年未詳7月18日大久保伝十郎・本多光信宛徳川信康書状写を読む

『愛知県史資料編11織豊1』に徳川信康松平信康)書状写が掲載されているので今回はこれを読んでみる。同県史によればこの文書は要検討であるものの信康発給文書がこの一通のみなので掲載するとある(840頁)。

  

  一六一三 徳川信康書状写  満性寺文書

 以一札申遣候、今十日夜申聞之通、遠州大久保七郎右衛門方へ可参間、前申遣分ニ心得可有之候、大久保心入ニ仍而、前申聞之通、存分ニ相極申候、跡ニ而満性寺安藤と此分申聞候、為亦々用文遣申候、以上、

   七月十八日           三郎(花押影)

  大久保伝十郎殿

  本多弥惣左衛門殿

 

  (書き下し文)

一札をもって申し遣わし候、今十日夜申し聞けの通り、遠州大久保七郎右衛門方へ参るべき間、前申し遣わす分に心得これあるべく候、大久保心入によって、前申し聞けの通り、存分にあい極め申し候、跡にて満性寺安藤とこの分申し聞け候、またぞろのため用文遣わし申し候、以上、

   七月十八日           三郎(花押影)

  大久保伝十郎殿

  本多弥惣左衛門殿

 

*大久保七郎右衛門:大久保忠世

 

*満性寺:正応2年(1289)創建。三河国額田郡、現在の岡崎市菅生。永禄年間の三河一向一揆では家康側に味方した。

 

*安藤:『日本歴史地名大系・愛知県』(平凡社)によれば「菅生村古屋敷として『満性寺領内倉橋惣左衛門、安藤孫四郎、田中五郎右衛門』の三人の屋敷」があったとしているので安藤孫四郎の関係者かも知れない。

 

*三郎:徳川信康

*大久保伝十郎:不明

 

*本多弥惣左衛門:本多光信

 

天正6年11月12日松平(徳川)信康発給文書を読む

松平(徳川)信康発給文書は、東京大学史料編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」データベースおよび「大日本史料総合データベース」によれば写のみ2点残されている。そのうち、天正6年と推定されている1112日付のものを読みたい。

    

    

    覚

一、東者調へ道際境、

一、南者川原面道際境、

一、西者山入村与神谷道峯道際境、

一、北者川口村々散在峯道際境、

右之内田畑山林不残如先規之宝生寺領御縄面ニ付申処無子細条書付進申候、以上、

  寅十一月十二日          信康(花押)

       野山左五郎

       内藤角右衛門

 

(書き下し文)

    覚

一、  東は調べ道を際境、

一、  南は川原面道際境、

一、  西は山入村と神谷道峯道を際境、

一、  北は川口村々散在の峯道を際境、

右のうち田畑山林残らず先規のごとく宝生寺領御縄面につけ申すところ子細なきの条、書付まいらせ申し候、以上、

  寅十一月十二日          信康(花押)

       野山左五郎

       内藤角右衛門

 

 

村名、寺名、人名ともいずれも不明の上、文体がどうにも落ち着かない。謎だらけの文書だ。

 

「御縄面ニ付」とあるように、この文書が事実とすれば信康は検地を行っていたことになる。

天正18年8月9日豊臣秀吉朱印状写「奥州会津御検地条々」(一柳文書)を読む

前回、「一昨日如被仰出候、斗代等之儀、任御朱印之旨:8月10日『奥州会津御検地条々』写(一柳文書)の趣旨」としてお茶を濁した史料を読む。

秀吉の検地に懸ける意気込み 「一郷も二郷も撫で切りにせよ」 その2/止 - 日本史史料を読むブログ 一次ソースまたは1.5次ソースを探せ!

 

一柳文書については播磨良紀「豊臣期の一柳文書について」(『織豊期研究』3号、2001年)を参照されたい。

 

 

    奥州会津御検地条々       土佐守所持

一、上田一段           永楽銭弐百文宛事

一、中田一段           百八拾文事

一、下田一段           百五拾文事

一、上畠一反                 百文宛事

一、中畠一段                 八拾文事

一、下畠一反                 五拾文事

一、山畠ハ見あて次第年貢可相究事、

一、漆木見計年貢可相究事、

一、川役相改別ニ御代官可被仰付事、

一、田畠共ニ一段ニ付五間六拾間ニ可相定事、

   以上

             天正十八年八月九日 

                秀吉公御朱印

 

