日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正12年5月2日尾張領内裁許につき羽柴秀吉覚

 
      覚

一、池田紀伊守*1犬山*2在之三千貫余*3被召置候分、先〻*4作内*5百姓をも召出、裁許可仕事、

一、羽黒*6領廻*7儀者、山内伊右衛門尉*8裁許いたすへき事、

一、楽田*9廻、其外小牧原*10ゟ東しのぎ*11辺、成次第*12左衛門督*13百姓をも可召出事、

一、従尾口*14西南儀者、成次第稲葉与州*15百姓被召出、可被仰付事、

一、自今日取出*16ニ在之侍*17共事ハ不及申、其外又下人*18ニいたるまて、自然余仁*19へ於罷出者くせこと*20たる

  へき事

一、国本之*21知行分、何も諸役*22在之間敷事、

一、百姓以下申事於在之者*23、秀吉可被相尋、理非ニ立入*24成敗*25可申付事、

     以上

 
 天正拾弐年五月二日                   筑前守(花押)
 
『秀吉文書集二』1068号、37頁
『愛知県史 資料編12 織豊2』452号、193頁
 
(書き下し文)
 
       覚

一、池田紀伊守犬山にこれある三千貫余召し置かれ候分、先〻作内百姓をも召し出だし、裁許つかまつるべきこと、

一、羽黒領まわりの儀は、山内伊右衛門尉裁許いたすべきこと、

一、楽田まわり、そのほか小牧原ゟ東篠木あたり、なりしだい左衛門督百姓をも召し出だすべきこと、

一、尾口より西南の儀は、なりしだい稲葉与州百姓召し出だされ、仰せ付けらるべきこと、

一、今日より取出にこれある侍どものことは申すにおよばず、そのほか又下人にいたるまで、自然余仁へ罷り出づるにおいては曲事たるべきこと、

一、国本の知行分、いずれも諸役これあるまじきこと、

一、百姓以下申すことこれあるにおいては、秀吉に相尋ねらるべし、理非に立ち入り成敗申し付くべきこと、

   以上

 

 
(大意)
 
         覚
一、池田元助の犬山領三千貫あまりの分は、のちのち加藤光泰領の百姓も呼び出し裁許すること。
一、羽黒領周辺は山内一豊が裁許すること。
一、楽田周辺および小牧原から東篠木まではでき次第堀秀政が百姓を徴発すること。
一、尾口より西南はでき次第稲葉一鉄が百姓を徴発し、裁許すること。
一、本日より取出に立て籠もっている「侍」はもちろんそのほか「又下人」にいたるまで、他の抱え主に奉公しようとする者は曲事である。
一、地元の領地の百姓らに諸役を負担させてはならない。
一、百姓以下異議がある場合は秀吉に直接尋ねるように。双方の主張の理非を見極め裁断申し付ける。
     以上である。
 
 

 

 Fig.尾張国丹羽郡・春日井郡周辺図

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                   『日本歴史地名大系』愛知県より作成

 

6月4日には「尾口・羽黒・楽田と申す三ヶ所付城申し付け」*26と常陸の佐竹義重に充てて三ヶ所に城を築いたと書き送っている。また「貴国境目にいたり北条氏直取り出し候につき、義重差し向かわれ今にご対陣のよしに候」と関東でも秀吉派と家康派に分かれ緊張が高まっていることがうかがわれる。一方の家康も丹波大槻氏に自身の戦果を報告するとともに上洛予定であると述べており*27、羽柴対徳川・織田(信雄)という構図を超えた全面戦争前夜の趣を呈している。

 

本文書は充所がないため解釈がむずかしい。影写本しか現存せず、それすら確認できなかったので軸装される際に裁断されたのか、もともと書かれていなかったのかすら判断できない。ただし、文書の内容から秀吉と同等である織田大名か秀吉家臣の誰かに充てた、占領地の領域ごとに訴訟の責任者を定めたものと解することはできそうだ。

 

一条目はとりあえず逐語訳的に現代文になおしてみたが、何が問題とされているのかわからないためまったくの意味不明になってしまった。今後の課題としたい。

 

最後の箇条は百姓らからの異議申し立てに苦慮しているなら秀吉に直接裁定を仰ぐように、と述べている。在地の裁判権を秀吉に集中しようとしているのだろうか。

 

