日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

続 元和9年2月14日下関村五左衛門・惣百姓中宛前田利常黒印状

先日読んだ年貢割付についてまた別の報道があった。

www.chunichi.co.jp

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     元和9年2月14日前田利常黒印状(飯田家文書)

mainichi.jp

まだいくつか論点が残されているので考察してみたい。

    当村内高岡明*1屋敷方免*2相定事

一、百弐拾四石四斗六升六合者     先高*3

    此内

  弐拾弐石九斗四升九合者

  高岡旅屋〻敷泉水馬場植木畠万引*4

    残而

  百壱石五斗一升七合者       当高*5

    此①物成四ツ五分 但②京枡五斗表*6

右通元和七年分ゟ可納所永代為蔵納*7

無代官諸役口米并万懸り物*8買物*9

可有之但以来収納指引之所者郡

奉行可為裁判*10右納米下行*11

*12残米之所者④越中川西*13地払*14

ニ金銀を以可指上候者也

   元和九年

     二月十四日(黒印、印文は「満」)

                    中郡下関村*15

                        ⑤五左衛門

                        ⑥惣百姓中

 

①から元和7年分からの年貢率は、これまでの村高から「旅屋屋敷・泉水・馬場・植木畠」を差し引いた「当高」に「四ツ五分」、4割5分=45%を賦課すると命じていることが分かる。ここまでが本文書の骨子である。なぜ元和9年に同7年分からの年貢納入について命じたのかは不明である。屋敷地は何も生産しないにもかかわらず、検地では「上田」なみとされていた。屋敷地を持つ者は百姓役=陣夫役を務める必要があったからである。

 

②から「京枡」で量るようにとわざわざ注意している。度量衡の統一は現代と異なり容易に進まなかったことが読み取れる。さらに1俵が5斗入りと定められている。1俵は2斗入りから5斗入りまで、国郡により、また幕府領と大名領により、さらに各大名領ごとにばらついていたと18世紀の地方巧者大石久敬は『地方凡例録』のなかで述べているが、同じ1俵といっても2斗と5斗ではまったく異なる。年貢関係の史料ではたいてい「○○俵但4斗入」などと書かれる場合が多い。

 

③から、中世からたびたび禁じられていた押買い慣行がまだまだ横行していたことが読み取れる。本文書の4年前、元和5年6月12日徳川秀忠は押買いを禁ずる条目を発している*1が、なかなかこの商慣行は廃れなかったらしい。

 

④は越中国のうち神通川より西の三郡、射水・婦負・砺波では米を売買し、相場がある程度安定するシステムがすでに元和年間には確立していたことを示している。

図 越中国川西三郡略図

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                    『国史大辞典』「越中国」より作成

⑤は村名のあとにつくはずの肩書「庄屋」などがない。これはまだ村役人制度ができておらず、在地の有力者の「個人請」のようなシステムで年貢納入させていた可能性を示唆する。⑥の「惣百姓中」との関係が気になるところだがこれ以上は分からない。ただし、郡名村名があるので「五左衛門」個人に宛てた私信つまり「書状」ではなく、「公文書」と見るのが正しい。その点で以下の記事は根本的な誤解をしている。すこし古文書学の勉強をすべきである。

www3.nhk.or.jp

元和9年2月14日下関村五左衛門・惣百姓中宛前田利常黒印状

先日流れてきた報道に違和感を覚えたので、文書を読んでみたい。

www3.nhk.or.jp

翻刻は以下の写真を利用した。

mainichi.jp

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   当村内高岡明*1屋敷方免*2相定事

一、百弐拾四石四斗六升六合者     先高*3

    此内

  弐拾弐石九斗四升九合者

  高岡旅屋〻敷泉水馬場植木畠万引*4

    残而

  百壱石五斗一升七合者       当高*5

    此物成四ツ五分 但京枡五斗表*6

右通元和七年分ゟ可納所永代為蔵納*7

無代官諸役口米并万懸り物*8買物*9

可有之但以来収納指引之所者郡

奉行可為裁判*10右納米下行*11

*12へ遣残米之所者越中川西*13地払*14

並ニ金銀を以可指上候者也

   元和九年

     二月十四日(黒印)

