(切紙)*1
(端裏封ウハ書)
以江州しょむかた*4の事大事ニ候、以上
態申遣候、仍我等内々ハちくこ*5・ちくせん*6被下、九州物主*7ニ被遣候ハんとの事ニ候つれ共、さ候へハ、又さわ山*8にをかせられ候ハん人もなく、こゝもとニて御用御申つけ候人もすくなく候間、我等ニハこのまゝの分ニてあり候へと御意*9ニ候間、江州其方知行*10并くら入*11なと少成共あらし*12候ハゝくやミ*13申候間、よく申つけ可申候、次ニちくこ・ちくせんハ御くら入*14ニなされ候ニゟ、そのむね百姓ニも申きけ候、又いまきんこ*15との越州*16へ御こしかわりめニ候間、すなわち我等ニ御たいくわん*17御申つけ候間、まいり候て、ミまわり候つる御事ニ候間、五三日*18之内ニおりかへりニちくせんへ下可申候間、其地へ一両日中ニ下、それゟ下候ハん間、内々その心へ候へく候、此由内義・おき*19とのへも可申候也、
『新修彦根市史』第五巻、822~823頁
(書き下し文)
(端裏封ウハ書)
「大新介まいる 治少」
わざと申し遣わし候、よって我等内々は筑後・筑前下され、九州物主に遣わされそうらわんとのことにそうらいつれとも、さ候えば、また佐和山に置かせられそうらわん人もなく、ここもとにて御用お申しつけ候人も少なく候あいだ、我等にはこのままの分にてありそうらえと御意に候あいだ、江州その方知行ならびに蔵入なと少なりとも荒しそうらわば悔やみ申し候あいだ、よく申し付け申すべく候、次に筑後・筑前は御蔵入になされ候により、その旨百姓にも申し聞け候、また今金吾殿越州へ御越し替わり目に候あいだ、すなわち我等に御代官お申し付け候あいだ、参り候て、見廻りそうらいつる御事に候あいだ、五三日のうちに折り返りに筑前へ下だり申すべく候あいだ、その地へ一両日中に下だり、それより下だりそうらわんあいだ、内々その心得候べく候、このよし内義・隠岐殿へも申すべく候なり、
もって江州所務方の事大事に候、以上
(大意)
申し入れます。この度筑後・筑前に領地を下されることに内定し、九州名護屋の陣の長にするとの秀吉様のご意思でしたが、その場合佐和山に置くべき人材もなく、このあたりには秀吉様の御用を申し付けるのにふさわしい人も少ないので、わたしをこのまま佐和山に置くとの秀吉様のお考えです。ですから、近江の給人知行地や三成蔵入地など少しでも荒廃させては残念ですので、くれぐれもそのようなことにならないようよく申し付けて下さい。次に、筑後・筑前が秀吉様の御蔵入地になったのでその旨を百姓によく申し聞かせました。また、いま小早川秀秋殿が越前に移封の入れ替わりの時期ですので、わたしに秀吉様御蔵入地の御代官を命じられました。そこでその地へ参り、検分することになりましたので、数日のうちに筑前へ下ることになりました。そこで一両日中にそちらへ赴き、それ以後も下向するつもりですので、その点心得ておいて下さい。また家内と石田正継殿へもお伝え下さい。
ともかく、近江国の年貢徴収のことは肝要です。以上。
この文書では「蔵入」と「御蔵入」、「御代官」と使い分けられている。この「御」の有無で三成の蔵入地なのか秀吉のそれか意味が異なるので注意を要する。
慶長3年4月2日小早川秀秋は朝鮮出兵での軽挙を咎められ、越前北之庄に転封を命じられた。それが「今金吾殿越州へ御越し替わり目に候あいだ」である。それまで秀秋領地であった筑前・筑後への国替えを命じられそうになったが、三成の歎願により代官として下向するにとどまった。そのさいに家臣に宛てた判物である。
三成は5月22日付で筑前国志摩郡の在々宛に九ヶ条の掟書を下している*22ほか、同郡板持村へ12月25日付で年貢皆済の請取状を発給している*23。