:錠剤をタブレットというのに対し丸薬をピルという。「ピルケース」は丸薬を入れるケースの意味で、薬効は問わない

天正15年9月8日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状

 

能島事*1、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断*2曲事、無是非次第候間成敗之儀、自此方*3雖可被仰付候、其方持分*4候間、急度可被申付候、但申分*5有之者、村上掃部*6早〻大坂へ罷上、可申上候*7、為其方成敗不成候者*8被遣御人数*9被申付候也、

  九月八日*10(朱印)

    小早川左衛門佐とのへ*11

 

(三、2295号)

 

(書き下し文)

 

 能島のこと、このうち海賊仕るのよし聞こし召され候、言語道断の曲事、是非なき次第に候あいだ成敗の儀、此方より仰せ付けらるべく候といえども、その方持ち分候あいだ、きっと申し付けらるべく候、ただし申し分これあらば、村上掃部早〻大坂へ罷り上り、申し上ぐべく候、その方として成敗ならずそうらわば、御人数を遣わされ申し付けらるべく候なり、

 

(大意)

 

能島の城を明け渡さずいまだ海賊行為を行っていると聞いている。許しがたい暴挙であり、成敗の軍勢を当方より差し向けようと考えたが、そなたの「持ち分」であるから必ずや対処されることであろう。ただし、言い分があるのなら村上元吉を早速上坂させ、申し開きをするように。小早川として対処できないときはこちらより派兵する。

 

 

本文中の敬意表現のうち、秀吉自身に対するものを黒の下線隆景に対するものを赤の下線で区別した。

 

 Fig. 能島周辺図

現在周辺島嶼部は本州四国連絡橋尾道今治ルート*12によって結ばれている。本四連絡橋にはほかに神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート*13がある。

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                   『日本歴史地名大系 愛媛県』より作成

 天正13年11月1日、隆景は村上武吉・元吉父子にあてて務司城と中途城の明け渡しを求める起請文をしたためている*14

 

秀吉はまず隆景に領国の治安維持を命じ、手にあまればみずから軍勢を派遣すると書き送っている。このように二段構えの手続きを踏んでいる点は興味深い。また村上氏に何か言い分があるのなら上坂し、申し開きをする機会を与えており、豊臣政権下における紛争処理システムを垣間見ることが出来る。

 

*1:伊予国、能島村上氏の築いた海賊城。下図参照

*2:「言葉で表現する道を断たれる」の意。「きわめて立派である」と「あまりにひどい」の両方向に分かれる

*3:秀吉

*4:担当する地域

*5:言い分、主張

*6:元吉

*7:申し開きをせよ

*8:小早川氏として対処できないときは

*9:「御」がついているので秀吉の軍勢

*10:天正15年

*11:隆景

*12:通称「瀬戸内しまなみ海道」

*13:通称「瀬戸大橋」。JR「瀬戸大橋線」も通称で、正式には「本四備讃線」=州の中と国の岐を結ぶ幹線という、いたってオーソドックスで国鉄時代の「古き良き伝統」に則った命名がなされている

*14:「大日本史料」11-22、94~95頁

天正15年9月8日小早川隆景宛豊臣秀吉判物

 

 

    此御朱印*1見分、陸奥守*2其外へ、早〻可被相届候、
 
 去月廿三日書状、今日八日於大坂披見候、肥後表之儀付、安国寺*3境目迄遣、一定之儀*4被申越候、満足思召候、
 
一、由断在之間敷候へ共、弥被入精、筑後衆・肥前衆両国之者、肥後へ龍造寺*5申談、藤四郎*6為大将、安国寺相副*7遣、隆景者くるめ*8之城ニ在之尤候、両国之者共人数計ニて行*9於難成者*10、黒田勘解由*11・森壱岐守*12両人をも其地へ召寄、其方手人数被相副、二番*13可相立儀可然候事、
 
一、其人数にても事不行候者、毛利右馬頭*14立花城*15迄被出馬、くるめ城前筑紫*16居候つる*17*18、両城ニ慥成留主を被差籠、於其上隆景三番目ニ彼一左右次第ニ*19、くるめゟ可被相立候事、
 
一、何之国ニ何事出来*20候共、守此旨、丈夫可申付候也、
 
  九月八日*21 (花押)
 
    小早川左衛門佐とのへ*22

 

(三、2294号)

 

(書き下し文)

 