                    中郡下関村*15

                        五左衛門

                        惣百姓中

 

(書き下し文)

   当村内高岡明き屋敷方免相定むること、

一、124石4斗6升6合は、先高

   この内22石9斗4升9合は、高岡旅屋〻敷、泉水、馬場、植木畠、よろず引き

   残って、101石5斗1升7合は当高

   この物成四ツ五分、ただし京枡5斗俵なり、

右の通り元和七年分より納所すべし、永代蔵納として、代官なく諸役・口米ならびによろず懸り物・買物これあるべからず、ただし以来収納指し引きの所は郡奉行裁判たるべし、右納米下行方へ遣わし、残米のところは越中川西地払いなみに金銀をもって指し上ぐべく候ものなり、

 

(大意)

   当村内にある高岡空き屋敷方の年貢率を以下のように定めました

一、当村高は従来124.466石としていました。

  このうちから22.949石は高岡旅屋、泉水、馬場、植木畠として差し引きます

 残り101.517石が当年の村高です

 この年貢率は4割5分です。ただし京枡で量り、1俵5斗入としなさい。

以上のように元和7年分より納めなさい。永代直納とし、代官の指示なく諸役・口米・すべての小物成・押買いなど禁止します。ただし今後年貢収納については郡奉行の裁量によるものとする。納めた米は下行方へ渡し、米が残ったところは越中川西三郡の相場で換金し、金銀で納めなさい。

 

 図 越中国射水郡/中郡下関村周辺図

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                   「日本歴史地名大系」富山県より作成

本分最後の部分にやや分かりにくいところがあるが、年貢率4割5分を賦課する前に御旅屋ほかを控除したとある。この文書は「書状」などと意味不明な呼び方をせず、様式的には黒印状、内容的には年貢割付状と呼ぶべきである。

 

国会図書館デジタルコレクションで公開されている「加賀藩史料」を見たが当該年にとくに目を引く記事はなかった*16。ただし近世初期の年貢賦課の様子を具体的に伝える文書であり、大名と村/惣百姓との関係で解釈すべきで、まったく関係のない幕府との政治的関係に言及するのは是非に及ばずとしかいいようがない。

 

*1:空き

*2:年貢率

*3:以前までの村高

*4:高岡旅屋以下は控除とするの意

*5:今年年貢を賦課する村高

*6:俵、つまり5斗=1俵

*7:直納

*8:正規の年貢諸役のほかに賦課される負担

*9:買い手にとって得になる物、押買いを指すと思われる

*10:「宰判」、郡奉行が管理することの意

*11:上位者が下位者へ米銭などを与えること

*12:下行方という役職か

*13:川西三郡=婦負・礪波・射水

*14:大名領国内で売買すること

*15:越中国射水郡/中郡、図参照

*16:牛裂きの刑に処せられたとの記事はあった

天正7年12月10日浄土寺和泉宛羽柴秀吉書状

浄土寺百姓之内、令逃散、別而荒地共在之由候、散*1候百姓共、早々召返、耕作可申付候、下々不謂儀*2不可有之候、恐々謹言、

   天正七           藤吉郎

    十二月十日          秀吉(花押)

       浄土寺*3

         和泉殿

                       「一、209号、69頁」

 

(書き下し文)

浄土寺百姓のうち、逃散せしめ、べっして荒地ともこれあるよしに候、散じ候百姓ども、早々召し返し、耕作申し付くべく候、下々謂われざる儀これあるべからず候、恐々謹言、

(大意)

 浄土寺の百姓どものなかに逃散し、耕地を荒れるがままにしているという噂も聞いている。逃散した百姓たちを早々に呼び戻し、耕作するように命じなさい。下々の者へ正当な理由のない負担を課すことは禁ずる。謹んで申し上げました。

