日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

明治年間の郵便物宛先に見える「国」

 

明治以降、東京・大阪・京都を「府」とし(1943年に「東京府東京市」は「東京都」に発展的解消)他を「道」「県」とすると通常説明されている。しかし、実際にはかなり流動的で市町村が他府県へ編入されることもあった。

 

また以前触れたように「巨大愛媛県」のように現在の香川県愛媛県を併せて「愛媛県」とした時期もあるなど、県レベルの合併・分割も見られた。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

ところで、明治以降の郵便物を見ると宛先に「県」表記が見られないことがある。

 

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明治時代の封筒 5点 : なんでも鑑定団お宝情報局2

 

一番右には佐渡国雑太郡三宮村字一丸」(現佐渡市畑野町)、真ん中には近江国愛知郡柳川村」(現彦根市柳川町)とある。

 

 

夏目漱石の書簡と短冊2点 : なんでも鑑定団お宝情報局2

 

夏目漱石がしたためた書簡にも同様に「伊予(国脱カ)越智郡下朝倉村」(現今治市)とある。消印の日付は確認できないが、Wikipediaによれば「下朝倉村」は明治22年(1889)の町村制施行により成立したとあるので、それ以降とみられる。

下朝倉村 - Wikipedia

 

つまり、「巨大愛媛県」の解消直後に成立した、伊予国のみの愛媛県であるのに「愛媛県」ではなく「伊予」としているのである。

「開運!なんでもお宝鑑定団」2018年4月1日再放送で紹介された年未詳11月5日上野信孝宛毛利元就毛利隆元連署披露状を読む

 

番組で上記の文書が出品されたので読んでみる。

 

増田孝氏(日本古文書学)が「平出」を丁寧に解説されたのだが、画面を見ると「進上」が一字分、上に突き出ている「擡頭」の形式をとっているのではと感じたので、それも含めて読んでみる。

 

 

 就富永山城守儀

 御内書謹而致頂戴候任

 上意令入魂候此等之旨

 可預御披露候恐惶謹言

  十一月五日      大膳大夫隆元(花押)

             陸奥守元就(花押)

進上 上野民部太輔殿

 

 

(書き下し文)

 

富永山城守の儀について、御内書謹しんで頂戴いたし候、上意にまかせ入魂せしめ候、これらの旨御披露にあずかるべく候、恐惶謹言、

 

 

*披露状:「書札礼(しよさつれい)における書状の一様式。身分のへだたる将軍など貴人に対し,あるいは大名など一国内の絶対者に対し,敬意を表すために書状を直接本人の名あてにせず,その人に近侍する奉行人,用人などにあて,書状の本文内容を取り次ぎ披露することを依頼する形式」(平凡社世界大百科事典)

 

*富永山城守:富永元安。「大日本史料」天正2年閏11月20日の条「湯原系図」に「湯原元綱母富永山城守元安娘」とある。

 

*御内書:足利将軍家が発給する私的な書状形式をとった公文書

 

*大膳大夫隆元:毛利隆元

 

陸奥守元就:毛利元就

 

*上野民部太輔:上野信孝、室町幕府の奉公衆、備中国鬼邑山城主 上野信孝 - Wikipedia

 

 

 

 東大史料編纂所のデータベースで作成した毛利隆元文書の即席目録はこちら。

docs.google.com

テレビ番組での史料提示についての疑問

 

最近の歴史番組は原文書を提示することが多く、一見実証性が重んじられているかのような印象を受ける。しかし、あるときは原文書、あるときは活字史料と、説明なく使い分けているとなんとなく落ち着かなくなる。

 

また、前後を映さず一部だけを拡大する場合も多く、その解釈が妥当なのか判然としない場合もあり、モヤモヤするばかりだ。スタジオでは目からうろこが落ちたと言わんばかりのはしゃぎようで、彼我の溝は広がる一方である。

 

まれに、文書の映像にサブタイトルで翻刻を添える場合、読み損ないもあるので注意が必要である。

 

 

またこういうこともあった。元禄関東地震を取り上げたニュースで、アナウンサーが「死者およそ1万人」と原稿を読み上げた画面に当時の記録が映された。そこにはこうあった。

 

・・・拾万人・・・

・・・壱万人・・・

 

画面を見れば、少なくとも11万人の犠牲者が出たと錯誤しそうになる。気になったので原典をネットで探し、アクセスできたので読んでみると、犠牲者は20万人以上との記載だった。もちろんこの記録が正確であるとは限らないし、他の史料とつきあわせる作業が不可欠であることは言うまでもない。

 

しかし、提示する以上「ここには20万人以上とありますが、検討の結果、犠牲者はほぼ1万人という結論に落ち着いています」と説明すべきではなかったのか、と思う。

 

 

増田四郎『歴史学概論』(講談社学術文庫、1994年、1952年の復刊)の紹介

増田四郎氏はヨーロッパ中世史の研究者で、門下生に「ハーメルンの笛吹き男」や「世間学」で著名な阿部謹也氏、ピレンヌテーゼで世に知られるアンリ・ピレンヌの著書を邦訳された佐々木克巳氏、学生に英語以外の外国語でレポートを提出させたと仄聞するビザンツ史の渡辺金一氏などがならぶ。

 

本書で指摘された問題や誤解、俗説の類はいまだ一向に解消していない。歴史と歴史学をめぐるさまざまな問題は古くて新しい永遠の課題なのであろう。

 

ここでいくつか引用し、歴史学という営みがいかなるものか、再確認したい。

 

 

また一部では史的事象を細大もらさず記憶していることをもって、歴史家であるかのごとく誤解する傾きもあるが、博覧強記そのものは決して歴史的な考え方とはいい難い。共感を覚え、教訓をよみとり、史実を記憶することは、それ自体誤ったことではないが、歴史的な考え方の基礎というものは、そのような点にあるのではなく、(中略)客観的に理解しようとする要請に根ざしているものであることを、きびしく反省しなければならない。今日の歴史学は、断じて史家の「閑事業」ではなく、まさしくこの反省から出発する学問なのである。   25頁

 

 

ある過去の歴史的事象の意義が、その事象を取り扱う歴史家の数だけ異なった判断が下されえても、なんら不都合ではないという事実(以下略)  36頁

           (イタリック、強調は引用者)

 

 

図書館に架蔵されていると思うので、ぜひ一度目を通されることをお勧めする。

年月日未詳雷金砲註文を読む

 

 

 

   雷金砲註文
一、玉目拾匁
一、筒鉄張り
一、火皿引金等者黒
  彩色之分赤銅色付
一、鎗之工合者兼而御咄
  合申置候通
一、惣躰恰好者図面
  之割合ヲ以御擡り
  可取遣候、
一、紋所銀

 

 

(書き下し文)

  雷金砲註文
ひとつ、玉目十匁
ひとつ、筒鉄張り
ひとつ、火皿引金等は黒、彩色の分は赤銅色付き、
ひとつ、鎗の工合はかねて御咄し合い申し置き候通り、
ひとつ、惣躰恰好は図面の割合をもって御擡げり取り遣わすべく候、
ひとつ、紋所は銀、