日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正20年1月吉川広家宛豊臣秀次朱印状を読む その3/止

一、御陣へ召連候百姓之田畠事、為其郷中作毛仕可遣

  之*1、若至荒置者、其郷中被成御成敗旨*2事、付、

  為郷中作毛不成仕合於有之者、兼而*3奉行へ可相理事、
一、御陣へめしつれ*4候若党*5小者*6ニ取替*7之事、去年之配当*8

  半分*9之通、かし*10可遣之、此旨於相背者、とり候も

  の*11ゝ事者不及申、主人ともに可為曲言*12事、
右条々於違背之輩者、可被処厳科者也、
   天正廿年正月日(秀次朱印)
        伯耆西三郡*13之内
           羽柴戸田侍従*14とのへ

(書き下し文)

ひとつ、御陣へ召し連れ候百姓の田畠のこと、その郷中として作毛仕りこれを遣わすべし、もし荒し置くに至らば、その郷中御成敗なさるべき旨のこと、つけたり、郷中として作毛ならざる仕合せこれあるにおいては、かねて奉行へあいことわるべきこと、
ひとつ、御陣へ召し連れ候若党、小者に取り替えのこと、去る年の配当半分の通り、貸しこれを遣わすべし、この旨あい背くにおいては、取り候者のことは申すに及ばず、主人ともに曲言たるべきこと、
右の条々違背の輩においては、厳科に処せらるべきものなり、

(大意)

ひとつ、陣中に連れてきた百姓の田畠の耕作は、各郷村の責任で耕作させるようにしなさい。万一耕作を放棄し、荒地にさせた場合はその郷村として成敗が下されるとの、秀吉様の命である。付けたり、出陣した百姓の田畠を郷中で耕作できない事情があるなら、あらかじめ担当者に申し出でさせるようにしなさい。

ひとつ、従者として連れてきた若党や小者に金銭を貸すことは昨年の割り当て通り「半分」で貸し与えさせなさい。これに背く者は、当事者はもちろん、彼らの主人ともども曲事である。

右の条々に背く者はきびしく罰することとする。

 

唐入に際して郷村の百姓を動員した場合、当然その分働き手が減る。耕作を放棄させたままだとあっという間に荒地になり、荒地に年貢をかけられないので*15、郷村で耕作するよう命じよ、との意味である*16。それを怠れば郷村の責任として処罰する、ということになる。秀吉は水争いに自力救済に及んだ百姓80名余を「喧嘩停止」に背いたとして磔刑に処している*17ことから、これと同等の処分を下す可能性が大きい。なお、「惣無事」を構成する「喧嘩停止」で80名余を磔刑に処した点は注意したい。

 

二条目は、金銭の貸し借りに関するトラブルが発生した際は、主人まで連座させるとしている。綱紀粛正ということだろうが、常にこうした金銭問題が発生していた状況がうかがえる。

 

これらのことから、唐入による動員で、郷村を荒れさせることを恐れていたことが明らかである。そして、秀次から各大名へその点留意するよう促しているのである。

 

時代劇の合戦シーンでは非戦闘員の存在が描かれることは少ない。視聴者を飽きさせないように工夫しているのだろう。しかし簡単な柵をつくるにしても、砦を築くにしても、労働力は必要である。地元から連れて行くか、道中で募るか、現地で動員するかなど重要な問題をはらんでいる。陣地の普請、兵糧の運搬、武器の補給、情報の伝達など非戦闘員なしで合戦は成り立たない。

*1:「遣」は使役の意味で、広家に「郷村の責任で行わせなさい」と命じている

*2:「御成敗」「なされ」とあることから秀吉の命の趣旨という意

*3:前もって

*4:召し連れ

*5:戦闘員、「侍」

*6:非戦闘員

*7:金銭を用立てること

*8:割り当てること、借用に関する基準か

*9:「ハンブ」と読み五分、つまり利息の上限と思われる。ただし年利5パーセントの「5分」ではなく、月ごとの利子率か、文字通りの五分、年利50パーセントと考えるのが妥当だろう。もちろん複利である

*10:貸し

*11:当事者

*12:曲事

*13:汗入郡会見郡、日野郡 

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                   『国史大辞典』より作成