 

 

浄土寺は建久年間(1190~1199)播磨国加東郡大部庄に重源が建立し、現存する寺院である。位置は図の通り、加古川東岸に位置する。

 

天保播磨国絵図の加東・加西郡

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https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0303000000_5/0000000290/00

近世中期の浄土寺周辺図

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         『小野市史』第5巻 口絵2「一柳土佐守知行所絵図」より作成

浄土寺周辺村高推移

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                『小野市史』第5巻、82~84号文書より作成

また三木城と浄土寺の位置は以下の通りである。まだ、三木城とにらみ合いが続くなかこの召し返し令が出された点は注意したい。

三木城と浄土寺

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                 『日本歴史地名大系』兵庫県より作成

 

*1:「さんじ」、逃げる

*2:正当な理由のない負担を課すこと

*3:播磨国加東郡極楽山浄土寺

播磨国印南郡升田村の水害 「災害地名」? 

加古川兵庫県一の大河で、戦後ほぼ10年おきに水害が発生し、21世紀に入っても大きな被害をもたらしている*1。今回は下流域、播磨国印南郡升田村に伝わる水害の伝承を見ることにする。加古川流域は旱損にたびたび見舞われるため溜め池が多い。その一方で大河の氾濫に絶えず悩まされてきた。安永9年の口上書を引用する。

 

 

    乍恐聞伝之口上

                都築組

                   升田村

一、(中略)

一、①七拾八年以前*2元禄拾六未年(1703)満水ニ而村前<平津・伊保>*3庄弐ヶ井*4之水門吹抜キ堤江切レ込御田地夥敷掘レ崩へ*5は川欠*6石河原*7等ニ罷成御百姓とも之内ニも御田地ニ離レ候者多ク御座候而及極難候ニ付、御願申上可起キ帰*8分は情力*9を以テ起返シ申候、相残分川欠永引*10ニ相成申候、此節②堤切レ所之元トニ太兵衛・庄兵衛と申家弐軒御座候処、両家とも流失仕候、此両家人数男女八人御座候処不残散々ニ流申候、然レ共有所*11ハ当村地内山辺にも逗り*12或は土ぐろ*13藪際江もたどり付命助り罷有候由ニ御座候、尤太兵衛・庄兵衛義老人ゆへにも候哉溺死仕③太兵衛義は当村石塚ニ死骸逗り罷有候由、右之塚今におゐて太兵衛塚と申伝へ候、④庄兵衛義ハ堤切レ所之土ニ埋り相果申候由、尤⑤潰レ家之者共ハ村内之小名*14四軒やと申所へ居屋敷替へ仕只今家数弐拾軒計り御座候得とも⑥今ニ而も四軒屋と申伝へ候御事、

一、⑦六拾九年以前正徳二辰年(1712)満水ニ而…

一、⑧三拾弐年以前寛延二巳年(1749)七月洪水満水ニ而…

(中略)

右之通⑨当村之儀は元来度々水難ニ逢イ剰御田地度毎ニ大荒ニ罷成難義仕毎度御願申上候処御慈悲ヲ以願之通被為(闕字)仰付難有元ト之御田地に起返し候得共度々作土流レ失地味相替り候へは、作物何ニ而も取実*15無数*16内損多ク自然*17と困窮仕候様ニ罷成り次第々ニ指詰り御百姓共相続*18可仕手便*19無御座候ニ付、先年も御嘆*20奉申上候処…

   安永九子年(1780)八月   都築組升田村

                   組頭 十兵衛印*21

                   庄屋 角兵衛印

 御堰方

  原  源 内  様

  天野 三津右衛門様

(以下略)

              加古川市史』第5巻、104号文書、450~453頁

(書き下し文)

 

   恐れながら聞き伝えの口上

                都築組

                   升田村

一、(中略)

