日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正8年1月15日村上源太宛羽柴秀吉書状

 

 

  尚〻当所*1寺社領*2之儀、急度可被相澄*3候、由断不可[ ](然候カ)
  次②当手*4之衆、其許*5相懸、剪銭*6候由候、如何様*7之仁躰*8候哉、可承

  候、以上、
態申候、旧冬*9生熊佐*10差越候処、被成御馳走*11由本望*12候、然者①其許百姓等所務*13等之□不沙汰*14曲事ニ候、就其重而生熊指越候、猶以於無沙汰者、人数*15等可申付候而可成敗候、被得其意、御肝煎*16専用候、此方用所*17等不可有疎意*18候、猶口状*19申含*20候、恐〻謹言、
                   羽藤
   正月五日*21            秀吉(花押)
    村上源太殿*22
        御宿所
                                「一、210号、69頁」

 

(書き下し文)

 

わざわざ申し候、旧冬生熊佐差し越し候ところ、御馳走なさるよし本望に候、しからば①そこもと百姓ら所務などの□不沙汰曲事に候、それについて重ねて生熊指し越し候、なおもって無沙汰においては、人数等可申し付けべく候て成敗すべく候、其意を得られ、御肝煎専用に候、この方用所など疎意あるべからず候、なお口状申し含め候、恐〻謹言、

なおなお当所寺社領の儀、きっと急度相澄さるべく候、由断しかるべからず候、次いで当手の衆、そこもと相懸り、剪り銭候よし候、如何ようの仁躰候や、承るべく候、以上、

 

(大意)

 

書面をもって申し上げます。昨年冬、生熊佐介を遣わしたところ、奔走なさるとのこと実に嬉しい限りです。さて、①そなたの地元の百姓どもは年貢諸役を納めずけしからぬことです。その件についてふたたび生熊を派遣しました。それでもまだ納めないなら軍勢を差し遣わして成敗します。その点よくお含みくださいますよう。けっして忘れることのないように。詳しくは口頭で申し上げます。謹んで申し上げました。

 

なお、当所寺社領年貢諸役未進の件、必ず理非をおつけになることと存じます。油断のないようにしてください。次に、②当軍勢の者に対して、そなたは「剪銭」に関わっているらしい。一体どのようなつもりなのか、本意をうかがうことになります。以上。

 

 

図 播磨国多可郡黒田庄周辺図

 

宛所の村上源太は、九条家に対し応永26年1月25日付で、毎年1月と11月に10貫文ずつ納めることを誓約した村上盛弘の子孫と考えられている。つまり在地の荘官だったようだ。その後太閤検地によって岡村に帰農したらしい。つまり本文書は在地の荘官に対して発給されたものということになる。

 

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                   「日本歴史地名大系」兵庫県より作成

 

①村上氏に対して百姓どもが「所務無沙汰」、つまり年貢などを未進しているので納めさせるよう促した。その際生駒佐介を派遣したが、それでも納めないのなら軍勢を派遣すると脅している。九条家の所務沙汰にここまで入れ込む事情は何か気になるが、本文書のみではこれ以上は分からない。

 

②「剪銭」の意味がはっきりしないので難しいが「如何様の仁躰に候や」とかなり問題視しているので、信長が悪銭座にのみ認めていた悪銭売買を村上氏が羽柴軍の兵士たちに行っていたと解釈した。なお、毛利家では家臣に土地を与えられないとき「切米」や「切銭」を扶持しているが、本文書の「剪銭」とは異なるものと考えた。また九条家への年貢の上前をはねる行為とも思えるが、直前に「当手之衆」とあるので彼らを相手にした行為と考えるのが妥当であろう。

 

「吾妻鏡」によれば弘長3年(1263)に切銭を使用することを禁じている。銭の周縁部を切り取ったり、薄くのばして銅を盗む行為やそのように加工された銭をいう。このような銭や摩滅した銭、私鋳銭などを悪銭や鐚銭(ビタセン)と総称し、室町幕府や戦国大名はたびたび商取引の際に良銭のみを選び取る行為(撰銭、エリセン/センセン/エリゼニ)を制限するよう命じている。

悪銭座については次の史料に見える。

 

 

 

参考史料

 

上下京悪銭売買事、如春長軒(村井貞勝)折帋、前々座方可致其沙汰、若違背之族在之者、可成敗之状如件、

   天正十一

     十一月十八日   (発給人欠:前田玄以)

         上下京悪銭

             座中

                         『大日本史料』第11編5冊262~263頁

 

 

この史料は、本能寺の変の翌年である天正11年に上下京の「悪銭座」宛に出されたもので、悪銭座とは悪銭と精銭を打歩(ダブ・ウチブ=プレミアム)をつけて売買する特権的商人のことである。注目すべきは「春長軒折紙のごとく、前々座方その沙汰いたすべし」とあるように、村井貞勝発給文書の踏襲だという点である。つまり、悪銭座は信長時代から特権的地位を与えられ、悪銭売買を行ってきた。悪銭売買は認められた者のみに許された行為であり、私的に行うことは許されない。したがって村上源太の行っている「剪銭」は織田政権にとって見逃すことのできない行為だったのである。

 

*1:播磨国多可郡黒田庄、図参照

*2:宇治平等院領/九条家領

*3:年貢納入などをしっかりと行う

*4:当軍勢

*5:村上源太

*6:「切り銭」、後述

*7:イカサマ/イカヨウ、なんと・どれほど

*8:世間体の悪いこと

*9:1月は「春」なので昨年の冬=10月~12月

*10:生熊佐介、織田信長家臣・生野銀山代官、295号参照

*11:奔走すること

*12:満足である

*13:荘園領主へ年貢などを納めること

*14:年貢諸役を納めないこと、「無沙汰」も同じ

*15:軍勢

*16:世話をすること

*17:なすべき事

*18:疎ましく思うこと

*19:「口上」に同じ

*20:指示通りに行うよう言い聞かせる

*21:天正8年

*22:後述