今日では、年号と元号は同義語として特に意識されることなく使われる。法律では1979年に制定された「元号法」がある。しかし、実は「元号」という呼び方は明治以前には見られない。慶応4年が明治元年に改元されたさいも「年号が改まるそうだ」という記録はあるが「元号が改まる」という表現は今のところ確認できない。
『古事類苑』歳時部を繙いてみても「年号」とあり「年号勘文」、「年号勘者」、「年号文字」といったように立項されている。
「元号」という表現が公式にあらわれるのはおそらく1889年(明治22年)*1「皇室典範」12条の「践祚の後元号を建て一世の間に再び改めざること明治元年の定制に従ふ」であろう。また1909年(明治42年)の「登極令」2条にも「天皇践祚の後は、直に元号を改む」と見える。すなわち、明治の中頃から「年号」にかわり「元号」が公式に使用されるようになったようだ。
2019年10月21日付の日本経済新聞に以下の対談が掲載された。
原武史氏、ケネス・ルオフ氏ともに、現在の皇室行事の多くが明治以降に「創られた伝統」であると指摘している点は興味深い。とりわけルオフ氏の「伝統という言葉は気をつけて使った方がいいと思います」という警告は、2010年代に「創られた伝統」ともいうべき「おもてなしブーム」に浮かれる我々には耳が痛い。かつて「ホテル」というドラマで高嶋政伸演じるホテルマンが「ホテルはホスピタリティーに由来する」と叫んだシーンがあったが、再放送はかなわないだろう。
このように「年号」と「元号」には使われた時期で若干ニュアンスを異にする事実を知っておくことも無駄ではなかろう。
2019年10月24日追記
後世の編纂史料である「日本書紀」中にあるいわゆる「大化改新詔」の「初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河」の「郡」という表記に対して、同時代史料である木簡に「評」(こおり)と見られたことから、改新詔の実在を疑うきっかけとなった。
同様に同時代史料の木簡で年号が確認できるのは今のところ「大宝」が最古であり、大化や白雉などにあたる年代は干支で書かれている。
戦国大名北条氏の朱印状では年号が使用されず、干支で発給される場合も多い。干支は東アジア世界共通の暦であり、小島道裕氏の「東アジア標準」の文書様式*2とする指摘に重ね合わせたくなる。1966年の「丙午」(ひのえうま)では出生数が前年比25パーセントも減少するくらい普及してきた暦である。7年後どうなるかは見当もつかないが。