(書き下し文)

    奥州会津御検地条々     土佐守所持

一、上田一段           永楽銭弐百文ずつのこと

一、中田一段           百八拾文ずつのこと

一、下田一段           百五拾文ずつのこと

一、上畠一反                 百文宛ずつのこと

一、中畠一段                 八拾文ずつのこと

一、下畠一反                 五拾文ずつのこと

一、山畠は見あて次第に年貢あい究むべきこと、

一、漆木見計らい年貢あい究むべきこと、

一、川役あい改め、別に御代官被仰せ付けらるべきこと、

一、田畠ともに一段につき五間六拾間にあい定むべきこと、

   以上

   天正十八年八月九日

            秀吉公御朱印             

 

*土佐守所持:「この検地条々は土佐守が持っている」の意か。土佐守については後述。

*田畠共ニ一段ニ付五間六拾間ニ可相定:田畠とも面積は1反=5間*60間、つまり300歩=1反とするの意。それまでは360歩=1反だった。

 

 

 

土佐守が長宗我部元親なのか盛親なのか、確かめられなかった。元親は「土佐侍従」であり、盛親は「土佐守」と記されているものはあるが、官位相当からいえば中国である土佐の長官(かみ)は従六位下であり、一方侍従は従五位下なので兼職できるのか疑問が残る。

 

ところで一柳文書のうち国会図書館蔵の原本はデジタルコレクションからダウンロードできるので、秀吉の朱印をご覧になりたい方は以下のURLから「一柳文書」ですぐに見つけられるのでどうぞ。

http://dl.ndl.go.jp/

ドラマ「アシガール」の手配書を読んでみる 

話題になっている手配書を読んでみる。画像はこちらから。

 

http://livetests.info/2ch/img/livenhk/20171104/798769.jpg

http://livetests.info/2ch/img/livenhk/20171104/798769.jpg

 

    手配書

梅谷村足軽唯之助

(似顔絵)

右者高山方と内通之疑有之候故、取締

方目下探索ニ及候也、見附候者ハ即刻

届可申事、應分之褒美被取候者也、

 八月三十日

    奉行

 

(書き下し文) 

右の者(または「右は」)、高山方と内通の疑いこれあり候ゆえ、取締方目下探索に及び候なり、見附け候者は(または「見附そうらわば」)即刻届け申すべきこと、応分の褒美取らせ候ものなり、

 

字体や言い回しはかなりうそくさい、当たり前の事だが。ただこういう文書を持ち出して「我が祖先は・・・」などと言おうものなら大変な事になるのでやめておいた方がよい。

 

数年前ある自治体の長が記者会見で借用証文を見せたとき、経年劣化がまったく感じられないものだったので違和感を覚えたことがある。字体や言い回しだけでなく、紙字体の状態も様々な情報をもたらすので馬鹿にしてはいけない。

 

もっとも戦国期にこういった人相書きのようなものがあったかどうかはわからない。だいたい陣触を役人が読み聞かせる場面で、黒島結菜が文書を手に取った際、周囲の村人が「おまえ字が読めるのか?」と言ったように、読み書きできる者やなんとか読める者、あるいはまったくの文盲だった者など識字能力は階層ごとに異なっていたから、ああいった場面では誰かが音読して聞かせる手段が必要だったはずだ。陣触と手配書の場面を比較すると、設定としては一貫性にやや欠けると思う。

 

しかしむかしの時代劇は文字の形も文面も形式もまったくの出鱈目だったし、現代ドラマで新聞や週刊誌の記事が大写しになったとき見出しだけドラマに合わせるが、記事自体はまったく無関係だった頃とくらべれば小道具は長足の進歩を遂げたといえる。

 

 

カンバーバッチ主演の「シャーロック」ではドラマの最初に「Ostalgie」(Ost=東、Nostalgie=郷愁からの造語で旧東ドイツ時代へのノスタルジーという意味)といいながら、ワトソンの妻が突然失踪し、海外へ追いかける場面でとんでもない手抜きがあった。画面に航空機の行先表示板があらわれるのだが、そこには「USSR」だの「E.Germany」だの「W.Germany」だの現存しない国名ばかりが散りばめられていたのだ。「オスタルギー」はそれらの国が消滅したからこそ生まれた言葉なのに、である。

 

おかげでネタが増えるので悪いことではないと思うが。

 

 