下線部分は、天正19年武家奉公人を確保するため発した「侍は申すに及ばず、中間・小者・荒子にいたるまで、新儀に町人百姓になり候者これあるにおいては一町一在所ご成敗」を彷彿とさせる文言で、大規模戦争を前に秀吉が人員を確保しようとした意味において共通するところがある。

 

 本文書は占領地において在地にどう対応すべきかを示すものと位置づけられるだろう。

 

なお、小牧長久手合戦については『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』(2018年)を参照されたい。

 

*1:『秀吉文書集二』、『愛知県史』は元助に比定。恒興の長男で輝政の兄。『大日本史料』は恒興とする。両名とも4月9日戦死

*2:尾張国丹羽郡、図参照

*3:美濃や尾張は貫高制

*4:のちのち

*5:加藤光泰

*6:同国同郡、図参照

*7:羽黒領の周囲

*8:一豊

*9:同国同郡、図参照

*10:同国春日井郡、図参照

*11:同国同郡篠木、図参照

*12:城ができ次第

*13:堀秀政

*14:同国丹羽郡、図参照

*15:伊予守良通/一鉄

*16:砦、出城

*17:固定的な身分呼称ではなく、戦闘員として砦に籠もっている者一般

*18:籠城している者が「侍」から「又下人」まで様々な階層からなっていたことを示している。「戦闘員から最下層の非戦闘員にいたるまで」といったところだろう。むろん非戦闘員だろうと戦場に駆り出される以上殺害されたり、乱取=奴隷狩りの対象になるなど危険であることにかわりはない。またよくいわれるように映画「七人の侍」をモデルとした百姓像をフィクションの世界でいまだに見かけるが、中世の百姓は臆病者でもお人好しでも「平和」主義者でもない。また郷村内のヒエラルヒーが描かれることも少ない。ただし菅浦をモデルに中世惣村を描いた小説はある。岩井三四二『月ノ浦惣庄公事置書』

*19:「余人」、他の抱え主や敵方

*20:曲事

*21:本国の、領国の

*22:年貢以外の課役

*23:百姓たちの異議申し立てがあった場合

*24:「理非を論ぜず」の正反対

*25:裁く。時代劇のセリフの「処刑する」ではない

*26:1098号、45~46頁

*27:『愛知県史 資料編12  織豊2』 459~461号、195~196頁

天正12年4月11日木曽義昌宛羽柴秀吉書状写

 

 

   尚号根城*1、尾口*2・楽田*3要害、丈夫ニ普請申付候、
去八日御札、今十一日令拝見候、仍此面儀弥無異*4儀候、併一昨日九日、池田勝入*5・森武蔵*6三州*7境目相動、岩崎城*8責崩、首数多討捕、得大利*9候処、即岡崎*10面へ深々相動、及一戦失勝利*11候、*12其辺へ雑説*13*14可申候、爰元無差儀*15候、殊ニ勢州松賀島*16令落去、彼面之人数、我等弟始美濃守*17・筒井順慶、悉此表へ着陣候、於様子者不可有御気遣候、尚期来音*18節候、恐〻謹言、
    卯月十一日*19                    秀吉(花押影)
  木曽伊与守殿*20
        参 御返報
『秀吉文書集二』1031号、26頁
 
(書き下し文)
 
去る八日の御札、今十一日拝見せしめ候、よってこの面の儀いよいよ無異の儀に候、しかし一昨日九日、池田勝入・森武蔵三州境目へ相動き、岩崎城責め崩し、首あまた討ち捕り、大利を得候ところ、すなわち岡崎面へ深々と相動き、一戦に及び勝利を失い候、さだめしそのあたりへ雑説ども申すべく候、ここもと差したる儀なく候、ことに勢州松賀島落去せしめ、彼の面の人数、我等弟美濃守・筒井順慶をはじめ、ことごとくこの表へ着陣候、様子においてはお気遣あるべからず候、なお来音の節を期し候、恐〻謹言、
 
なお根城と号し、尾口・楽田要害、丈夫に普請申し付け候、
 
(大意)
 