 去る月廿三日の書状、今日八日大坂において披見候、肥後表の儀について、安国寺境目まで遣わし、一定の儀申し越され候、満足に思し召し候、
 
一、由断これあるまじくそうらえども、いよいよ精を入れられ、筑後衆・肥前衆両国の者、肥後へ龍造寺申し談じ、藤四郎大将として、安国寺相副え遣わし、隆景は久留米の城にこれありてもっともに候、両国の者ども人数ばかりにて行なりがたきにおいては、黒田勘解由・森壱岐守両人をもその地へ召し寄せ、その方手人数相副えられ、二番相立つべき儀しかるべく候こと、
 
一、その人数にても事行かずそうらわば、毛利右馬頭立花城まで出馬せられ、久留米城前筑紫居りそうらいつる城、両城にたしかなる留主を差し籠められ、その上において隆景三番目に彼の一左右次第に、久留米ゟ相立たるべく候こと、
 
一、いずれの国に何事出来候とも、この旨を守り、丈夫申し付くべく候なり、
 
 
この御朱印見分し、陸奥守そのほかへ、早〻相届けらるべく候、

 

(大意)

 

 

 8月23日付の書状、今日8日大坂において拝読しました。肥後国人一揆の件、安国寺恵瓊を肥後国境まで派遣し、確実な状況をお伝えくださいましたこと実に満足です。
 
一、油断があってはならないので、今後も入念に筑後の者や肥前の者たちを、龍造寺政家と談合して肥後へ赴き、小早川秀包を大将とし、安国寺を副官として派兵し、隆景は久留米城入城したとのことは適切なことです。筑後肥前の者嶽の軍勢で鎮圧できなければ、黒田孝高・毛利吉成両名を肥後に招集し、そなたの手勢をつけて、二番手として出陣すること、
 
一、孝高・吉成が加勢しても鎮圧できなければ、毛利輝元を立花城まで出馬させ、久留米城および以前筑紫広門が居城としていた勝尾城の両城に信頼できる留守番を置き、その上で隆景が三番手として彼の下知次第、久留米を出発すること。
 
一、どこの国で何が起きようと、この旨を守り、しっかり命じるように。
 
 
この朱印状を見次第、佐々成政ほかに、早速お届けください。

 

Fig. 筑前国立花城・筑後国久留米城周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

 ①は肥前や筑後にいる者たちを、佐賀の龍造寺政家と連携しながら招集し、小早川秀包を大将、安国寺恵瓊を副将として派兵したことと隆景が久留米城に着陣したとの報告を受け、さらに二番手として孝高・吉成軍を投入するよう指示している。

 

②はそれでも鎮圧できないときは筑前国糟屋郡の立花城に毛利輝元を置き、久留米城と勝尾城に「留主」を置き、隆景に三番手として攻撃するように命じている。

 

③はどこの国でどのようなことが起きようとこの趣旨を堅持するよう命じている。「決して油断しないように」しかし、手勢で鎮圧できないときは二番手、三番手を送るよう指示している。今風にいえば「プランB」、「プランC」を具体的に示していたわけである。危機管理の要諦は「最悪に備え最善を願う」ことだとはアメリカドラマのセリフであるが、秀吉は「最悪」に備えていた。楽観視しないというのが秀吉の流儀だったのだ。

 

*1:この文書。正確には花押のある「判物」で「朱印状」ではないが、おそらく同じ文書を複数発給して宛名により花押と朱印の使い分けをしたのだろう

*2:佐々成政

*3:恵瓊

*4:確定していること

*5:政家

*6:小早川秀包

*7:補佐

*8:久留米、図参照

*9:テダテ、軍事行動

*10:筑後や肥前の軍勢だけで鎮圧できないときは

*11:孝高

*12:毛利吉成

*13:二番手

*14:輝元

*15:筑前国糟屋郡、図参照

*16:広門

*17:完了の助動詞「つ」の連体形

*18:以前筑紫広門が居城としていた肥前国基肆郡勝尾城、図参照

*19:隆景の下知があり次第

*20:シュッタイ

*21:天正15年

*22:隆景

天正15年9月7日安国寺恵瓊宛豊臣秀吉朱印状

 
 
