日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正10年4月日知行所仕置定写

     定

①一、家中*1におゐて奉公人不寄上下、いとま不出に*2、かなたこなた*3へ罷出輩在之ハ、可加成敗条可申上事、付遣女*4同前事、

②一、知行遣候已前之*5領中つきの*6若党*7・小者*8いつかた*9に奉公仕候共、当給人*10違乱有間敷候、但田地事ハ給人次第可取上事((田地は給人の意のままに取り上げても構わない))、

③一、知行遣候以後*11、其在所*12之百姓他所へ相越ニおゐてハ曲事たるへし、いかやうニも給人任覚悟*13、其もの*14からめ*15取上可申事、

 五*16

④一、もとの在所へ於還住者、不可有違乱事、

 四

⑤一、此以後*17何々*18の百姓たりといふ共、前〻ゟ田地作候百性を此以後に者、めしつかふ*19へからさる事

右条〻、一柳市助*20・小の木清次*21・尾藤甚右衛門*22・戸田三郎四郎*23此四人として聞立*24有様ニ可申上候、もし他所ゟ於聞付者、四人之者可為曲事者也

   天正

    卯月 日            (発給人欠)

 (宛所欠)

                          「一、412号、127~128頁」

 

(書き下し文)

     定

一、家中において奉公人上下によらず、暇出ださずに、彼方此方へ罷り出ずる輩これあらば、成敗を加うるべきの条申し上ぐべきこと、付けたり遣女同前のこと、

一、知行遣わし候已前の領中付の若党・小者何方に奉公仕り候とも、当給人違乱あるまじく候、ただし田地のことは給人次第に取り上ぐべきこと、

一、知行遣わし候以後、その在所の百姓他所へ相越すにおいては曲事たるべし、如何様にも給人覚悟に任せ、その者搦め取り上げ申すべきこと、

 五

一、もとの在所へ還住するにおいては、違乱あるべからざること、

 四

一、これ以後何々の百姓たりというとも、前〻ゟ田地作り候百性をこれ以後には、召し使うべからざること、

右の条〻、一柳市助・小野木清次・尾藤甚右衛門・戸田三郎四郎、この四人として聞き立て有様に申し上ぐべく候、もし他所ゟ聞き付くるにおいては、四人の者曲事たるべきものなり、

(大意)

    定

一、家中において奉公人の身分の上下によらず、暇願いを主人に出さずにあちらこちらで雇い主を変える者がいれば成敗すべきであると報告しなさい。つけたり、遣女も同様のあつかいとする。

一、知行地を新たに与える以前の領内に住む若党・小者がどこへ奉公したとしても現在の給人は異議を申し立ててはならない。ただし、出奔した若党・小者の田地については給人の裁量で取り上げても構わない。

一、知行地を新たに与えたあとに、その領地内の百姓が他領へ出ることは曲事とする。処分は給人の裁量とする。

一、本来の郷村に還住する者については給人は異議を申し立ててはならない。

一、知行地を与えたあとに、誰それの百姓であると主張したとしても、以前から田地を耕作してきた百姓を今後使役してはならない。

 右の条々、一柳直末・小野木重次・尾藤知宣・戸田勝隆の四名として尋ねだし、ありのままに報告しなさい。もし横から聞き付けた場合は四名の者の責任とする。

本文書は受発給人を欠く写であるが、「四」、「五」など原本を写し取った際の正誤訂正の跡が見られるため、写すべき原本が存在した可能性が高い。秀吉の在地政策を示す貴重な文書であるが、残念ながら本文書のみしか伝わっていない憾みも残る。

 

毛利攻めにおいて新たに獲得した領地を家臣=給人に与える際の、在地支配のガイドライン的な文書と思われる。

 

①身分の上下にかかわらず奉公人が、主人に暇乞いをせずに勝手に雇い主を変える者がいたようでそれを禁じたものである。兵士の員数確保のためだろうか。

 

②新たに知行地を与えた給人と以前の領主に仕えていた若党・小者の雇用主替えをめぐってトラブルがあったらしい。若党・小者はより厚遇の雇い主を希望し、一方の給人たちは引き留めようとしたのであろう。秀吉は移動の自由を認めているが、そのさい田地の作職は取り上げても構わないとする。