一、①78年以前元禄16未年満水にて、村前平津・伊保庄2ヶ井の水門吹き抜き、堤へ切れ込み、御田地おびただしく掘れくえまたは、川欠・石河原などに罷り成る御百姓とものうちにも御田地に離れ候者多く御座候て、極難におよび候につき、お願い申し上げ起き帰すべき分は精力をもって起き返し申し候、相残る分川欠・永引に相成り申し候、この節②堤切れ所のもとに太兵衛・庄兵衛と申す家2軒御座候ところ、両家とも流失仕り候、この両家人数男女8人御座候ところ、残らず散り散りに流れ申し候、しかれども有所は当村地内山辺にもとどまり、あるいは土畦・藪ぎわへも辿り着き、命助かり罷り有り候よしに御座候、もっとも太兵衛・庄兵衛義老人ゆえにも候や溺死仕り、③太兵衛義は当村石塚に死骸とどまり罷り有り候よし、右の塚今において太兵衛塚と申し伝え候、④庄兵衛義は堤切れ所の土に埋まり相果て申し候よし、もっとも⑤つぶれ家の者どもは村内の小名四軒やと申す所へ居屋敷替え仕り、ただいま家数20軒ばかり御座そうらえども、⑥今にても四軒屋と申し伝え候おんこと、

一、⑦69年以前正徳2辰年満水にて…

一、⑧32年以前寛延2巳年7月洪水満水にて…

(中略)

右の通り⑨当村の儀は元来たびたび水難に逢い、あまつさえ御田地たびごとに大荒に罷り成り難義仕り、毎度お願い申し上げ候ところ御慈悲をもって願いの通り仰せ付かせられ、ありがたくもとの御田地に起き返しそうらえども、たびたび作土流れ地味を失い相替りそうらえば、作物何にても取実無数内損多く、自然と困窮仕り候ように罷り成り、次第次第に指し詰まり、御百姓とも相続仕るべき手便御座なく候につき、先年も御嘆き申し上げたてまつり候ところ…

 

(大意)

 長くなりすぎたので、下線部①~⑥だけ示す。

 

①いまから78年前の元禄16年、水があふれ、当村前にある平津・伊保庄2つの用水路*22の水門をふきとばし、堤が決壊し・・・。

 

②堤が切れたところに太兵衛・庄兵衛という百姓の家2軒ありましたが、両家とも流失してしまいました。両家の人数は男女合わせて8人でしたが、残らずバラバラに流れてしまいました。

 

③太兵衛は当村内にある石の塚に遺体が残されていたという話です。この塚を現在まで「太兵衛塚」と申し伝えております。

 

④庄兵衛は堤が決壊したところで生き埋めになり相果てました。

 

⑤押しつぶされた家の者たちのうち太兵衛・庄兵衛を除く者たちは村内の小名のひとつ「四軒屋」というところに住処を変えていました。

 

⑥今でも「四軒屋」と申し伝えています。

 

 

図1  文化8年加古郡印南郡郡境絵図 升田村前平津庄井・伊保庄井

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加古川市史』第5巻、65号絵図、335頁


 最近「災害地名」という言葉を耳にする。それらの多くは漠然とかつての地形を表すものとして理解されているが、升田村においては「太兵衛塚」、「四軒屋」ともに元禄16年の洪水で被った被害の具体的な伝承を地名と結びつけて、およそ80年間伝えつづけてきた点で大きく異なる。「太兵衛塚」は溺死した者の遺体が発見された地に太兵衛の名が刻まれ、「四軒屋」は難を逃れた者たちに由来する地名として記憶されている。

 

残念ながら各種地名辞典を繙いてみたが、他県には見られる「小字一覧」が欠落しているため、これらの地名が現在まで伝わっているかは確認できない。ただ、この史料はすでに翻刻されており、ブログなどでも紹介されていて広く知られていることには注意すべきだろう*23

 

 なお、現在の升田の地形は図2の通りである。

図2 加古川市升田の地形

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                    「Google マップ」より作成

