藤宰相殿*1御領*2竹田・芹川・上三栖三ヶ庄*3之内一色坊田*4従隣郷出作分之事*5、被対*6御朱印上者*7、年貢米・地子銭等、為百姓弁*8可致其沙汰*9、於難渋之輩者、催促使急与可申付者也、恐〻謹言、
木下藤吉郎
十月十三日*10 秀吉(花押)
出作在々所々
百姓中
『秀吉文書集一』922号、292~293頁
(書き下し文)
宰相殿御領竹田・芹川・上三栖三ヶ庄のうち一色坊田隣郷より出作分のこと、御朱印を帯せらる上は、年貢米・地子銭など、百姓として弁えその沙汰致すべし、難渋の輩においては、催促使きっと申し付くべきものなり、恐〻謹言、
(大意)
高倉永相殿を荘官とする竹田・芹川・上三栖三ヶ庄の一色田へ、隣接する郷村より出作にて耕す者は、信長様の朱印状を帯びているので、百姓として年貢米や地子銭等を必ず納めるようにしなさい。とやかくいう連中がいたなら催促使を必ず派遣する。謹んで申し上げました。
Fig. 藤宰相殿御領竹田・芹川・上三栖三ヶ庄周辺図
高倉家は14世紀末から15世紀前半の応永年間に足利将軍家より「下司職」、「名主職」などの、安楽寿院を本家とする三ヶ庄の荘官に任じられていた。
元亀4年7月ころには「羽柴藤吉郎秀吉」を名乗るので、本文書の発給年はそれ以前となる。
「出作」*11に事寄せて百姓が年貢などを未進していたことはこれまで何度もあった。たとえば16世紀前半の永正14年7月17日室町幕府奉行人連署奉書には「張本人*12召し置かれ斬罪にせらるるべきのところ、未進分においてはその沙汰いたし、向後にいたりては重ねて請文*13を捧げ種〻懇望の上は赦免せられおわんぬ」*14とある。要するに斬罪に処すべきところ「今後はちゃんとします」と首謀者に反省文を書かせたので赦免したというのだ。実はこの文書の冒頭に「請文の旨を背き、無沙汰せしむるのあいだ」、つまり「きちんと年貢などを納めるという請文を反故にして年貢などを未進した」とあるので、結局のところ振り出しに戻ってしまう。人間とはつくづく「懲りない面々」だと感じさせる事例である。
そうした「困難」に織田政権や秀吉も直面した。「年貢米・地子銭など、百姓として弁えその沙汰致すべし、難渋の輩においては、催促使きっと申し付くべきものなり」とあるように、年貢などを未進する「難渋の輩」があらわれれば「催促使」を派遣すると言明している。この「催促使」に関する費用はもちろん百姓側の負担である。
こうしてみると年貢などを納めさせることがいかに困難だったかがわかる。足利将軍家や織田政権といった強力な後ろ盾が荘園領主には必要不可欠だったのだ。
「ものなり」という断定調のすぐあとに「恐〻謹言」とはちぐはぐな気もするが、冒頭「宰相殿御領竹田・芹川・上三栖三ヶ庄のうち一色坊田隣郷より出作分のこと」とあるように、のちの「事書」*15のような形式のはしりと考えれば過渡的形態と考えられる。通常書状*16では長々と時候のあいさつが述べるが、本文書は要件のみ記されていて、書止文言の「恐〻謹言」を除くと上意下達の文書である奉書などに近い。
追記
永正3年(1506)3月16日当寺雑掌鎮宗・同浄寿連署「東寺領山城国近年押領所〻注文」(「東寺百合文書」チ函149号文書)に竹田庄は「永正元年(1504)より藤宰相家押領」とあるので、高倉家は竹田庄のうち安楽寿院領の荘官のみ任じられ、東寺領は押領していたようだ。
*1:高倉永相、藤原氏、公卿。「宰相」は参議の唐名
*2:以下の荘園の荘官を務める
*3:山城国紀伊郡安楽寿院領および東寺領、図参照
*4:「一色田」の誤りか。通常の荘園では年貢公事など多種類の負担義務を負うが、一色田では年貢のみ納めればよい
*5:竹田など三ヶ庄以外の百姓が耕しに来ている田畠
*6:帯
*7:永禄12年4月21日東寺雑掌宛織田信長朱印状案、奥野177号。同年閏5月23日東寺雑掌宛織田信長朱印状、奥野182号
*8:「百姓」としての身分を弁える
*9:年貢米・地子銭などを納めること
*10:元亀1~3年カ
*11:他の荘園や郷村の住人が耕作していること
*12:悪事の首謀者
*13:上位者の命を遵守する旨、下位者が誓約する上申文書
*14:『大日本史料』永正14年7月17日条
*15:表題と内容の要約
*16:消息とも呼ぶ。一般に近代以降は「書簡」もしくは「書翰」と呼ばれる