秀吉の検地に懸ける意気込み 「一郷も二郷も撫で切りにせよ」 その2/止

今回は有名な天正18年8月12日浅野長政豊臣秀吉朱印状を読む。

 

  尚以、此趣其口へ相動衆、不残念を入可申届候、返事同前ニ可申上候也、

態被仰遣候、

一、去九月至干会津、被移御座、御置目等被仰付、其上検地之儀、会津中納言、白川同其近辺之儀者、備前宰相ニ被仰付候事、

一、其元検地之儀、一昨日如被仰出候、斗代等之儀、任御朱印之旨、何も所々、いかにも入念可申付候、若そさうニ仕候ハゝ、各可為落度候事、

一、山形出羽守、并伊達妻子、早京都へ差上候、右両人之外、国人妻子事、何も進上申族者、一廉尤可被思召候、無左ものハ、会津へ可差越由、可申付事、

一、被仰出候趣、国人并百姓共合点行候様ニ、能々可申聞候、自然不相届覚悟之輩於在之者、城主ニて候ハゝ、其者城へ追入、各相談、一人も不残置、なてきりニ可申付候、百姓以下ニ至るまて、不相届ニ付てハ、一郷も二郷も、悉なてきり可仕候、六十余州堅被仰付、出羽奥州迄そさうニハさせらる間敷候、たとへ亡所ニ成候ても不苦候間、可得其意候、山のおく、海ハろかいのつゝき候迄、可入念事専一候、自然各於退屈者、関白殿御自身被成御座候ても、可被仰付候、急与此返事可然候也、

   八月十二日(秀吉朱印)

  浅野弾正少弼とのへ

 

    『大日本古文書 浅野家文書』81~82頁 

 

(書き下し文)

  

わざわざ仰せ遣わされ候、

一、去る九月会津にいたり、御座移られ、御置目など仰せ付けられ、その上検地の儀、会津中納言、白川同じくその近辺の儀は、備前宰相に仰せ付けられ候こと、

一、そこもと検地の儀、一昨日仰せ出だされ候ごとく、斗代などの儀、御朱印の旨にまかせ、何れも所々、いかにも入念申し付くべく候、もしそさうにつかまつり候わば、おのおの落度たるべく候こと、

一、山形出羽守、ならび伊達妻子、早く京都へ差し上げ候、右両人の外、国人妻子の事、何れも進上申す族は、一廉もっとも思し召めらるべく候、さなきものは、会津へ差し越すべき由、申し付くべき事、

一、仰せ出だされ候趣、国人ならび百姓ども合点行き候ように、よくよく申し聞くべく候、自然あい届ざる覚悟の輩これあるにおいては、城主にて候わば、その者城へ追い入れ、おのおのあいかたらい、一人も残し置かず、なてぎりに申し付くべく候、百姓以下に至るまで、あい届かざるについては、一郷も二郷も、ことごとくなてぎり仕るべく候、六十余州堅く仰せ付けられ、出羽奥州までそさうにはさせらるまじく候、たとえ亡所になり候ても苦しからず候間、その意をうべく候、山のおく、海はろかいのつづき候まで、念を入るべき事専一に候、自然おのおの退屈においては、関白殿御自身御座なられ候ても、仰せ付けらるべく候、きっとこの返事然るべく候なり、

 

(文頭の追伸部分へ)

なおもって、この趣その口へ相動く衆、残らず念を入れ申し届くべく候、返事同前に申し上ぐべく候なり、

 

 

中納言豊臣秀次

*白川:陸奥国白川郡。現在の福島県南部。

備前宰相:宇喜多秀家。「宰相」は参議の唐名

*其元:浅野長政

*一昨日如被仰出候、斗代等之儀、任御朱印之旨:8月9日「奥州会津御検地条々」写(一柳文書)の趣旨。

*そさう:訴訟。不満を言うこと。

*山形出羽守并伊達妻子:最上義光伊達政宗の妻子。つまり人質。

*自然:万が一の意。

*相談:「あいかたらう」で味方につけて、の意。

*ろかい:漢字では「櫓櫂」。舟を漕ぐ「艪」と「櫂」。

*退屈:なすべきことをしないこと。

*関白殿御自身被成御座:関白は豊臣秀吉を指す。「御自身」「被成御座」と自分自身に対して尊敬を表している。「被」は尊敬の助動詞「らる」。

*浅野弾正少弼浅野長政

 

 

(大意)

