日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年8月4日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状写(抄出)

 

 

  長曽我部*1侘言*2申付、森兵吉*3差上一書并口上之趣、何も聞届候、
一、長曽我部実子・同家老者とも人質可相越之条、脇城*4・一宮*5事、両城主為人質主残之由尤候、城を請取、本丸へ入置人数之由尤候事、
 (中略)

 一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉*6・くろた官兵衛*7両人差遣、城々請取、小早川ニ可相渡候、自然何かと申延、城を不渡輩在之ハ、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻、悉成敗可被申付旨、小早川懇ニ可申渡旨、両人ニ可被申付事、

一、いよの国城ともさかい*8目かなめ*9の城申て、自然わたし*10候てハ如何、はちすか彦右衛門尉・黒田官兵衛、秀吉かたへ可尋事も可在之候、早与州儀ハ、小早川*11へ出置候上ハ、何たるおしき*12城成とも、与州の内ならハ、此方へ不得御意*13、請取次第毛利かたへ可相渡候事

 (中略)

右条々、猶以森兵吉ニ申聞候間、聞届、条子之面不相残各可申渡候、少之儀をも此方へ可相尋候也、

   八月四日*14                      秀吉

    美濃守殿*15

 

『秀吉文書集二』1529号、195~196頁

 

(書き下し文)

 

  長曽我部侘言申すについて、森兵吉差し上げ一書ならびに口上の趣、いずれも聞き届け候、
一、長曽我部実子・同家老者とも人質相越すべきの条、脇城・一宮のこと、両城主人質主として残るのよしもっともに候、城を請け取り、本丸へ入れ置く人数のよしもっともに候こと、
 (中略)

 一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛両人差し遣わし、城々請け取り、小早川に相渡すべく候、自然何かと申し延べ、城を渡さざる輩これあらば、後代の懲らしめに候あいだ、毛利家として取り巻き、ことごとく成敗申し付けらるべき旨、小早川ねんごろに申し渡すべき旨、両人に申し付けらるるべきこと、

一、伊予国城とも境目要の城と申して、自然渡し候ては如何と、蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛、秀吉方へ尋ねべきこともこれあるべく候、早与州の儀は、小早川へ出し置き候うえは、何たる惜しき城なりとも、与州のうちならば、この方へ御意を得ず、請け取り次第毛利方へ相渡すべく候こと、

 (中略)

右の条々、なおもって森兵吉に申し聞け候あいだ、聞き届け、条子の面相残さずおのおの申し渡すべく候、少しの儀をもこの方へ相尋ぬべく候なり、

 

(大意)

 

 長宗我部が降伏を申し出たことについて、森吉政が差し出した書面および口頭での報告の趣旨、聞き届けました。

 

一、長宗我部実子・同じく家老の者たちの人質を大坂へ送り届けるので、脇城・一宮城両城主を人質主として城に残すのは理にかなっています。城を受け取り本丸へ入れる軍勢についても同様です。

 (中略)

一、伊予国へ蜂須賀家政・黒田孝高両名を派遣し、諸城を受け取り、小早川隆景に引き渡すこと。万一なにかと理由を付けて城を渡さない者がいたなら見せしめとして、毛利家が包囲してことごとく攻め滅ぼすよう、隆景に念入りに伝えるよう、家政・孝高両名に命じてください。

一、伊予国と城は境目の重要な城なので隆景に渡したらどうなるかわからない、と家政・孝高がこちらへ尋ねることもあるでしょう。しかしもはや伊予は隆景に与えると決めた以上、どんな名城だろうと伊予国内の城は、秀吉に尋ねることなく、城を受け取り次第毛利方に明け渡すようにしてください。

 (中略)

右の条々森吉政に申し伝えたので、よく聞き届け、詳しく各自に伝えてください。なお少しでも疑問があればこちらへ問い合わせてください。

 

 

Fig.1 四国国分概略図

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                   『日本歴史地名大系』徳島県より作成

 