去る八日付のお手紙本日十一日拝見いたしました。こちらは平穏無事にすごしています。とはいうものの、一昨日九日に池田恒興・森長可両名が三河国境へ進軍し、岩崎城を攻め落とし、首を数多討ち取り大勝利しました。そのまま岡崎まで深々と進み一戦に及んだものの勝利を失いました。きっとそちらでも今回の負け戦についてあれこれと風評をお聞き及びのことと存じます。私の方はさほどではありませんが伊勢松賀島城を落とし、伊勢方面には秀長や筒井順慶などが着陣しています。こちらの様子はお気遣い無用です。またお便りの際にでも。謹んで申し上げました。
 
なお、根城として尾口・楽田に要害をしっかり築くように命じました。
 
  

 

Fig.1 尾張国尾口・楽田・岩崎周辺図

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                   『日本歴史地名大系』愛知県より作成

Fig.2 伊勢国松賀島周辺図

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                   『日本歴史地名大系』三重県より作成

 本文書では池田恒興・森長可が一敗地にまみれたとはあるものの、ことさら「こちらは無事です」と強調していて、彼らが討ち死にしたことを曖昧に誤魔化している。しかし同日付の同じく木曽義昌に充てた書状写には「池田入道・森武蔵…不慮の仕合わせ*21にて、池田父子*22・森武蔵勝利を失い、是非に及ばず候」*23とあり討ち死にしたことを明らかにしている。またやはり同日付池田恒興家臣の土蔵*24四郎兵衛尉宛書状でも「このたび勝入父子是非なき次第に候、我々一人力落とし、おのおの心中同前に候」*25と家臣とともに嘆き悲しむ様子を書き送っていて、本文書とは好対照をなしている。

 

本文書でおもしろいのは下線部である。「悪事千里を走る」というが人の噂、とりわけ悪い噂はおもしろおかしく尾ひれがついて瞬く間に拡がりやすい。本能寺の変直後も『多聞院日記』や『家忠日記』に見られるように真偽不確かな噂が飛び交った。敗北という「悪い知らせ」がおもしろおかしく脚色されて義昌に伝わっているだろうと秀吉は頭を抱えていたらしい。

 

 

*1:「根本の城」=拠点↔出城

*2:尾張国丹羽郡小口、図1参照

*3:同国同郡、図1参照

*4:ブイ、無事であること

*5:恒興

*6:長可、恒興の女婿

*7:三河国

*8:同国愛知郡、図1参照

*9:「利」は戦などで勝つこと、優勢であること

*10:三河国家康居城

*11:「勝利を失う」、敗北すること

*12:サダメシ、おそらく

*13:根拠のない噂、風説

*14:複数を表す接尾辞、e.g.「子共」=子たち。「雑説共」で様々な憶説や噂

*15:サシタル儀、これといったこと

*16:伊勢国一志郡松ヶ島城、図2参照

*17:羽柴秀長

*18:ライイン、便り

*19:天正12年

*20:義昌、信濃国木曽の国人。武田信玄に降るも勝頼の代で信長に内通。本能寺の変後家康より信濃にて本領安堵、新恩給与されるが、小牧長久手の戦い前に羽柴方に与する

*21:「仕合」は「めぐり合わせ」、「事の次第」

*22:恒興・元助

*23:1032号、27頁

*24:トクラ

*25:1033号、27頁

天正12年3月22日郷戸外四箇所宛羽柴秀吉朱印状

 

当川*1渡之儀、昼夜無由断可渡候、然者兵粮米可出遣候之条、得其意可精入候、猶佐藤主計*2・春日小左衛門尉*3可申候也、

  三月廿二日*4                          秀吉(朱印)

    郷戸*5

    呂久*6

    しつけ*7

    喜田*8

『秀吉文書二』981号、12頁
 
(書き下し文)
 
 当川渡之儀、昼夜無由断可渡候、然者兵粮米可出遣候之条、得其意可精入候、猶佐藤主計・春日小左衛門尉可申候也、
 
(大意)
 
木曽川の渡河について、昼夜を分かたず渡すようにしなさい。兵粮米を遣わすので精を入れて励むように。なお詳細は佐藤主計・春日小左衛門尉が口頭で伝える。
 
 

 

 

3月6日伊勢・尾張を領国とする信雄は秀吉に通じていたとして重臣を自害させた*9すでに2月徳川家康家臣酒井重忠が信雄のもとを訪れており、密約がなっていたのかもしれない*10。翌7日付長宗我部元親弟の香宗我部親泰宛の書状で信雄は「羽柴天下の儀、ほしいままの働き是非に及ばず候*11と秀吉が「天下人」同然に振る舞っていることを難じている。ただし信雄による秀吉糾弾の文面であることから、「天下の儀ほしいままの働き」との文言からすぐさま額面取り秀吉が天下人のように振る舞っていたと解釈するのは憚られる。