そのためだけに仰せ遣わします。

一、去る九月会津にいたり、御座所を移られ、御置目など仰せ付けられ、その上検地について、会津豊臣秀次、白川郡やその近辺は、宇喜多秀家に命じられましたこと、

一、おまえの検地は、一昨日に仰せの通り、斗代などは朱印状にある通り、どれもその土地その土地、入念に検地を行いなさい。もし不満を言う者が現れたならば、検地担当者の落ち度とすること。

一、最上義光および伊達正宗の妻子、早々に京都へ差し上げました。この両人のほかに、国人の妻子を人質とすることは、一層感心なことに思われるでしょう。そうでない場合は、会津へ連れ出すと命令すること。

一、仰せになった趣旨を、国人ならび百姓どもに合点が行くよう、よくよく聞かせなさい。万一こちらの趣旨を理解しない心の準備ができている者どもがいたならば、城主である場合は城へ追い込み、それぞれ合力し、一人も残さず、なてぎりにしなさい。百姓以下の身分の者どもまで、理解しない場合は、一郷も二郷も、ことごとくなてぎりにしなさい。全国六十余州しっかりと命令し、出羽や奥州まで不満を申す者のいないようにしなさい。たとえ亡所になっても構わないので、説得させなさい。山はいかなる山奥でも、海は櫓櫂で舟が漕げるところまで、入念に行いなさい。万一それぞれが務めを果たさない場合は、関白殿御自身がお出ましになってでも、仰せになるでしょう。必ずこの朱印状への返事を怠らないこと。

 

(文頭の追伸部分へ)

なお、この趣旨をはじめに働く衆まで、残らず念を入れて申し聞かせなさい。この返事も同様に上申すること。

 

 この文書から漂うのは秀吉の尊大さである。「関白殿御自身」をはじめ自身への尊敬表現がやたら鼻につく。あととにかくくどい。

 

全国どこまでも秀吉の意に背く者は決して許さない。たとえ荒野が広がろうとも、城ごと、郷村ごと撫で切りにするという意思がひしひしと伝わってくる。

新発見 堀尾吉晴の息子忠氏発給文書を読む

前回読んだ秀吉文書の宛所にあった堀尾吉晴の息子忠氏発給文書が発見された。

www.sankei.com

www.yomiuri.co.jp

 

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画像は毎日新聞による。

https://mainichi.jp/articles/20171027/ddl/k32/040/418000c

 

 

   知行方之目録

八百六拾石之内       出東郡

一、四百参拾石         宇賀之内

五千四百五拾石之内     同

一、五百四拾石        鹿塚之内

六百拾石之内        大原郡

一、四拾石          飯田之内

    合千拾石

     内

    一、弐百石     内た太郎左衛門尉

    一、弐百五拾石   七山与右衛門尉

    一、百五拾石    今村喜介

    一、百四拾石    寺井甚介

    一、百四拾石    今村右衛門九郎

    一、百参拾石    村上彦八郎

      已上

 右令割符可領知者也、

  慶長六年

    三月廿七日       忠氏(朱印「誉」)

 

 

 

 

これは出雲国の出東郡宇賀、同郡鹿塚、大原郡飯田から1010石集めて、6名の家臣に知行割を行うという文書である。

 

地理的に離れた郷村を10石単位で割り切ってしまえば、郷村単位で家臣に土地を分け与えることは不可能に近い。実態としては一家臣はあちらこちらに分散した土地を受け取ることとなり、郷村側としては複数の領主が支配する相給(あいきゅう)となる。これは例外ではなくむしろよく見られた現象である。

 

近世になると関東、京阪神などは幕府領(「天領」ではなく代官支配所と呼ぶ)、藩領、旗本領がひしめき合う村(領主は2、3人から20人以上まで)がほとんどであり、○○藩領のような領域的な支配はほとんど見られない。

新発見 本能寺の変から2ヶ月後の秀吉発給文書を読む???