四国に覇を唱えた長宗我部元親が伊予・讃岐・阿波を差し出し、降伏を申し入れたさい、伊予の国分をめぐって蜂須賀家政・黒田孝高が秀吉に異議を申し立てた。伊予は国・城ともに「境目」にある「要衝」であるとして、小早川隆景に与えるのは禍根を残すということである。しかし秀吉は「何たる惜しき城なりとも」(どのように惜しい城であっても)もはや決定したことなので伊予国内の城は残さず毛利方、すなわち小早川方に渡すよう答えている

 

すでに秀吉は従一位関白藤原秀吉であるが、小早川氏に一方的に命ずることなく、約束を果たそうとした。つまり公家的秩序とは異なる、武家的関係に秀吉が縛られていたことを意味する。関白任官で武家を靡かせるにはまだこの時期できなかった。文書の形式も従来通りで充所の位置は高い。参考のため、この頃の官位を図に示した。形骸化著しい上自称も多いのであくまでも参考である。

 

Fig.2 天正13年の官位

 

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城を長宗我部側の城主から家政・孝高が受け取ったあと、小早川氏に引き渡すよう述べており、さらに「万一滞るようなら毛利家として城を攻め滅ぼすよう、小早川氏に懇ろに伝えるように」とも述べていて、小早川氏にずいぶんと配慮している。

 

8月14日秀長は隆景にあてて「与州(伊予)城々両人(蜂須賀家政・黒田孝高)差し越しきっと請け取り、これを渡し進ずべく候、われらにおいては無沙汰に存ぜず候」(伊予国内の城という城は家政・孝高を派遣し、受け取った上でお渡しします。決して疎かにしているわけではありません)と書き送っており、隆景に対してかなりナーバスになっていたようだ*16

 

「長元記」、「土佐軍記」は、秀吉はこの四国仕置において、長宗我部氏に与した阿波・讃岐・伊予の「国持衆」、「国侍」*17をことごとく追放し、彼らが牢人になったことを伝える*18。いわゆる「天下統一」戦争で牢人を多数生み出すことは必然だった。彼らをどのように体制内に包摂するか、あるいはその埒外に置くか、「惣無事」を掲げる政権のアキレス腱になったことは想像に難くない。

 

*1:元親

*2:降伏の申し出

*3:吉政

*4:阿波国美馬郡

*5:同国名東郡

*6:家政

*7:孝高

*8:

*9:

*10:

*11:隆景

*12:惜しき

*13:秀吉の同意を得ずに

*14:天正13年

*15:羽柴秀長

*16:『大日本古文書 小早川家文書之一』216号、211頁

*17:国人もしくは国衆に相当

*18:『大日本史料』第11編18冊42~45頁

天正13年7月15日近衛信輔宛親王准后座次定書

 

 

(端裏ウハ書)

「 近衛*1殿 」

 

一、親王准后*2座次*3之儀、可為各座*4、但龍山*5伏見殿*6者不混自余*7之条、此両人者何時ならはれ*8候て、可為各座事、

一、同法中*9之儀、惣並*10之准后親王間のことく可為各座事、

一、前関白*11法中之准后可為各座之事、付法中之親王*12同前事、

   親王准后相論之事、古今無一決者歟、然今度於大徳寺遂糺明、或求職原*13官班*14両趣、或披*15双方旧記*16
   悉令批判*17、右之三ヶ条定置之者也、可為後代亀鏡*18者哉、仍以此趣被成(闕字)勅書、猶為治定*19之間、
   告触諸家諸門畢、弥可被守此法度者也、
  天正十三年七月十五日
     関白(花押)

 

『秀吉文書集二』1497号、184頁 
 
(書き下し文)
 

一、親王と准后座次の儀、隔座たるべし、ただし龍山と伏見殿は自余に混ぜざるの条、この両人は何時も並ばれ候て、おのおの座たるべきこと、

一、同法中の儀、惣並の准后と親王あいだのごとく隔座たるべきこと、

一、さきの関白と法中の准后隔座たるべきのこと、付けたり法中の親王同前のこと、

 
親王准后相論のこと、古今無一決するものか、しかりこのたび大徳寺において糺明を遂げ、あるいは職原・官班両趣を求め、あるいは双方旧記を披き、ことごとく批判せしめ、右の三ヶ条これを定め置くものなり、後代の亀鏡たるべきものかな、よってこの趣をもって勅書をなされ、なお治定たるのあいだ、今諸家・諸門に告げ触れしめおわんぬ、いよいよこの法度を守らるるべきものなり、
 