*14:吉川広家

*15:検地帳には「永荒」などが連続して記載されていることがしばしばある

*16:たとえば文禄3年摂津国豊島郡椎堂村検地帳傍線部に「主無」とあるのは名請人がいないことを示しており、秀次の懸念が現実のものとなったということであろう

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               文禄3年「椎堂村検地帳」

また慶長7年近江国甲賀郡岩室村の検地帳にも「永荒」という文言とそれを認めた印が据えられている 

江州甲賀郡岩室村御検地帳 2コマ目

*17:「多聞院日記」同じ天正20年10月23日条、興福寺塔頭多聞院の英俊は「父親の代わりに13歳の子が磔刑に処せられた」という風聞に、「世も末だ」と嘆いている

天正20年1月吉川広家宛豊臣秀次朱印状を読む その2

一、人足*1飯米事、惣別*2雖為御掟*3、尚以給人*4其念を入可下行*5事、
一、遠国より御供仕輩*6ハ、軍役それ/\に御ゆるしなされ候間、来十月にハかはり*7の儀、可被仰付候間、上下共ニ可成其意事、

 

(書き下し文)

ひとつ、人足飯米のこと、惣別御掟たるといえども、なおもって給人その念を入れ下行すべきこと、
ひとつ、遠国より御供仕る輩は、軍役それぞれに御ゆるしなされ候あいだ、来たる十月には替わりの儀、仰せ付けらるべく候あいだ、上下ともに其意をなすべきこと、

 

(大意)

ひとつ、人足役をつとめる者たちに与える飯米について、総じて秀吉さまの命があるからと油断することなく、家臣たちに念を入れさせ、滞りなく与えなさい。

ひとつ、遠国より供の者を連れてきた者の軍役は免除するので、来月十月出替わりを命じられるはずなので、上下の者とも承知しておきなさい。

 

下線部の「遠国」が指す具体的な地域はわからない。ただ「御供」を連れてくれば軍役を免除する、ということは身代わりを差し出せば逃れられるということではないだろうか。「人掃」も不完全で、IDなどという概念もない。つまり、頭数をそろえればよい、と解釈することもできる。

 

もっと踏み込めば「どこかからか供を連れてくれば免除する」という意味かもしれない。

*1:貨物の運搬や普請をする者、非戦闘員

*2:総じて、万事

*3:命令、「御」があるので秀吉の命、具体的には1月5日付豊臣秀吉朱印状。軍勢陣取り先の在々百姓逃散の防止、宿町の商売の妨げの禁止、押買いは一銭切りとある。なおこれに背かない旨の起請文案もある、吉川家文書742号

*4:充所である大名の家臣

*5:ゲギョウ、上位の者が下位の者に米や銭を与えること

*6:従者を従えてきた者

*7:替、奉公人が契約期間を終えて交替すること=出替わりの意

天正20年1月吉川広家宛豊臣秀次朱印状を読む その1

    条々

一、唐入に付而、御在陣中、侍、中間、小者、あらし

  子、人夫以下に至迄、かけ落仕輩於有之者、其

  身の事者不及申、一類并相拘置在所、可被加御成

  敗、但雖為類親、告しらす*1にをいては、其も

  の一人可被成御赦免、

  縦使として罷帰候とも、其主人*2慥なる墨付*3於無之

  者、可為罪科事、

     『大日本古文書』吉川家文書之一、125号文書、92~93頁

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0901/0091?m=all&s=0091

    なお同内容のものが浅野家文書260号文書にも見える  

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0201/0459?m=all&s=0459&n=20

  

(書き下し文)

     条々

ひとつ、唐入について、御在陣中、侍、中間、小者、あらし子、人夫以下にいたるまで、欠落仕る輩これあるにおいては、その身のことは申すにおよばず、一類ならびに相拘え置く在所、御成敗を加えらるべし、ただし類親たるといえども、告げ知らすにおいては、そのもの一人御赦免ならるべし、

たとい使として罷り帰り候とも、その主人たしかなる墨み付きこれなきにおいては、罪科たるべきこと、

 

(大意)