2017年10月26日、秀吉発給文書新発見のニュースが飛び込んできた。本能寺の変から2ヶ月後の京都支配に関するものだという。

 

www.yomiuri.co.jp

www3.nhk.or.jp

 

そこでここで読んでみることにした。

 

 

ところで信長を「上様」と呼ぶことについてはすでに当ブログでも採り上げ、「上意」「御入洛」といった貴人を指す言葉でも誰かを特定するのはむずかしいと指摘した。

 

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

 

https://blog-imgs-116.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20171026-063309.jpeg

 

預ケ物・亂妨物、一切不可有糺明候、上様御物之事と慥候儀者預り主可相届置候、其外之事改申間敷候、恐々謹言

               筑前

    八月十四日         秀吉(花押)

      堀尾毛介殿

      速水勝太殿

      唯江□□□殿

 (書き下し文)    

預ケ物・亂妨物、一切糺明あるべからず候、上様御物の事と慥か候儀は、預り主にあい届け置くべく候、そのほかのこと改め申すまじく候、恐々謹言     

 

 

*預ケ物:他人に預けてある品物。寄託物。特に中世、土倉に預けおいた物。

 

*亂妨:乱妨または濫妨で「暴力を用いて略奪を働くこと」の意。現在の乱暴とは意味が異なる。

 

御物:「ごもつ」または「ぎょぶつ」天皇家や将軍家の所有物に対して使われる言葉。

 

*預り主:他人から金銭、物品、土地などを預かっている人

 

*堀尾毛介:堀尾吉晴

 

*速水勝太・唯江□□□:不明

 

(大意)

預け物、乱妨物について、一切追及してはならない、信長様の所有物であると明らかな場合、預り主に必ず届けること、そのほかの場合は調査してはならない。

 

 

この預け物、乱妨物に関しては同年7月12日の史料にも見える。

 

 

今度明智同家中、其外敵心之者共、預ケ物并乱妨物之事、早々可出合申候、若於隠置者、地下中悉可成敗候間、堅令糺明、早々出可申者也、

 (天正十年)          筑前

  七月十二日            秀吉(花押影)

     宇治

     同白川

 

豊臣秀吉文書集 1』(145頁) なお、この史料集は東京大学史料編纂所架蔵の写真帳から採集されている。

 

(書き出し文)

このたび明智同家中、そのほか敵心のものども、預け物ならびに乱妨物のこと、早々出し合わせ申すべく候、もし隠し置くにおいては、地下中ことごとく成敗すべく候間、かたく糺明せしめ、早々出し申すべきものなり、

             

 

 

7月12日の段階では明智の残党狩りと同時に預け物や乱妨物について、郷村へ厳しい態度で臨んでいることがわかる。7月21日に大山崎宛に油座の保証や徳政免除の、25日に摂津国別院へ治安の保証および直訴の奨励の文書を出しており、在地への目配りが行き届いている。また8月7日には目付として京都に留守居を置き、安土城再建にも触れている。

秀吉の検地に懸ける意気込み 「一郷も二郷も撫で切りにせよ」 その1

小田原の後北条氏を平定した1ヶ月のち、秀吉はこんなことを述べている。

書状之旨、於小田原披見候、出羽奥州其外津軽果迄も百姓等刀武具駈、検地以下被仰付、伊達山形初而足弱共差上、被明御隙候付而、従会津今日当城迄被納御馬候、然者、為迎吉川中務少輔差越候通、悦思食候、猶黒田勘解由可申候也、

  八月十八日(秀吉朱印)

      羽柴新城侍従とのへ

 

 『大日本古文書・吉川家文書之一』711頁。

 

(書き下し文)

書状の旨、小田原において披見し候、出羽・奥州・そのほか津軽のはてまでも百姓等刀・武具駈け、検地以下仰せ付けられ、伊達・山形初めて足弱ども差し上げ、お隙を明けられ候ついて、会津より今日当城まで御馬納められ候、しからば、迎えとして吉川中務少輔差し越し候とおり、悦ばしく思し食し候、なお黒田勘解由申すべく候也、

 

*足弱:足軽

 

*当城:大日本古文書編纂者は駿府城か、としている。

 

*吉川中務少輔:編纂者は吉川経忠としている。

 

*黒田勘解由:黒田孝高

 

*羽柴新城侍従:吉川広家

 

 「出羽奥州其外津軽果迄も百姓等刀武具駈、検地以下被仰付」とあり、検地などの支配領域の北限が津軽だったことがわかる。

 

北海道で稲作が試みられるのは1世紀後のことなのだが(註)、海産物や毛皮をはじめとするゆたかな資源にめぐまれた北海道がなぜ度外視されたのか興味は尽きない。

 

(註)

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/30037/1/tsusetu_p777-788.pdf

https://www.library.pref.hokkaido.jp/web/publish/qulnh000000006zl-att/vmlvna0000002967.pdf