 

一方の秀吉は信雄と決裂し、家康との緊張が高まったこのころから花押を据えた判物と、本文書のように朱の印判を用いた朱印状とを受給人の身分の高下に応じて使い分けるようになる。礼の厚薄をつけることで天下人たらんとしたのだろうか。そういう意味では信雄の主張もあながち被害妄想と言い切れない。

 

充所は長良川・久瀬川(揖斐川)河畔の船着き場四箇所である。

 

Fig.1 美濃国郷戸・呂久・尻毛・喜田周辺図

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                   『日本歴史地名大系』岐阜県より作成

Fig.2 天保美濃国絵図(国立公文書館蔵) 

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https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0303000000_4/0000000276/00

 

彼らを木曽川の船渡しに動員した。自弁であることが多い軍事動員だが本文書では反対給付として兵粮米を支給すると約している。

 

*1:木曽川、木曽川は美濃と織田信雄の領国尾張との国境

*2:直清。秀吉の腰母衣衆、のち馬廻衆組頭

*3:未詳

*4:天正12年

*5:美濃国方県郡河渡(ゴウド)、図1、2参照

*6:同国大野郡

*7:同国方県郡尻毛(シッケ)

*8:同上木田

*9:『大日本史料』第11編5巻、733頁、同日条 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1105/0733?m=all&s=0733&n=20

*10:この間の事情は渡邊大門『清須会議』朝日新書、2020年参照

*11:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1105/0798?m=all&s=0733&n=20

天正12年1月日城州久世郡宇治郷宛羽柴秀吉禁制

 

 

    禁制            城州久世郡宇治郷*1

一、他郷之者、*2宇治茶、似銘袋*3至諸国令商買*4事、

一、国質所質、付押売*5押買*6*7

一、理不尽之催促*8并請取沙汰*9事、

一、陣取寄宿事、

一、喧嘩口論、諸事非分族申懸事、

右条々堅令停止*10訖、若於違犯*11輩者、速可処厳科者也、仍如件、

  天正拾弐年正月 日                   筑前守(花押)

 

『秀吉文書集二』955号、3頁

 

(書き下し文)

 

    禁制             城州久世郡宇治郷

一、他郷の者、宇治茶と号し、銘袋を似せ諸国にいたり商買せしむること、

一、国質・所質、つけたり押売・押買のこと、

一、理不尽の催促ならびに請取沙汰のこと、

一、陣取・寄宿のこと、

一、喧嘩口論、諸事非分のやから申し懸くること、

右の条々堅く停止せしめおわんぬ、もし違犯の輩においては、速やかに厳科に処すべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 

     左の行為を禁ずる       山城国久世郡宇治郷

一、宇治郷以外の者が「宇治茶」と称して、包装を似せて諸国を売り歩くこと。

一、国質や所質を行うこと。つけたり、押売り・押買いをすること。

一、謂れのない課役や労役、軍役を徴発すること、および請取沙汰の依頼を受けること。

一、当方の軍勢が陣取りしたり、家に泊まり込むこと。

一、喧嘩や口論など実力行使すること。あれこれと言いがかりをつけること。

 右の条々堅く禁止する。万一これに背いた場合は速やかに処罰するものである。以上。

 

 

 

Fig. 城州久世郡宇治郷周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系』京都府より作成

 

本文書に特徴的なのは下線部の「宇治茶と称して、包装を似せ」という部分。今日でいう類似品だが、16世紀末にはすでにこうした商法がよく見られた、と同時に「宇治茶」が名産品として諸国に知られていたことを意味する。

 

しかし、この類似商法禁止がどれほど有効だったのかはかなりあやしい。というのも、宇治茶を生産している当の宇治郷に充てて「他郷の者」の行為を禁ずるとしているからである。お墨付きは与えるが、実際の摘発*12宇治郷次第という一種の当事者主義をとっていたらしい。

 

さらにいえばこの禁制は制札銭と呼ばれる対価を支払って得る、宇治郷にのみ充てたもので、諸国に触を出していないので秀吉が積極的に取り締まったとは考えにくい。宇治郷に認めた「特権」というべきであろう。偽商品が出回って困るのは当事者である宇治郷であり、秀吉は痛くもかゆくもないのだから。