(大意)
 
一、親王と准后は隔座すること。ただし近衛前久と邦房親王は他と一緒にせず、つねに隣り合わせて、他の者は隔座すること。
一、出家した親王と准后については、准后と親王のように隔座すること。
一、前の関白と出家した准后は隔座すること。付けたり、法親王も同様とする。
 
親王・准后間の相論は前代未聞の決着であろうか。その通り。このたび大徳寺において真実を追究し、一方で職原抄や官班にその答を求め、他方で両者の文書・記録を参照し、すべて吟味した上で、右の三ヶ条を定めたものである。後世の手本となるものだろう。よって本書の趣旨の通り勅書が下され、決定したので諸家諸門に周知せしめたところである。今後この法度をお守りになるように。
 
 

 

 天正13年5月下旬、左大臣近衛信輔が関白職を望むと、現関白二条昭実と相論に発展した。昭実が大坂に下向したさい、仲裁を前田玄以に依頼したところ、秀吉はこれに介入し、

 

 関白の濫觴*20は一天下をあずかり申すをいうなり*21今秀吉四海*22を掌*23に握れり、五家*24をことごとく相果たされ候とも、誰が否と申すべき

 

『大日本史料』第11編26冊、70頁

関白の起こりは天下を「関」かり「白」すと称することに始まる。今天下は秀吉の掌中にあり、五摂家をすべて絶やしたところで誰が否と言うだろうか

 

 と再三近衛家に申し入れ、関白職を要求するようになる。もちろん「天下を手に入れた」といっても、まだ長宗我部氏と交戦中で、九州や関東以北、越中の佐々成政などは服属していない。

 

7月11日秀吉は「平秀吉」改め「藤原秀吉」として、従一位関白に任じられる。13日に紫宸殿にて宴が催されるが、親王と准后のあいだで席次をめぐる相論が起き、欠席者も出した。その裁定が本文書であり、関白として公家社会に鮮烈デビューを果した秀吉の、文字通り「関白宣言」である

 

三ヶ条の本文部分が突出しているのに対し、秀吉がこの裁定を下すにあたった事情を述べている部分が字下げになっている。おそらく「擡頭」なのだろうがはっきりしない。しかし、差出は「関白(花押)」のみで位置も高く、自信のほどを覗かせる。

 

「今諸家・諸門に告げ触れしめおわんぬ」と述べているとおり、最胤法親王はじめ勧修寺聖信、九条兼孝らに書き送り*25、自身の関白としての威信を親王家や五摂家などに見せつけている。

 

 

*1:信輔、のち信尹。近衛前久の男子。関白二条昭実と相論をおこし、昭実は関白職を秀吉にゆずる

*2:ジュゴウ、准三后の略。太皇太后・皇太后・皇后の三宮(三后)に準じた位

*3:ザナミまたはザジ、席次。「月次」はツキナミで「月ごとの」の意

*4:上下が明確にならない「隔座」、藤井讓治『天皇と天下人』講談社、2018年参照

*5:近衛前久

*6:邦輔親王の王子、邦房親王

*7:ジヨニコンゼズ。他の者と紛れることなく、格別の

*8:並ばれ、隣り合って

*9:ホッチュウまたはホウジュウ、「同」が「親王と准后」なので「法親王と入道准后」

*10:出家していない

*11:サキノカンパク

*12:出家した親王、法親王

*13:北畠親房「職原抄」、中世公家の官職に関する書

*14:青蓮院尊円法親王「釈家官班記」、僧の官職に関する手引き書。なお遠藤珠紀「朝廷官位を利用しなかった信長、利用した秀吉」神田裕理編、日本史史料研究会監修『新装版 ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち』文学通信、2020年参照