ファミリーヒストリー 壇蜜家文書を読む

古文書という副題に興味をそそられ、ここで読んでみることにした。番組のナレーションは聴いていないので、詳しいことはそちらに任せるとして翻刻だけ試みたい。

 

 FIG.1

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於江戸表御軍用

御備被成下度

御紋付羽二重此原

御幕令献上、御時節柄

御用相立、彼是源切

奇特成事

(次へ続く)

 

 

FIG.2

f:id:x4090x:20171022012737j:plain

 

思召候、依之為御賞

其身一生中御小性組

被成下之旨、被

仰出候事、 

 

(書き下し文)

江戸表においてご軍用お備え成し下されたく御紋付・羽二重・此原御幕献上せしめ、御時節柄御用にあいたち、かれこれ源切奇特なることに思し召され候、これにより御賞として、その身一生中御小性組に成し下さるの旨、仰せ出され候こと、 

 

 

*此原:人名らしいが不明。此原幕という商品名か。

 

源切:仏教語大辞典に「げんせつ」=懸説として「遥か先をあらかじめ見越して説くこと」とある。つづく奇特とセットで「将来を見通す、神仏のようにすぐれたさま」という意味と思われる。

 

 

画像1の2行目で改行している。平出になっていることから、主人が着るであろう「御紋付」への敬意を示しているものと思われる。同様に画像1最終行から画像2の第1行にかけて「思し召され」、画像2の終わり2行に「仰せ出され候」と平出が見られる。

 

 

訂正 というより言い訳

どうも読み方を誤ったようだ。時代劇の見過ぎがいかによくない影響を及ぼすのか今回ほど身に染みたことはない。前回のブログ中で「其方」を「そのほう」と読んでしまったが、「そち」あるいは「そなた」と読むべきかも知れない。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

1603年刊行『日葡辞書』に”sonofo”が「あなた」の意味であると見えるが、残念ながら相手との関係についての記述はない。

 

いずれにしろ、対等または下位の者への呼称である。近世の借用証文では貸主を「貴様」と呼ぶ例があるように、本来は敬意を示す言葉が時代が異なると罵倒する時に使われるという現象は珍しくない。

 

書状の年次比定が変更される事例 木下藤吉郎秀吉発給文書をめぐって

先日以下の記事を書いた。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

そこで木下藤吉郎秀吉と名乗る文書を東京大学史料編纂所のデータベースで検索してみると、天正3年とされる文書を見つけた。

 

余談だがそれぞれのデータベースの仕様が異なるのか、ひとつのEXCELシートにコピー・アンド・ペーストするとうまく行かない。最近話題の「ネ申エクセル方眼紙」が突然現れることもある。

 

閑話休題、史料総覧では天正3年、大日本史料、『豊臣秀吉文書集一』(11頁)では元亀元年としてあらわれる文書を紹介しよう。なお、三鬼清一郎編『豊臣秀吉文書目録』(1989年、名古屋大学文学部)では年未詳とされている(122頁)。引用は『文書集一』同頁。

 

其方買得分之事、御下知在之事候、何も徳政行候共不苦候、下々何角申候者可有注進候、我等かたより可申届候、恐々謹言、

             木下藤吉郎

  十一月十一日         秀吉(花押)

  立入左京進殿

       御宿所 

 

(書き下し文)

そのほう買得分のこと、御下知これあることに候、いずれも徳政おこない候とも苦しからず候、下々なにかと申しそうらわば注進あるべく候、我等方より申し届くべく候、恐々謹言、

 

*御下知:室町幕府が元亀元年10月4日に徳政令を公布したが、信長が個々に(たとえば摂津平野荘宛に)免除する、つまり徳政の対象外とする旨の文書を出しており、それらを指す。

 

*立入左京進:立入(たてり)宗継。代々禁裏御倉のうち上御倉職を勤める。

 

*御宿所:普通宿所ですみか、家という意味だが、ここでは宛所の脇につけて(脇付と呼ぶ)敬意を表している。

 

(大意)

貴殿が購入した土地について、信長様の命令が下されたのだから徳政が行われてもその土地は徳政の対象外である。下々の者があれこれ言ってくるならばこちらへ知らせるように。そうすれば我々の方から直接文句を言ってくる者どもに言い含めるでしょう。

 

 

 

文中の「徳政」という文言から元亀元年と年次比定されたものと思われる。したがって天正3年まで木下姓を名乗っていたとはいえなさそうである。

 

この頃の秀吉文書は「恐々謹言」や「恐惶謹言」といった書き止め文言に見られるように書状の形を取るものが多いようだ。書状の多くは月日のみで年次比定という点でいろいろ難しい。

2015年7月10日報道の木下藤吉郎秀吉発給文書を読む???