 

*1:https://www.kkr.mlit.go.jp/himeji/torikumi/river/about/his_kako.html

*2:「以前」は現代とニュアンスが異なり「今から~年前」のような意味になる

*3:<>内は割註

*4:「井」は用水路の意

*5:くえ、土や岩が崩れること

*6:かわかけ、河川の堤防が決壊して田畑が押し流されること

*7:石の転がる河原

*8:おきかえし、荒廃田をもとに戻すこと

*9:精力カ

*10:年貢を永年にわたって免除すること

*11:物事が起こった場所

*12:とどまる

*13:畦または畔、小高くなったところ

*14:コナ、村内の集落名

*15:収穫量

*16:多かったり少なかったり数量が定まらないこと

*17:「自然」は近世前期までは「万一」という意味だが、中期以降になると「当然の成り行きで」という意味に変わる。ここでは後者

*18:年貢を納め、経営を続けていくこと

*19:手段

*20:「嘆く」は歎願する、願い出るの意。「悲嘆に暮れています」という意味ではない

*21:この文書は充所にある「堰方」に提出したものの控えなので、原本には押印したことを示すため「印」と書いている

*22:図1参照

*23:

blog.goo.ne.jp

明暦2年12月晦日粟生村百姓連判年貢・諸役算用に付一札

播磨国加東郡粟生村で17世紀に起こった村方騒動。最近の話と好対照をなす文言が見られるので、17世紀の百姓の意識を見てみたい。

 

    上ル一札之事

一、雖毎年如此被仰付候と、弥被入御念候、御公儀様御割符*1方之御年貢帳*2、藁銀・小物成銀*3、其外有之候割符并与中万事支配銀*4割符等二至まて、其年切二*5、庄や・与頭立合万事小日記*6相改、吟味之上二て諸事名細*7に算用指引相渡し申し候ニ付、毛頭非道成儀無之少も申分無御座候、若後日何角と申者候ハヽ此判形*8之一札を以(闕字)御公儀様へ御指上ヶ可被成候、其時一言之子細*9申上間敷候、為後日如件、

                     粟生村*10与頭*11

                         平右衛門(印)

                    (その他約70~80名連署略)

      八郎大夫殿

                  『小野市史』第5巻、90号文書

 

(書き下し文)

 

    上る一札のこと

一、毎年かくのごとく仰せ付けられ候といえども、いよいよ御念を入れられ候、御公儀様御割符かたの御年貢帳、藁銀・小物成銀、そのほかこれあり候割符ならびに与(くみ)中万事支配銀割符などにいたるまで、その年きりに、庄屋・与(くみ)頭立ち合い万事小日記相改め、吟味のうえにて諸事明細に算用指し引き相渡し申し候につき、もうとう非道なる儀これなく少しも申し分ござなく候、もし後日なにかと申す者そうらわばこの判形の一札をもって御公儀様へ御指し上げなさるべく候、そのとき一言の子細申し上げまじく候、後日のためくだんのごとし、

 

(大意)

   差し上げます一札

一、毎年このように仰せつけられているとはいえ、今後も念を入れてくださいますように。ご公儀様から割り付けられた御年貢の帳簿、わら銀・小物成銀ほかの負担の割り付け、さらには村の支出の負担の割り当てにいたるまで、その年ごとに、庄屋・組頭の立ち会いの下すべての帳簿を調べ、すべて明細の計算を終え帳簿類を引き渡しているので、不正はありません。もし後日色々と言い出す者が出たならばこの文書をご公儀様へ差し上げてください。そのとき何も文句は申しません。後日の証拠として書きました。

 

 

 

*1:負担の割り付け

*2:年貢の負担を村内で割り付ける帳簿

*3:わらや小物成として納める銀

*4:村や組合村の入用の負担銀

*5:その年ごとに

*6:帳簿類

*7:明細

*8:この文書と署名捺印

*9:一言の文句

*10:播磨国加東郡

*11:組頭