*15:ヒラク

*16:古文書や古記録

*17:吟味する

*18:キキョウまたはキケイ。手本、模範

*19:ジジョウ、決着・落着

*20:ランショウ、始まり

*21:「関」は「あずかる」、「白」は「もうす」

*22:天下、国中

*23:タナゴコロ

*24:五摂家

*25:1494~1503号

天正13年9月2日伊沢頼綱外宛蜂須賀家政判物写/三ツ木樫原名主百姓中宛同書状写

 

8月6日長宗我部元親は羽柴秀長に降った。秀吉の関白就任からおよそ1ヶ月ほどのちのことである。しかし、秀吉家臣の蜂須賀家政が阿波に入国すると思わぬ抵抗に遭う。このとき家政が発給した文書の写、2点を読んでみたい。なお翌天正14年には祖谷の「源平の末葉」(源平の末裔)と称する住人たちが、「徒党」を組んで長期にわたって蜂須賀氏の支配に抵抗する*1。大名間で講和が成立しても、在地の世界はまた別の話であり、オセロの駒が一瞬で反転するように勢力図がすぐさま塗り変わるわけではない。

   

 

[史料1]

 

 今度仁宇*2・大粟*3百姓共、非儀之働*4以之外ニ候、其元之者共、少も無別*5馳走*6之由、黒部・久代*7申聞候通、一段満足此事ニ候、弥其元相談肝煎*8肝要候、尚両人可申候也、

  九月二日*9                         小六御書判*10

      住友彦兵衛殿*11

      住友五郎右衛門殿*12

   伊澤志摩殿*13

 

『大日本史料』第11編20冊、13~14頁

[史料2]

 

仁宇・大粟百姓共、非儀之働候所ニ、其元之者共、少も無別儀馳走候由、黒部・名*14代申聞候通、一段満足此事候、弥其元相談肝煎簡要候、尚両人可申候也、恐〻謹言、

  九月二日*15                         小六御書判

   みつきかし原*16

      名主百姓中

同上書、15頁
 
(書き下し文)
 
[史料1]
 
このたび仁宇・大粟の百姓ども、非儀の働きもってのほかに候、そこもとの者ども、すこしも別儀なく馳走のよし、黒部・久代申し聞け候とおり、一段満足このことに候、いよいよそこもと相談じ肝煎り肝要に候、なお両人申すべく候なり、
 
[史料2]
 
仁宇・大粟百姓ども、非儀の働き候ところに、そこもとの者ども、すこしも別儀なく馳走候よし、黒部・久代申し聞け候とおり、一段満足このことに候、いよいよそこもと相談じ肝煎り簡要に候、なお両人申すべく候なり、恐〻謹言、
 
 
(大意)
 両文書ともほぼ同文なのでひとつにまとめる。
 
仁宇・大粟の百姓どもが「非儀」を働くとは言語道断です。それにもかかわらず、そなたたちは反抗することなく奔走したと聞き及んでいます。黒部・久代が申し伝えたとおり実に喜ばしい限りです。今後もよく話し合い「肝煎」することが大切です。なお詳しくは両名が口頭で申します。謹んで申し上げました。
 
 
 

 

 Fig. 阿波国南部周辺図 

  

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凡例 赤は一揆方青は蜂須賀方緑は観光案内を兼ねた                   

『日本歴史地名大系』徳島県より作成

 

現地の反応は一様ではなかったようで、麻植郡三ツ木や勝浦郡樫原の「名主百姓中」(文字通り「名」の「主」)たちが正勝に協力的である一方、祖谷のように数年にわたって抵抗し続けた郷村もある。そうした勢力をのちに帰農していく住友氏や伊沢氏のような土豪を味方につけて鎮圧していったようである。祖谷では美馬郡一宇の土豪喜多源治が降伏した者には「名職」を与え、徹底抗戦する者たちは「討ち亡ぼし」たようにアメとムチを使い分け切り崩し工作を行った*17

 

祖谷は大坂の陣、天草島原一揆のさいに何人か駆り出されており*18、大坂落城から2年後の元和3年には刀改めが行われた。「相州正宗」、「備前正恒」、「備前長光」などの銘品が目録に並ぶ*19。こうしたことから、紀行番組で語られる「隠れ里」のような、あまりにステレオタイプなイメージは一面に過ぎないことがわかる。