2015年7月に報道された新発見秀吉発給文書は残念ながら名古屋市立博物館編『豊臣秀吉文書集1(永禄8年~天正11年)』(2015年2月)に間に合わなかった。そこでここで読んでみることにしたい。

まず前半部分の写真を掲載したのは毎日新聞だけだった。記事はすでに残っていないが、画像だけはさいわい残されていた。

 

f:id:x4090x:20171018225039p:plain

画像の引用はこちら。

 

http://mainichi.jp/graph/2015/07/11/20150711k0000m040130000c/001.html

後半部分だけに注目が集まったようだ。

 

http://www.sankei.com/images/news/150710/wst1507100098-p1.jpg

 

画像の引用はこちら。

www.sankei.com

 

その他の紹介記事。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO89199460R10C15A7CC0000/

http://archive.fo/YFAD2

下の写真を見ると「元亀四年とり」、「五月廿四日木下藤吉郎秀吉」、「(秀吉花押)」の部分が異なる筆跡であることが分かる。花押は秀吉自身、署名と日付が右筆によるものと推測できるが、年代部分はこの文書が作成された後のものではないだろうか。残念ながら写真だけでは判別しにくい。

http://archive.fo/hGxUE

 

f:id:x4090x:20171019174220j:plain

  

     川野方出来分

七貫文             松原平一郎 引請

四貫文             高見弥三 引請

拾六貫六百文          徳田佐介 同

五貫弐百八十文         大野
                 太郎衛門尉 同
四貫八百文           森源十郎 同
四貫百八十文          奥田五郎衛門尉 同
六貫九百文           岩越小二郎 同

                    以上四拾八貫文(48貫760文)

右之分能々念入可有糺明、此書付の外在之ニ候間、縦縁者親類□りと云共不見隠有やうに堅あらため、其上にて可申付候、為其如此、恐々謹言

            木下藤吉郎

  元亀四年とり

   五月廿四日        秀吉(花押)

 篠田傳七郎とのへ

 

(書き下し文)

 

   川野方出来分

七貫文                  松原平一郎  引請

 (中略)      

  以上四拾八貫文(48貫760文)

右の分よくよく念を入れ糺明あるべし、この書付のほかこれあるに候間、たとい縁者・親類□りというとも見隠しあらざるように堅くあらため、その上にて申し付くべく候、そのためかくのごとし、恐々謹言

 

(大意)

川野方の新規開発分について

七貫文は松原平一郎の引請とする

 (中略)

以上合計四拾八貫文である

右の土地に関して入念にただし、この書面のほかに何か異議ある者は、たとえ親類・縁者であっても隠したりせずに厳重に調べ、そのうえで命ずる、以上の通りである、おそれながら以上の通り申し上げました。

 

正直なところ正確に読めたか自信がない。おまけに48貫文の計算も合わない。通常銭の計算は96枚で100文とするがそれでも帳尻が合わず、前半部分の肝心な意味もよく分からない。また名前が挙がっている者たちも不明である。ただ「衛門尉」と呼ばれていることから有力土豪かも知れない。また宛所の「篠田傳七郎」は谷口克広『織田信長家臣人名辞典』にも見えず、未確認である。

 

木下藤吉郎最後の文書ということで注目されていたようだが、どういった内容の文書なのかまったく理解できなかった。読み損ないも含めて、ご指導いただければさいわいである。

石田三成島津分国検地掟写を読む その9/止

今日で全11条を終える。

一、川役の事其むらゝ ゝニて見斗、年貢相定可申事、

    已上         石田少様 在判

 文禄三年七月十八日

               薩州奉行中

 

(書き下し文)

 

ひとつ、川役のことそのむらむらにて見計らい、年貢あい定め申すべきこと、

 

*川役:川にかかる年貢や運上。

 

*ゝ ゝ:引用書および原文はくの字点

 

*石田少様 在判:「石田少」様の花押が据えてあるという意味。

 

*薩州奉行中:引用した『石田三成第二章』(71頁)によればこの写が伝わる長谷場氏は鹿児島郡坂元村を本拠とする国人で、戦国末期に島津家の配下に入った。「秀吉・三成からの命令を筆写したものが伝存したと考えてよい」とあることから、ここでは島津家家中の検地奉行を指すものと解釈するのが妥当と思われる。その意味では、三成が直接検地したというより、指導していたものであろう。なお、三成の署名入り検地尺も鹿児島にしか伝わっていない。