 

これらの文言から確認できるのは、

 ①類似品を売り歩いている者がいたこと

    →「宇治茶」が名産品であることが前提条件

 ②宇治郷が被害を被っていること

 ③秀吉が宇治郷の自力による「摘発」にお墨付きを与えたこと

 

以上である。

  

そのような点において、本文書は消極的な治安維持手段としての禁制の本質をよくあらわしている。

 

*1:図参照

*2:表向き称すること

*3:メイタイ?、包装

*4:商売

*5:「サザエさん」などでおなじみの、家に押しかけて刑務所帰りをちらつかせ、ゴム紐を売りつけるあの「押売」もその一種で、暴力を背景に粗悪品を言い値で売る悪質商法。今日の「ぼったくり」に見られるように、長い歴史を持つ伝統的商慣行である。対義語は「和買」(アマナイカウ)

*6:法外な安値、付け根で強引に買い取ること

*7:古代より売り手と買い手双方の合意にもとづく取り引き=「和市」と、一方が武力などを背景に売買する「強市」の二種類があった。「押売押買」は「強市」にあたる。「和」(ワまたはアマナウ)は合意にもとづくの意

*8:物品、金銭や労役などの徴発や軍勢催促

*9:訴訟当事者の委託を受けて第三者が表面上当事者となり、有利な解決をはかること。「寄沙汰」は訴訟当事者が有力者などに代償を支払い表面上の当事者になってもらうこと

*10:チョウジ

*11:イボン

*12:①口頭でやめるように促すだけか、②その場で「処罰」してしまう「私刑=リンチ」方式か、③その者を領主のところへ自力で連行して裁きを待つのかなど具体的な方法はわからないが、戦国大名分国法から近世法では③を原則とする。②の私刑は検断権を持たない個人や団体、集団が行う「違法」な行為だが、この時点で「違法」かどうか不明なのでカッコ付きの「私刑」とした

天正19年3月12日井戸村与六宛八郎右衛門作職書上(抄出)

第1巻をあらかた読み終えたので、口直しに井戸村家文書を読んでみたい。なお2020年に刊行された『井戸村家文書第一』*1では、差出人名を文書名に含める古文書学の原則にのっとった、上述のように地味な(?)表題に改められていた。

  

 

 

(端裏書)

「天正十九年         井戸村与六時代」

 

被成御扶持候作職書付上申候事

い村川原西庄境北は春日               おころ

 七段小*2                彦三郎(略押)*3

かいそへ五反小□内

 壱畝*4                 同

立岩川原、但孫左衛門渡り*5

 小    但与六様徳分*6共ニ*7御ふち  同

同西のせ河かけ*8共ニ

 壱段半*9  但与六様御ふち       同

小門前

 壱反   同地一職*10共ニ御ふち     同

   以上*11

(中略)

右、書上申候作職被成御扶持之処実正明白也、自然於子〻孫〻も売買仕候ハヽ、可被成御糺明候、随而右之書上外ニかくし置、又ハうり申儀候ハヽ、被聞召出次第ニ可被召上候、猶以御検地之上めん/\名付仕、指出*12仕候共、不寄何時被召上候共、其時一言之子細申間敷候、仍為後日之状*13如件、

 天正拾九年             此使

    三月十二日           八郎右衛門(花押)*14

井戸村与六様まいる*15

 

上掲書52号、61~70頁
 
(書き下し文)
 

(端裏書)

「天正十九年         井戸村与六時代」

 

ご扶持なされ候作職書付上げ申し候こと

い村川原西庄境、北は春日                おころ

 七段小                   彦三郎(略押)

かいそへ五反小□のうち

 壱畝                    同

立岩川原、ただし孫左衛門渡り

 小    ただし与六様徳分ともにご扶持   同

同じく西のせ河欠ともに

 壱段半  ただし与六様ご扶持        同

小門前

 壱反   同地一職ともにご扶持       同

   以上

(中略)

右、書き上げ申し候作職ご扶持なさるるのところ実正明白なり、自然子〻孫〻においても売買つかまつりそうらわば、ご糺明なさるべく候、したがって右の書上のほかに隠し置き、または売り申す儀そうらわば、聞こし召し出だされ次第に召し上げらるべく候、なおもって御検地の上面々名付つかまつり、指し出しつかまつり候とも、何時によらず召し上げられ候とも、その時一言の子細申すまじく候、よって後日のため状くだんのごとし、