 

なお、四国で「住友」といえば別子銅山*20を思い浮かべるが、充所の住友氏と関係あるかどうかはわからなかった。気になる方はこちらを参照されたい。

 

www.sumitomo.gr.jp

 

*1:『大日本史料』第11編20冊、23~25頁。また丸山幸彦「四国山地における蜂須賀氏入部反対運動」『奈良史学』24号、2006年参照 

repo.nara-u.ac.jp

*2:阿波国那賀郡、図参照

*3:同国勝浦郡、図参照

*4:蜂須賀氏への抵抗

*5:「儀」脱カ、「別儀なく」で「裏切ることなく」の意

*6:奔走

*7:家政の家臣カ

*8:世話をする、斡旋する、仲立ちをする。ここでは蜂須賀氏と在地のあいだを取り持つの意。ただし手段は問わなかった

*9:天正13年

*10:「書判」は花押のこと

*11:未詳、麻植郡川田村の土豪カ

*12:同上

*13:頼綱、阿波郡伊沢城主。蜂須賀氏入国時の一揆を鎮圧し、「与頭庄屋」に任じられる。祖先は細川・三好両氏に仕えていた

*14:

*15:天正13年

*16:麻植郡三ツ木・樫原、図参照

*17:『大日本史料』第11編20冊、24頁

*18:『阿波藩民政資料』1124頁

*19:同上書、1125頁

*20:今は「マイントピア」という観光地になっている。鉱山跡地の施設に「マイン」と名付けられる例は珍しくないが、「mine」は「鉱山」、「採掘する」の意味で、最近はサイバー空間上で「鉱脈を掘り当てる」=「マインニング/マイニング」のように使われる。マインの形容詞が「ミネラル」で「ミネラルウォーター」は逐語訳的には「鉱物を含んだ水」を意味する

天正13年7月6日中川秀政外宛羽柴秀吉朱印状

 

 

 態申遣候、

一、秀吉出馬事、先書*1如申遣、外聞候条、可遠慮*2候由、度々依申越相延候、何時成共、自其方一左右*3次第ニ可渡海候、木津城*4落去候国中城々明退、長曽我部*5居城*6取巻候者、五日之逗留*7にて秀吉出馬可申付候事、

一、多人数にて一城取巻候之事、如何候間、一宮*8取巻可申候、但各相談候て、見計可申付事、

一、木津城請手并一宮之請手之事、別紙*9ニ書付遣候、其元様子為可聞届、森兵吉*10差遣候間、美濃守*11相談候て、無越度様ニ肝要候也、 

    七月六日*12                         秀吉(朱印)

     中川藤兵衛尉殿*13

     古田左介殿*14

『秀吉文書集二』1483号、179~180頁
 
(書き下し文)
 

 わざわざ申し遣わし候、

一、秀吉出馬のこと、先書申し遣わすごとく、外聞候条、遠慮すべく候よし、たびたび申し越すにより相延び候、なんどきなるとも、そのほうより一左右次第に渡海すべく候、木津城落去候て国中城々明き退き、長曽我部居城取り巻きそうらわば、五日の逗留にて秀吉出馬申し付くべく候こと、

一、多人数にて一城取巻候のこと、いかがに候あいだ、一宮取り巻き申すべく候、ただしおのおの相談じ候て、見計らい申し付くべきこと、

一、木津城請手ならびに一宮の請手のこと、別紙に書き付け遣わし候、そこもと様子聞き届くべきため、森兵吉差し遣わし候あいだ、美濃守相談じ候て、越度なきように肝要候なり、 

 
(大意)
 

 書面をもって申し入れます。

一、秀吉出陣について、先日の書面通り、「外聞」にかかわるのでことわるとたびたび申しているので延引しています。しかしいつでも、知らせがあり次第渡海できるよう準備は整っています。木津城が落城し、阿波国の城という城の兵たちが城を捨て、元親の居城を包囲したなら、その五日の後秀吉みずから出馬します。