    猶以陸奥守*1かたへ之朱印*2、早〻可被相届候也
 
去月十八日之書状披見*3候、肥後表之儀陸奥守国衆又ハ百姓已下へ之申付様*4悪候哉、一揆*5少〻相催、猥成之由被*6申越候、不相構註進*7等、肥後境目之在ル人数を催、陸奥守所へ加勢可然候、隆景者筑後内くるめの城*8迄尤候、先を被聞届可被随其旨申遣候、左様候て黒田勘解由*9・森壱岐守*10両人之者も留守を丈夫ニ置之、隆景次第ニ可相動之由申遣候、定雖不可有由段候、為心得候間早速被出人数可然候、隆景へ可申遣候、龍造寺*11かたへも同事候也、
   九月七日*12(朱印)
      安国寺*13
 
(三、2289号)
 
(書き下し文)
 
去る月十八日の書状披見候、肥後表の儀陸奥守国衆または百姓已下への申し付けよう悪しく候や、一揆少〻相催し、みだりなるの由申し越され候、註進などに相構わず、肥後境目のある人数を催し、陸奥守所へ加勢しかるべく候、隆景は筑後内久留米の城までもっともに候、先を聞き届けられその旨に随わらるべく申し遣し候、さよう候て黒田勘解由・森壱岐守両人の者も留守を丈夫にこれを置き、隆景次第に相動くべきの由申し遣し候、さだめて由段あるべからず候といえども、心得ために候あいだ早速人数を出され然るべく候、隆景へ申し遣すべく候、龍造寺方へも同事に候なり、
 
なおもって陸奥守方ヘの朱印、早〻相届けらるべく候なり
 
(大意)
 
先月十八日付の書状拝読しました。肥後の件は成政が国衆や百姓たちへの支配が悪かったためだろうか、一揆などを結び、不穏な様子になっているとそなたからご報告がありました。報告の有無にかかわらず肥後国境にいる軍勢を引き連れ、成政の陣へ加勢したことは適切です。隆景は筑後久留米城に入ったとのことこちらももっともなことです。先々の様子を聞きその状況に応じて行動するよう申し遣わします。そういうわけですから、孝高・吉成両名も居城に留守を置き、隆景の下知次第攻撃するよう伝えました。決して油断せぬよう心得てください。早々に出兵されたこともっともなことです。隆景へも申し伝えます。政家へも同様です。
 
なお成政への朱印状早々に届けてください。
 
 

 

 一揆契状で代表的なものといえば毛利氏のものであろう。円形に署名することで上座下座を不可視化し垂直的序列を排して特別な関係を結ぶ。エンドロールの役者の配列やリモート会議の配置など上座下座をめぐる争いは古今東西絶えないものである。毛利元就の長男が隆元、次男が吉川元春、三男が小早川隆景で父子三兄弟の序列はこの署名からは読み取れない。

 

Fig.1 毛利元就ほか11名一揆契状署名欄

 

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                『大日本古文書 毛利家文書之一』226号

  恵瓊に対し「申し越され」、「聞き届けられ」など尊敬の助動詞「被」(らる)が使われていて全体的に丁重な文体であり、秀吉と恵瓊の関係を見るとき重要な点である。

 

小早川隆景は居城である筑前国糟屋郡名島城から、肥後に出陣した猶子秀包の居城筑後国御井郡久留米城へ入った。豊前国企救郡小倉城主毛利吉成や同仲津郡中津城の黒田孝高も肥後国境まで進軍した。

 

Fig.2 豊前・筑前・筑後・肥前・肥後周辺図

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

下線部によると、成政の国衆や百姓への対応が不適切だったことが一揆の原因であると恵瓊は秀吉に報告したようだ。孝高宛の同日朱印状には「一揆そのほか不届なる国侍これあるにおいては、きっと成敗すべきの由陸奥守へも仰せ遣わされ」*14と恵瓊に託した朱印状の内容がうかがえる。「国侍」と呼ばれる土豪の存在を秀吉は認めていたが、ここにきて反旗を翻すような「不穏分子」は殲滅せよと命じたわけである。ちなみに徳川幕府は天草島原一揆までは「一揆」と表現していたが、その後一揆という呼称を避け「徒党」などに変えている*15

 

さらに山門郡柳川城主立花宗茂にも同内容の朱印状を同日発している*16。     

*1:佐々成政

*2:成政宛の朱印、未発見

*3:隆景が恵瓊を肥後に派遣して報告した秀吉への書状

*4:同日付隆景宛判物では「あたり様」=接し方と見える。2291号

*5:一味同心という連帯の心性を共有する人々で構成された集団のこと。日本の中世は一揆の社会といわれ、たとえば弘治3年12月2日毛利氏の一揆契状に見られるように構成員は全員平等の原則が貫かれている。図1参照