     条々

ひとつ、大陸出兵にあたって、在陣中、侍・中間・小者・荒し子・人夫以下にいたるまで、欠落する者がいたなら、その者は当然として、血縁者すべてと隠し置いた郷村を成敗する。ただし、密告した場合は親類であっても当人一人だけ赦免する。

たとえ、使者として帰村したとしても、その者の主人の保証がない場合は欠落と同様罪科とする。

 

唐入の準備のため人員を確保するよう各大名に命じた掟書と思われる。出兵には戦闘員として「侍」、非戦闘員として「中間」から「人夫以下」を必要とするが*4、彼らが郷村から欠落することを防止する必要がある。現実には逃散・欠落があとを絶たなかったのだろう。

 

先日発見された藤堂高虎小堀正一書状にも「民」として「百性・町人・奉公人」と見える。

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*1:告知

*2:侍~人夫として仕える主人

*3:文書、お墨付き

*4:彼らを「奉公人」と総称していたらしい。なお藤井讓治「身分としての奉公人」(織豊期研究会編『織豊期研究の現在』岩田書院、2017年所収)を参照されたい

元号の難陳は、「和音」で行うべしという主張

 

天明改元の始に、或人眉を顰て、諺に天命*1に盛ると云事有り*2、此年号の間に、何ぞ盛る*3大事*4有らんと囁しが、果して千とせ*5経る繁栄の平安城*6、まさに尽て*7新都となんぬ*8、往し*9明和改元の折からも、八年迄の間は、異なる事も有まじ、明和九に至らば、世人迷惑する事あらんと申せしが、明和九辰年世難数々有て、安永に改られぬ、昔も例なきにあらず、平治改元の時、大宮の左府*10伊道公*11、之を難ぜられて*12平治は平地なり、上下なからんやと宣ひしが、案の如く上下を分ぬ世と成けらし、此伊道公は常に狂語を宣ひて興ぜらるゝ事多かり、其頃阿波*13の大臣と称する人おはしけるを笑ひ給ひて、昔こそきびの大臣はあなれ、今またあはの大臣出たり、後の世には定て稗の大臣、麥*14の大臣など出来ぬべしと興せられぬ、是等唐土の滑稽*15に近し、滑稽は道に非ずして、而も道なる物と云り、和国にては、和音*16の通ずる処をもて、吉凶おのづから顕はるゝなり改元の時諸卿の難陳は、字義*17に寄る許なり、冀くは*18俳諧に長ぜしものを難陳に召加へられなば、此難*19は有べからず俳諧則滑稽なり、既に軍陳*20には和音の響をもぱら*21用らるゝ事にて、御当家*22国初にも桂の里の桂姫*23、美濃の大柿*24をはじめ、いさゝかの言葉に、吉凶をはからるゝ例不可勝計*25

           底本は国立国会図書館蔵「翁草 校訂 第十七」

 

国会図書館蔵の「翁草」*26は異本と言われている。

 

下線部①は「明和九年」は「迷惑年」と読めるので、8年までは安心できるが9年になると大事が起きると噂されていた、とある。ただこれは後付けの可能性がある。

 

②には平治が「平地」に通じ、上下の秩序が崩れると藤原伊通が主張し、実際そうなったとある。

 

③は日本では「和音」で吉凶を占うことができると述べている。

 

④では年号を決める難陳に儒学者に加えて、俳諧に通じた者を列席させよ、と述べている。

 

要するに、俳人である「翁草」の著者、神沢杜口(かんざわとこう)のような者を難陳に加え、日本の古典から年号を決めるべきと主張しているのである。

 

 田沼意次松平定信のころ、すでにこうした主張が見られたことは興味深い。

 