 

(書式)

 

本文書は検地帳によく似た書式を取っている。公的な検地帳に対して、井戸村家の私的な裏帳簿、より正確には作職保持者ごとに「名寄せ」されているので「裏名寄帳」とでも呼ぶべきかもしれない。書式を見てみよう。

 

い村川原西庄境、北は春日                 おころ

 七段小*16                   彦三郎(略押)

 

 

田畠の所在①

  面積②    (但書)③        作職保持者④(署名)⑤

 

 おおむね右の五要素からなるが、単なる記号のようなの略押も意思表示したことを示す重要な証拠である。

 

ところで「おころ」は名字なのか地名なのか、地名に由来する名字なのか気になるところだが、アームチェア・ディテクティブを気取って史料集を眺めているだけではわからない。現地踏査が不可欠である点においても本記事は不十分である。

 

(大意)
 

(端裏書)

「天正十九年         井戸村与六の代」

 

与六様より与えられた作職の一覧表を提出いたします

(中略)

右の通り書きあげました作職、与六様から与えられたことに間違いございません。子々孫々の代で売買した場合はぜひきびしくお取り調べください。また、右のほかに田畠を隠し持っていたり、あるいは売り飛ばしたとお耳に入ったさいはすぐさま土地をお取り上げください。なお秀吉様の検地で名請けされたとしても、その検地帳を提出したあと土地を没収されたさいにはひと言の申し開きもいたしません。以上後日のために一筆したためました。

 

 

 

 Fig1. 八郎右衛門の花押と彦三郎の略押

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       『井戸村家文書第一』巻末「花押一覧」より作成(八木書店、2020年)

 

 Fig.2 近江国坂田郡箕浦周辺図

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                   『日本歴史地名大系』滋賀県より作成

 

在地の有力者井戸村与六から「御扶持」された「作職」であることを再確認させ、「御検地」つまり秀吉の検地によって名請人となったものの、ご恩は末代まで忘れません、いつでもお返ししますと彦三郎らが誓約した書面である。③の但書でもくどくどと「御扶持」と記されており、そこに家父長的温情主義を読み取ることはたやすいであろう。

 

また下線部の「右の書上のほかに隠し置き」とあるのは、与六より与えられた土地ではなく、彦三郎らが自力で開発した田畠を含意する可能性もある。それも含めて与六の支配下にあるという意味だろうか。とすれば、与六の実弟である八郎右衛門はかなりの深謀遠慮の持ち主である。

 

 与六は秀吉に対しバックラッシュを試みたわけだが、のちにこの書面をめぐって相論が起きている。そのあたりは秀吉の政策がヒエラルヒッシュな郷村の構造をどう変えていったのか、あるいはもともとパターナリスティックな郷村の解体という趨勢を嗅ぎ取った秀吉が現状追認的な政策に舵を切ったのかなどなど、とても興味深いが機会を改めたい。

 

 

*1:八木書店

*2:「小」は360歩=1反(段)の1/3で120歩とされるが「畝」もあるので300歩=1段の1/3の100歩かもしれない

*3:図1のように筆軸に沿って円を描いたきわめて略式の署名で八郎右衛門のものと比較すると著しく見劣りする

*4:「畝」は通常10分の1反、30歩

*5:孫左衛門は未詳、いまは彼に耕作権が移動している

*6:与六が受け取る「作徳」=小作料

*7:小作料を免ずること

*8:「川欠」、河川が決壊して耕作できない田畠

*9:「半」は1反*1/2、180歩か150歩。なお「大」は1反*2/3=240歩か200歩

*10:作職以外の「名主職」などとともに

*11:彦三郎分は右に書き上げたもので全部

*12:検地帳は領主に提出されるもの(武家文書)村で長く保管されるもの(地方文書)の二系統ある。今日われわれが目にするものの多くは後者である

*13:状は文書の形態で「冊子もの」に対して「一紙もの」を指すが1枚とは限らない

*14:図1参照

*15:近江国坂田郡箕浦、図2参照

*16:7段小の面積は、360歩=1反のとき、おおむね90メートル四方の正方形より広く、100メートル四方のそれより狭い。1反=300歩なら80メートル四方より広く90メートル四方より狭い