一、多くの軍勢で一つの城を包囲するのはいかがなものかと思いますので、一宮城も二手に分かれて包囲するようにしてください。ただし、それぞれよく話し合って臨機応変に命じてください。

一、木津城および一宮城の受け取り手について、別紙書面を送りました。そなたたちの様子をうかがうため森吉政を遣わしましたので、秀長とよく相談の上、過ちのないようにすることが重要です。

 

 

 

 Fig. 阿波国木津城・一宮城と淡路国福良 

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                   『日本歴史地名大系』徳島県より作成



 「先書」、「別紙」でも秀長が「外聞」を理由に秀吉の出陣をたびたび拒否したとある。「外聞」は世間体や評判、名誉という意味で「外聞実儀」(名誉と実益)といったかたちで多用される文言である。ただし、秀吉は多くの家臣に「秀長が外聞にこだわって出陣を拒否している」旨伝えているので「秘密」というニュアンスはなさそうだ*15

 

秀長は秀吉みずから出馬しては面目が立たないと考えていた。それは和泉・紀伊二ヶ国の大大名としてふさわしい働き、つまりノブレスオブリージュを果たそうとすることである。二ヶ国を5月に与えられたばかりであり、当然の務めだった。

 

また一つの城に大軍を投入するのは非効率であるとも述べていて、「計算高い」秀吉らしい。戦術面で指示を出しつつ、戦場の状況に応じてよく相談し柔軟に対応するよう書き送っていることから、ある程度の裁量を家臣たちに与えていたようで、彼らが自立的存在だった可能性もある。必ずしも絶対的上意下達というわけではなかった。武家の自立性が奪われ次第に官僚化していく過程を武家の近世化(戦士から治者へ)と見ることもできる。 こうした変化は数世紀単位の長いスパンでなければ捉えられない。ある時代をしばしば「長い16世紀」のように呼ぶのはこのためである。赤穂浪士の討ち入りは「徳川の平和」(Pax Tokugawana)*16の世になってから1世紀のちの出来事であり、こうした中世的な自力救済行為は幕府の禁令にもかかわらずあちらこちらで見られた*17。これは武家に限らない。百姓同士でもしばしば「山問答」、「水問答」*18といった「喧嘩」*19が起きていることは多くの史料が物語るところである。

 

 いささか先走るが、 蜂須賀家政は阿波各地で百姓たちの抵抗に悩まされることになる。秀吉による「平和」=「惣無事」とは何かを考える上でそうした点も考慮すべきだろう。

 

*1:7月3日中川外宛朱印状、1481号

*2:相手の申し出をことわる

*3:イッソウ、たより

*4:阿波国板野郡、図参照

*5:元親

*6:土佐国長岡郡岡豊城、オコウ

*7:とどまる時間、猶予

*8:阿波国名東郡、図参照

*9:同日日根野弘就外10名と長浜衆宛朱印状、1484号

*10:吉政

*11:羽柴秀長

*12:天正13年

*13:秀政

*14:重然、織部で知られる

*15:1481号、1482号、1484号

*16:「ローマの平和」に倣った表現でさまざまな含意が籠められている

*17:このブログで何度も言及してきたが「斬り棄て御免」は俗説である。幕府はこれを「私闘」として禁じているし、戦国大名の分国法でも同様の記述が見られる

*18:入会地の縄張り争いと用水相論

*19:実態は、武装し徒党を組んでいるので合戦に近い

天正13年6月20日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状

 

 

    尚以土佐一国にて候ハヽ、長曽我部*1可指置候、委細甚右衛門尉*2・三郎四郎*3ニ申含候、已上、
 書状并蜂須賀*4其方への書中*5、遂披見候、

一、長曽我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曽我部かたへ進退之分にて、毛利*6方・小早川*7方へ安国寺*8を以令相談、尤之内存*9ニ候ハヽ、右之通ニ可宥免申聞候処、聞違候て、安国寺此方へ罷上、伊与円二*10不給候者外聞*11迷惑*12候由、小早川申由候条、与州円ニ小早川ニ遣候、然間土佐一国にて侘言*13申候者可指置候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎ニ申含、重差越候条、定懇可相達候、