*1:天罰

*2:天罰が度々下るの意

*3:サカル、勢いが盛んになる

*4:危険な状態

*5:千歳

*6:平安京

*7:ガリテ、衰えること

*8:天明8年の大火

*9:ユキシ、過去の、かつて

*10:左大臣唐名

*11:藤原伊通

*12:年号を決めるために難者と陳者にわかれて議論を重ねること、難陳

*13:「阿波」と「粟」

*14:「麦」の異体字

*15:俳諧の意

*16:日本流の漢字音、呉音、あるいは漢音・呉音以外の慣用音

*17:文字の表す意味

*18:こいねがわくは

*19:災い

*20:軍議

*21:もっぱら

*22:徳川家

*23:出陣の際に祝詞を述べる巫女

*24:駿河国桐雲寺にて献上された柿の名前が「美濃の大柿」だったことから、美濃大垣城はすでに落ちた、という故事

*25:勝るべからざるばかり=少しも多いわけではない

*26:寛政年間成立

天正18年6月12日石田三成宛豊臣秀吉朱印状を読む

忍之城*1儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様与、達而色々歎*2申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、然者憐*3郷可成荒所候間相助、城内小田原*4ニ相籠者共足弱*5以下者端城*6へ片付、何茂*7請取候、岩付之城*8同前ニ鹿桓*9*10結廻*11入置、小田原一途之間者、扶持*12方可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城*13請取急与可申上候、城内家財物共不散様、政道*14以下堅可申付候也、

  六月十二日 (秀吉朱印)

      石田治部少輔とのへ*15

 

            名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 四』3267号文書、183頁

 

(書き下し文)

忍の城の儀、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せ付けられ候といえども、命までの儀御助けなられ候ようと、たって色々歎き申すよし候、水責めに仰せ付けられ候は、城内の者ども、定めて一万ばかりもこれあるべく候か、しからば憐郷荒所になるべく候あいだあい助け、城内小田原にあい籠る者ども、足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿桓結廻入れ置き、小田原一途のあいだは、扶持方申し付くべく候、その方の非、御疑いならるべく候あいだ、別して奉行これを遣わさるに及ばず候、本城請け取りきっと申し上ぐべく候、城内家財物共散らざるよう、政道以下堅く申し付くべく候なり、 

 

(大意)

忍城を落としなさいと、きびしく命じました。しかし、命をお助け下さいと、歎願してきたとのことです。水攻めを命じたのは、城内に一万人はいるに違いないから、郷村が荒れる違いないので、それではあまりに気の毒で手を差し伸べようとしたからです。忍城内や小田原城に立て籠もっている者のうち、足軽以下は支城へ移動させ、忍城小田原城を落城させるようにしなさい。岩付城は忍城と同様に鹿垣をめぐらせ、小田原北条のためと必死に立て籠もっている者へは、食糧をしっかり与えるよう命じ、籠絡しました。このまま落城できなければ、その方の非を疑うようになるでしょう。しかし、別の指揮官を派遣することはしません。忍城を落城させると必ず報告するようにしてください。落城の際城内が散らかっていることがないように、兵士への仕置を必ず行うよう、ここに命じます。

 

忍城では石田三成による水攻めが行われていた。当時、3つの城のうち岩付城のみが降伏していた。

 

文面は複雑で、当人たちが当然知っているものとして書き記さなかった文言もわかりにくく、逐語的に解釈しても泥沼に引き込まれそうである。おそらく、秀吉が三成に忍城落城をうながした朱印状であろう。

 

岩付城、忍城小田原城の落城月日

落城 月日    
小田原城 7月13日 秀吉入城
忍城 7月14日 以降
岩付城 5月20日  

 

さて「足弱」の解釈がここで問題となる。というのも足軽を指すなら戦闘員の扱いですむが、老人・女性・子どもとなると籠城する者が戦闘員だけでなく、城下はもちろん周辺郷村から多くの者が城に逃げ込んだことになるからだ。この違いは大きいが、この文書だけではどちらとも判断しがたい。

 

*1:武蔵国埼玉郡

*2:歎願すること、「侘言」と似たニュアンス

*3:

*4:相模国足柄下郡/北条氏の呼称は「西郡」

*5:足軽、または老人・女性・子ども

*6:本城に対する支城、枝城

*7:忍城小田原城

*8:武蔵国埼玉郡

*9:

*10:シシガキ、本来は竹や枝を編んでつくった獣害防止のバリケード、ここではそれを軍事転用したもの

*11:結界

*12:助けること、ここでは籠城していた兵たちに食糧を与えることの意か

*13:忍城

*14:取り仕切ること、禁止すること、仕置きすること

*15:石田三成