 

③百姓については若党・小者と異なり移動の自由を禁じている。またその処分は給人の裁量に任せると定めている。

 

④ただし、移動しようとする百姓のうち還住する者については妨げてはならないとする。

 

⑤この文書発給以後、誰それの百姓であると主張しても、以前から田地を耕作している者を手作地で使役してはならないとする

 

この五箇条については一柳直末ら四名の責任としていることから、この時期の在地支配の吏僚的存在であったと考えられる。

 

注目すべきは、③と⑤で「百姓」と一括りにしている点で、有名な次の文書と好対照をなしている。

<参考史料>  

    条〻          三方郡之内

                    せくみ浦*25

    (中略)

一、おとな百姓として下作*26ニ申付、作あい*27を取候義無用ニ候、今まて作仕候百姓直納*28可仕事、

一、地下之おとな百姓、又はしやうくわん*29なとに、一時もひら之百姓つかわれましき事、

右所定置如件、

  天正十五年十月廿日             弾正少弼*30(花押)

                 

                 牧野信之助編『越前若狭古文書選』637~638頁

 図 若狭国三方郡世久見浦周辺図

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                   『日本歴史地名大系』福井県より作成

参考史料は「おとな百姓」や荘官など在地の有力者が「ひら之百姓」を使役して「作あい」を取ることを禁じている。つまり「作あい否定」=小農自立政策が読み取れるとされてきた。これとくらべると天正10年段階の秀吉は「百姓」の階層性に言及せず、給人手作地の百姓使役禁止など太閤検地の政策基調の萌芽が見られるものの、「作あい否定」のような明確な目標はまだ見えていないといえる。

*1:秀吉家臣全体

*2:暇乞いをせず

*3:彼方此方

*4:ケンジョ、「遣手」(ヤリテ)、「遣手婆」(ヤリテババ)ともいう。遊郭で遊女などを保護監督する者

*5:知行地を与える以前の

*6:「領知に附属する」の意か、以前の領主の領地内に住んでいた

*7:「侍」とも。武家奉公人のうち戦闘員

*8:武家奉公人のうち非戦闘員

*9:何方

*10:現在の給人、知行地を与えられた新しい領主

*11:知行地を与えてのちの

*12:知行地内の郷村

*13:給人=領主の差配に任せて

*14:

*15:

*16:本文書を写し取ったあとに順序を間違えたため「五」「四」と書き加えたものであろう

*17:この文書発給以後

*18:ドレドレ、誰それの・領主の

*19:召使、給人の手作地で百姓を使役することか

*20:直末

*21:小野木重次

*22:知宣

*23:勝隆

*24:聞き出す、尋ね出す

*25:若狭国三方郡世久見浦、図参照

*26:小作

*27:小作料

*28:直接納めることで「作あい」を取れないようにする

*29:荘官

*30:浅野長政

天正10年4月24日某宛羽柴秀吉書状

宗安*1相越候間、令啓候、我等事、備中之内へ令乱入、かわやか上城*2・すくもつか*3両城取巻、一人も不洩様ニ堀屏柵以下堅申付、従四方しより*4相責*5候、急度可為落去候、小早川*6従当陣取五十町西、幸山*7ニ居陣之由候、此方之者共、毎日幸山之山下迄相越、令放火候へ共、一人も不罷出候、両城討果次第、幸山を可取巻候、就其連々*8如堅約*9此節ニ候之条、御色立*10専一候、御一味中被仰談、可成程*11御行肝要候、此砌御手切なく候ハヽ、重平均ニ申付候上者、不入事候、海上事、塩飽・能島・来島*12人質を出し、城を相渡令一篇候、次東国之儀、甲州武田四郎*13被刎首、関東之事者不及申、奥州迄平均ニ被仰付、近日(闕字)上様*14被納御馬、則軈*15此表へ可被成(闕字)御動座旨候、然者従伯耆*16も御人数*17可被遣候条、急其表両口*18より可馳向事、不可有程候、早〻御色立不可有御由断候、恐〻謹言、

  卯月廿四日       秀吉(花押)