一、廿五日・廿八日・朔日追々人数遣、三日ニ出馬候条、成其意、早々渡海候て、木津城*14成共何成共、見合取巻儀可申付候、面々人数何も一手ニ*15居陣候て、無越度様ニ調儀専一候、

一、甚右衛門尉・三郎四郎ニ申含遣候間、其様子聞届、蜂須賀各へ相談肝要候、謹言、

   六月廿日*16                       秀吉(朱印)

    美濃守殿*17

『秀吉文書集二』1464号、173~174頁
 
(書き下し文)
 
 書状ならびに蜂須賀そのほうへの書中、披見を遂げ候、
 

一、長曽我部のこと、最前申し出でそうらいつるは、土佐一国・伊与国、ただいま長曽我部方へ進退の分にて、毛利方・小早川方へ安国寺をもって相談ぜしめ、もっともの内存にそうらわば、右の通りに宥免すべきと申し聞け候ところ、聞き違い候て、安国寺このほうへ罷り上り、伊与まどかに給わずそうらわば外聞迷惑に候よし、小早川申すよしに候条、与州まどかに小早川に遣わし候、しかるあいだ土佐一国にて侘言申しそうらわば指し置くべく候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎に申し含め、かさねて差し越し候条、さだめてねんごろに相達すべく候、

一、廿五日・廿八日・朔日追々人数遣わし、三日に出馬候条、その意をなし、早々渡海候て、木津城なりともなんなりとも、見合わせ取り巻く儀申し付くべく候、面々人数いずれも一手に居陣候て、越度なきように調儀専一に候、

一、甚右衛門尉・三郎四郎に申し含め遣わし候あいだ、その様子聞き届け、蜂須賀おのおのへ相談じ肝要に候、謹言、

 

なおもって土佐一国にてそうらわば、長曽我部指し置くべく候、委細甚右衛門尉・三郎四郎に申し含め候、已上、

 

(大意)

 

 そなたからの書状と正勝がそなたへあてた書状拝見しました。

一、元親の件、最近申し出たところによると、土佐一国と伊予は今長宗我部の領地について、毛利方・小早川方へ恵瓊を通じて話を通したところ、合意したので、そうせよと命じました。しかし行き違いがあったようで、恵瓊が上坂し、伊予一国を完全にお与えくだされなければ当家の名誉が損なわれると隆景が主張していると申しました。そういうわけで伊予一国を隆景に与えます。そういうことですので、土佐一国でよいと元親が申し出ればそのままにします。詳しくは尾藤知宣・戸田勝隆に言い含め、ふたたび遣わしましたので、今度は間違いなく伝わるはずです。

一、二十五日、二十八日、七月一日につぎつぎと軍勢を遣わし、三日に出馬しますので、そのように心得、早速渡海し、木津城でも何城でもいいから相手と出会い次第包囲するよう命じてください。おのおの軍勢がまとまって陣を構え、過ちのないよう調整してください。

一、知宣・勝隆に言い含めましたので、よく話を聞き、蜂須賀その他と話し合うことが重要です。謹言。

 

追伸。土佐以外は差し出すと申し出たなら、そのまま長曽我部に土佐一国与えてください。詳しくは知宣・勝隆に言い含めました。以上。

 

 

 

 

次に掲げる2日前の小早川隆景にあてた秀吉の書状によれば、長宗我部氏は阿波・讃岐を返上すると申し出たようである。残る土佐と伊予は、土佐を長宗我部氏に、伊予を毛利氏・小早川氏に与えようと話し合っていたが、小早川氏が「外聞迷惑」を理由に伊予一国を与えてほしいと主張しているので、その通りにすると述べている。この間恵瓊が使者となっているが、彼と秀吉は主従関係にはなく、「雇用」関係にあったというのがここ20年くらいの成果のようである*18

 

その恵瓊が秀吉に隆景の主張を述べた部分は「外聞迷惑に候、小早川申す」とクォーテーションマーク(?)を意味する「由」が続いていてやや複雑である。またいくら疑義が生じたからといって念の入ったことに三度も繰り返していてくどい。