 

(大意)

 

川役のことはその村その村の事情をよく見極めた上で、年貢率を定めなさい。

 

 

この文書は写であるので、もとの文書のかたちをどの程度正確に写し取ったか否かなんともいえないが、石田三成と薩州奉行が同じ高さで書かれていたとなると、三成はかなり尊大な態度だったといえる。三成から見ればそれだけ下位に属する、あるいはそう見せたがっていたと考えられる。ここでそうみせたがるというのは身分を可視化するという意味で重要な意味を持つ。通常身分制社会では一目でどの身分に属しているか判別がつかないと秩序が保てない。水戸黄門暴れん坊将軍の吉宗がその好例である。身なりや持ち物などに身分を示す工夫がちりばめられているのだ。以前、草履などについて述べたが、実用面はもちろん、そういった意味も持っていたのだ。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

石田三成島津分国検地掟写を読む その8

第9、10条を読む。なお今回より長浜市長浜城歴史博物館(『石田三成第二章』(2000年)から引用する。

一、其村々々て庄屋・肝煎此両人居やしき斗可相除事、

一、樹木之類何も今迄之地主・百姓進退たるへし、公方へ上り物て在之間しく候事、

 

(書き下し文) 

一、その村その村にて庄屋・肝煎この両人居やしきばかりあい除くべきこと、

一、樹木の類いずれも今までの地主・百姓進退たるべし、公方へ上り物にてこれあるまじく候こと、

 

 

*其村々:上掲書では二の字点。「其村其村」

 

間しく:間敷

 

(大意)

一、その村その村で庄屋・肝煎の両人の居やしきのみは検地帳に記載してはならない。

一、樹木の類いずれも今までの地主・百姓の自由にさせよ。公方へ上納させることのないようにしなさい。

 

 

9条では庄屋や肝煎などの村役人に対する給付として、屋敷地への課税を免除するように、としている。近世になると年貢割付状や年貢皆済目録といった年貢算用の文書に「名主給」や「庄屋給」として○○石は除く、と一旦計上した上で免除するという方法がとられるのだが、石田三成の検地においては検地帳に記載しないことで給付としていたようだ。

 

10条でいう樹木は梅や柑橘類などと思われるが、これについてもどうも検地帳へ記載しないという方針だったようだ。

 

この二条から三成、あるいは秀吉の時代ではすべてを計算した上で控除するという方法ではなく、検地帳に記載するか否かで免除するという方針だったことが分かる。

 

 

大政奉還に関する新史料発見の報道によせて

13日に報道された大政奉還に関する新史料から、文書における敬意表現を見てみたい。

 

https://mainichi.jp/articles/20171014/k00/00m/040/045000c

 

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まず、右ページ1行目が「我」のたった1文字で改行されていることがわかる。これが、9月に話題になった光秀書状の解釈で重要な意味を持つとされる平出である。2行目の最初が「皇国時運」とあるように皇室への最上級の敬意を表したものである。前にも触れたが、明治憲法の前文では「皇祖」や「皇宗」など皇室に関わる場合はすべて平出表現を採用しているので、はじめて見た場合に戸惑ってしまう。

 

ただし、平出表現であるからといって、必ずしも高貴な人であるとは限らない。たとえば近世ではたかだか数百石の旗本に対しても百姓は平出表現をとることもあり、皇族、上級貴族、上級武士などと単純に判断はできない。

 

また右ページ最終行真ん中から下の部分に「聖断を仰き同心協力無 皇国を保護」とあるが、「皇国」の直前に一字分空白がある。これを闕字と呼び、やはり敬意表現のひとつである。

 

ここに見られるように、平出あるいは闕字には表記ゆれが見られ、また相対的な表現であるため、これだけである特定の地位を指すとはなかなか言い切れない。

 

なおここで便宜的に「ページ」と呼んだが、正確には「右の丁ウラ」とすべきであった。和装本は、和紙を縦に半分に折り、袋とじにして製本する。この袋とじにしたもの一つ一つを「丁」と呼び、右側を「オモテ」、左側を「ウラ」と呼ぶのが習わしである。たとえば「52丁オモテ」とか「3丁ウラ」とするのが本来の作法である。