 (宛所欠)

 

(書き下し文)

宗安相越し候あいだ、啓せしめ候、我等こと、備中のうちへ乱入せしめ、かわやか上城・すくもつか両城取り巻き、一人も洩れざるように堀・屏・柵以下堅く申し付け、四方より仕寄相責め候、きっと落去たるべく候、小早川当陣取より五十町西、幸山に居陣のよしに候、この方の者ども、毎日幸山の山下まで相越し、令放火せしめ候えども、一人も罷り出でず候、両城討ち果たし次第、幸山を取り巻くべく候、それについて連々堅約のごとくこの節に候の条、御色立専一に候、御一味中仰せ談じられ、なるべきほど御てだて肝要に候、このみぎり御手切りなく候わば、かさねて平均に申し付け候うえは、入らざることに候、海上のこと、塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡し一篇せしめ候、次に東国の儀、甲州武田四郎首を刎ねられ、関東のことは申すに及ばず、奥州まで平均に仰せ付けられ、近日上様御馬納められ、すなわちやがてこの表へ御動座ならるべき旨に候、しからば伯耆口よりも御人数遣わさるべく候の条、きっとその表両口より馳せ向かうべきこと、程あるべからず候、早〻御色立御由断あるべからず候、恐〻謹言、

(大意)

 上原元祐が訪ねてきたので書面にてお伝えします。わたくしどもは備中に攻め入り、宮路山・冠山両城を包囲し、一人も抜け出られないように堀・屏・柵をつくるよう命じ、四方から仕寄を使い攻めています。必ず落城することでしょう。小早川隆景は西50町ほどのところ、幸山城に陣を構えているそうです。当方は毎日幸山城下まで出、放火しているのですが、一人も燻し出されてきません。宮路山・冠山両城を落とし次第、全軍で幸山城を包囲します。それについてはお約束のようにこの時がその時ですので、準備万端御心得下さい。お仲間のあいだでよくよくご相談の上、できるだけの策略を講じることが重要です。この際に毛利方と縁をお切りになっていなければ、ふたたび実力によって制圧するよう命じましたので、縁を保つことは不要なことです。瀬戸内海については、塩飽・能島・来島からはすでに人質を差し出し、城を明け渡し、織田軍に下っています。次に東国では武田勝頼は首を刎ねられ、関東(北条氏)はもちろん奥州まで制圧されると信長様からの下知があり、近々上様みずから出馬され、こちらへ赴くとのことです。そうすれば伯耆口からも軍勢を遣わされますので、こちらと両方向からそちらへ攻め入るのもまもなくのことです。早々に準備され、油断のないようにしてください。謹んで申し上げました。

 図 備前・備中境目七城

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                   『日本歴史地名大系』「岡山県」より作成

宛所を欠いているものの、毛利方の国人上原元祐を使者として送ってきた文書への返書と思われる。文面から織田方へ離反すべく説得する一方、実力行使もちらつかせている。

 

ここで興味深いのは下線部である。武田勝頼はすでに首を刎ねているので「東国」は制圧しており、「関東」はもちろん「奥州」まで織田方の下知に従っていると述べているがもちろんはったりである。

 

*1:上原元祐、備後国人で毛利方として日幡城に籠もる

*2:備中国宮路山城

*3:備中国冠山城

*4:仕寄、城などに攻め寄せること。またその際に用いる竹を束ねて作った楯

*5:

*6:隆景

*7:備中国

*8:連なる、しだいしだいに

*9:ケンヤク、堅い約束

*10:イロメキダツ、興奮・緊張した様子

*11:できるだけ

*12:402~405号によれば軍門に降るよう工作している

*13:甲斐国武田勝頼

*14:織田信長

*15:ヤガテ、すぐに

*16:伯耆国から備中へ到る道

*17:「御」がついているので信長の軍勢

*18:秀吉軍と信長本隊の寄せ手

天正9年11月4日宮部継潤宛羽柴秀吉国之掟覚

    国之掟覚

一、鬼か城*1木下平大夫*2物主*3ニ相定候、然者八東郡自分*4ニ遣之、知頭郡*5を磯部*6八木*7両人ニ半分ちわり*8、鬮取ニいたさるへく候、右両人を平大夫ニ相付候間*9、其方先備*10ニ被相定、弟子同前ニ可有覚悟*11事、