 

 

 

[参考史料]

 

今度長曽我部阿波・讃岐致返上、実子出之、子共*19在大坂*20させ、可致奉公申候間、既人質雖請取候*21、伊与儀、其方御望之事候間、不及是非、長曽我部人質相返候上、伊予国一職*22其方進之候、自然*23長曽我部令宥免候者、土佐一国可宛行候也、謹言、

  天正拾参

   六月十八日                         秀吉(花押)

     小早川左衛門佐殿

『秀吉文書集二』1463号、173頁

 

(書き下し文)

 

このたび長曽我部阿波・讃岐返上致し、実子これを出し、子共在大坂させ、奉公致すべきと申し候あいだ、すでに人質請け取り候といえども、伊与の儀、そのほう御望みのことに候あいだ、是非に及ばず、長曽我部人質相返し候うえ、伊予国一職にそのほうこれを進じ候、自然長曽我部宥免せしめそうらわば、土佐一国宛行うべく候なり、謹言、

 

(大意)

 

このたび元親が阿波・讃岐の両国を返上し、実子を差し出して大坂に住まわせてお仕えしたいと申してきました。すでに人質を請け取ったものの、伊予国をお望みでしたので致し方ありません。人質を返した上で、伊予国一円をそなたに進上します。もし元親をお許しになるのでしたら、土佐一国を彼に充行うつもりです。謹言。

 

 

 

両文書で際立つのは朱印と花押の使い分けと「美濃守殿」に対して隆景の場合は「小早川左衛門佐殿」と名字を添えている点である。年代を明記する点においても「公的」文書であり、総じて秀長に比して隆景により厚い。さらに「御望」、「進之候」と丁重な言葉遣いも見られ、この点でも秀長と扱いが異なっている。24日付書状においても同様に、「御辛労」といった丁寧語や、尊敬の助動詞「被」(らる)が用いられるなど恭しい印象を受ける*24。本朱印状を日程的に挟んでいるので扱いの差は歴然であろう。

 

一方秀吉と隆景の関係は、「伊予国を与える」という表現の使い分けにあらわれている。隆景宛の書状では「進之候」(差し上げる)ときわめて慇懃であるのに対し、秀長宛朱印状では「(隆景が)給わずそうらわば(と申している)」(下さらなかったら)、「小早川に遣わす」(小早川に与える)と身分の高低を意識した表現が見られる。「表向」(オフィシャル)には対等であるが、秀吉の「身内」(「奥向」=プライベイト)ではそうでもなかったようだ。土地を与えるなら表向にも主従関係となるはずだがなんとも複雑である。

 

さらに、秀吉関白就任直後の7月19日付隆景宛秀長書状*25においても「御存分」、「御粉骨」、「御使者見及ばれ候」など恭しい表現が見られ、差出が「羽柴美濃守秀長」とあらたまっていることから、少なくとも天正13年ごろ隆景は秀長にとって格上の存在だったことだけは確かである。

 

 

*1:元親

*2:尾藤知宣、秀吉黄母衣衆。但馬国城崎郡豊岡城主

*3:戸田勝隆、同。播磨国飾磨郡姫路城主

*4:正勝。播磨国揖保郡龍野城主

*5:正勝から秀長への書状

*6:輝元

*7:隆景

*8:恵瓊

*9:心の中で思うこと、内々での所存

*10:マドカニ、完全に。後掲参考史料の「一職」と同義

*11:名誉、高い評判

*12:どうしてよいか途方に暮れる、損なう

*13:元親の申し出

*14:阿波国板野郡、城主は東条関之兵衛

*15:まとまって

*16:天正13年

*17:羽柴秀長

*18:関口崇史「安国寺恵瓊」152~153頁、日本史史料研究会編『戦国僧侶列伝』星海社新書、2018年

*19:子たち、複数形

*20:徳川期の「在江戸」

*21:複数の人質のうち一人以上はすでに秀吉のもとへ送られていたらしい

*22:伊予国すべて

*23:もし

*24:1467号。ただし年代はない

*25:『大日本古文書 小早川家文書之一』485号、456~457頁