*6:恵瓊への尊敬語、以下同様

*7:上申すること、同日付孝高宛は「隆景へも」とあるので「隆景に報告せず」の意。2290号

*8:筑後国御井郡久留米城、図2参照。毛利元就の末子で隆景の猶子秀包の居城

*9:孝高

*10:毛利吉成

*11:政家

*12:天正15年

*13:恵瓊

*14:2290号

*15:こうした言い換えは歴史上しばしば行われる。ある用語がいつごろから、どのような意味合いで用いられるようになったかを明らかにすることは歴史学の基本的作業である。たとえばある政治的転機を「革命」と呼ぶか「クーデター(反乱)」と呼ぶかは立場によって、また歴史学上の解釈によって異なってくる。「本能寺の変」に革命的要素を見出すことができれば「本能寺革命」と呼ぶことも可能である。もともと「revolution」は「回転、天体の公転、季節が一巡りする周期」を意味し、漢語の「革命」とは別の概念だった。「coup d'Etat」は「既成の秩序への反抗」、テロルは恐怖の意で、スターリンによる粛清は「Большой террор」(バリショーイ・テロル)で大弾圧・大恐怖政治の意

*16:2292号

天正15年8月日町野重仍・上部貞永宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

    定

 

一、最前度〻以御朱印*1被仰出候、猶以諸事猥無之、大神宮可相守神慮*2儀肝要之事、

 

一、博奕*3任御法度停止之事、

 

一、宮河内*4地下人公事*5等之時、両人*6ニ申聞、於相紛者*7山田三方*8年寄*9共一同罷在、可致言上事、付諸座并大工所*10被相破事

 

一、盗人之儀能〻遂糺明、山田上下*11相渡可成敗事、

 

右之条〻被定置畢、若違犯之輩於在之者、忽被処罪科之由*12也、

 

   天正十五年八月 日 御朱印

            町野左近*13

            上部越中守*14

(三、2286号)

 

(書き下し文)

 

    定

 

一、最前度〻御朱印をもって仰せ出だされ候、なおもって諸事猥りこれなく、大神宮相守るべき神慮の儀肝要のこと、

 

一、博奕御法度に任せ停止のこと、

 

一、宮川のうち地下人公事などのとき、両人に申し聞き、相紛れるにおいては山田三方年寄ども一同罷り在り、言上致すべきこと、つけたり諸座ならびに大工所相破るるべきこと、

 

一、盗人の儀よくよく糺明を遂げ、山田上下相渡し成敗すべきこと、

 

右の条〻定め置かれおわんぬ、もし違犯の輩これあるにおいては、たちまち罪科に処せらるべきの由なり、

 

 

(大意)

    

    定書

 

一、以前より何度も朱印状が発せられているとおり、万事滞りなく伊勢神宮をお守りすべき神慮を最優先するように。

 

一、博奕は以前より御法度なので禁止のこと。

 

一、宮川より内側の住人が揉め事を起こしたときは町野・上部両名に申し開きをするように訴人・論人の申し立てを聞くように。それでも紛糾した際は山田三方の年寄が上坂し、訴え出るように。つけたり、諸座および大工所は撤廃すること。

 

一、盗人を捕縛した際は是非を糺し、山田上下の者へ身柄を渡し処罰しなさい。

 

右定めたところである。これに背く者は厳しく処罰する。

 

 

 Fig.1 伊勢国度会郡山田・宇治周辺図

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                   『日本歴史地名大系 三重県』より作成

天正12年12月4日上部・町野両名連署で「山田三方」宛に定書が下されている*15

 

山田三方は下図のように「三方」と記し、代表者三名の「立派」な花押を据えているように文書の受発給者となる主体で、それを差配したのが上部・町野である。

Fig.2 「山田三方」花押

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史料編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」年未詳4月14日光明寺宛山田三方書状

 

               (花押1)

     卯月十四日 三方  (花押2)

                  (花押3) 

 

 

上部貞永は伊勢の御師で、御師とは参詣者を遠隔地から誘導し、祈祷や宿泊の世話をするものである。御師の縄張り(テリトリー)を「檀那場」、「霞」、「霊場」などと呼ぶ。なかでも伊勢御師は全国的なネットワークを展開し、伊勢白粉や伊勢暦、茶など伊勢みやげを檀家にもたらし、商人的性格を帯びていた。天正2年10月1日、織田信長は貞永配下の高向源二郎・同二頭大夫が尾張国の「檀那」(信者=パトロン)と契約したことを認める旨の朱印状を発している*16。こうした地域的・宗教的有力者を取り込むことで、信長や秀吉は支配を固めていったのだろう。
 

檀那場も「檀那職」として譲渡や売買の対象となった。当然ながら縄張り争いも絶えず「島を荒らす」行為はしばしば見られる。檀那がサンスクリット語の「布施」を意味する「ダナー」に由来すること、「ダナー」が臓器提供者を意味する「ドナー」の語源であることは今日よく知られるが、檀那(ダンナ)は寺社に金銭を文字通りダナー=ドネイトしていた。

 

近世になると「瞽女」、「座頭」などと呼ばれる人々が定期的に村を訪れ、村の財政である「村入用」から彼ら/彼女らに金銭が支出されている。訪問先の村もおそらく「縄張り」的なもので檀那場であったと思われる。村人にとっては「情けは人のためならず」の精神の発露だったのだろう。

 

なお子牛が市場に売られてゆく様を「ドナドナドーナドーナ」と悲しげな調べで歌う「ドナドナ」とは関係なさそうである。

 

 

追記 2021年7月11日

 

「両人」を上部・町野両名としたのは誤り。原告である「訴人」と被告である「論人」両名に申し開きさせる、とすべきだった。天正12年の両名連署状で山田三方に次のように命じている。

 

故実法度を相守らるべし、論所対決においては三問三答たるべし、

 

 

三問三答とは、原告である訴人が裁定機関へ「訴状」を提出して受理されると、被告である論人へ弁明を求める「問状」が発せられる。訴状と問状を受け取った論人は「陳状」という答弁書を提出し、訴人に反論する。証拠となる文書などもあわせて提出するが、これを三回繰り返すことを三問三答と呼び、中世の伝統的訴訟方式である。訴人論人が申し立てをすることを「訴陳」という。 

 

 

*1:天正12年12月4日山田三方宛上部貞永町野重仍連署「定書」中に見える「秀吉様御諚の趣き」か

*2:神の御心、天子の意思

*3:バクエキまたはバクチ。囲碁や樗蒲、双六など勝負を争う遊戯の総称。賭博

*4:宮川より内側=伊勢神宮側。図1参照

*5:訴訟のこと。中世で「公事」といえば多くは年貢以外の課役=現物・現夫や銭納を意味したが、近世では「公事方御定書」のように裁判という意味で用いられた。富沢清人氏によれば「いやでも避けがたいこと」から天然痘=「疱瘡」の意味もあるという

*6:町野と上部、追記参照

*7:調停できないときは

*8:山田の自治組織、「岩渕方」「須原方」「坂方」よりなる。図2参照

*9:「重立った指導者」の意味で「老・乙名・長」などを「おとな」と読むのと同じ。相撲の「年寄株」にその痕跡を留める。なお「おとな」には「成人した/アダルトの」以外に「指導者」=Führerの意味があり、成人したからといって「おとな」になれるわけではない

*10:「大工職」を持つ者がたむろする会所。大工職は大工職人の営業独占権、あるいは親方として番匠などの職人をとりしきる権利で相続、売買の対象となった。現在と異なり、中世までは土木建築に限らず手工業技術者全般の「長」を指す。元亀2(1571)年6月23日織田信長は尾張国愛知郡鍋屋上野村の鉄屋太郎左衛門=水野範直に「鉄屋大工(鋳物師)職」の安堵を認める朱印状を発している。奥野信長文書集286号。また天文4(1535)年12月10日「一屋之鍛冶後室(後家)にし女」は鍛冶父子の後生菩提を弔うため、大徳寺智永坊に銭100疋にて「当寺鍛冶大工職」を永代売買している。大徳寺文書929~930号

*11:上掲「定書」中の「僧俗老若とも」に相当。「山田全体」の意

*12:「由」だと「罪科に処せられるそうだ」、「罪科に処せられるとのこと」となり朱印状の文面としては不自然。写し取った者が「候」を読み損なったのだろうか

*13:重仍、山田奉行

*14:ウワベ貞永、伊勢外宮の権祢宜

*15:「大日本史料」第11編10冊277頁

*16:奥野信長文書集475号