一、垣屋平右衛門尉*12ニ巨能郡*13遣之条、亀井新十郎*14一そなへ*15被相定、其方*16先手*17ニ備之儀可在之事*18

一、亀井新十郎本国*19へ帰国候間ハ、鹿野郡*20申付候間、垣屋平右衛門尉一備ニ相定、其方先手ニ備儀可在之事、

一、山名殿*21・禅高*22御両人之儀者、其方覚悟次第ニ何方を以成共、御知行被相定*23*24有馳走、そなへ之儀、其方きわ*25ニ可然事、

一、美含郡*26天正十年とし*27之儀者、鳥取廻不作も*28過半可在之かと秀吉分別いたし*29、右之一年之儀者*30、其方へ遣候間、給人不付ニ兵粮以下可被覚悟事*31

一、国之百姓ニ種籾作食*32三千石かし*33候、米ニ相定候間*34、一和利ニ*35相定*36かし可被申候事、

一、多賀備中、吉岡*37ニ可被置候、吉岡ニ在之籾を千俵遣候、但ニ(ママ)米ニつもつて*38かわり*39を被出、此籾ハ種もミニ百姓二可被借遣事*40

   以上、

               筑前

 天正九年十一月四日        秀吉(花押)

     善浄坊*41

 

                                 「一、351号、110~111頁」

 

(書き下し文)

      国の掟覚
一、鬼か城木下平大夫物主に相定め候、しからば八東郡自分にこれを遣し、知頭郡を磯部と八木両人に半分地割り、鬮取に致さるべく候、右両人を平大夫に相付け候あいだ、其方先備に相定められ、弟子同前に覚悟あるべきこと、
一、垣屋平右衛門尉に巨能郡これを遣すの条、亀井新十郎一備相定められ、其方先手に備の儀これあるべきこと、
一、亀井新十郎本国へ帰国候あいだは、鹿野郡申し付け候あいだ、垣屋平右衛門尉と一備に相定め、其方先手に備の儀これあるべきこと、
一、山名殿・禅高御両人の儀は、其方覚悟次第に何方をもってなるとも、御知行相定められ、馳走あるべく備の儀、其方際にしかるべきこと、
一、美含郡天正十年歳の儀は、鳥取廻り不作も過半これあるべきかと秀吉分別いたし、右の一年の儀は、其方へ遣し候あいだ、給人付けずに兵粮以下覚悟せらるべきこと、
一、国の百姓に種籾・作食三千石借し候、米に相定め候あいだ、一割に相定め借し申さるべく候こと、
一、多賀備中、吉岡に置かるべく候、吉岡にこれある籾を千俵遣し候、ただし米に積もって替りを出だされ、この籾は種籾に百姓に借し遣さるべきこと、
   以上、

(大意)

 

    国分に際しての掟書

一、若桜鬼ヶ城の城主を荒木重堅とするので、彼に因幡八東郡を与える。智頭郡を磯部康氏と八木豊信両名で折半し、くじ引きで知行地を定める。磯部・八木を重堅の寄子とするので、継潤は「先備」とし彼らを弟子同様に面倒を見ること。

一、垣屋光政に因幡国巨能郡を与えるので、茲矩と光政を「一備」とし、継潤が「先備」としてつとめること。

一、茲矩が因幡国へ戻るので、鹿野城主とする。光政とともに「一備」とするので継潤が「先備」をつとめること。

一、山名暁煕殿・豊国御両人は、継潤の裁量でどこにでも知行地を定め、奔走できるように継潤の判断で「備」に組み入れること。

一、但馬国美含郡の来年天正10年の実り具合は、鳥取城周辺も不作である田畠が大半なので同様であろうと判断し、同年の籾を継潤に与えるので、給人に配らず兵粮などとして継潤が差配すること。

一、因幡国の百姓に種籾・作食三千石を貸し与えるように。ただし玄米で量ったものとし、利率は1割と定めて貸し与えること。

一、多賀備中を高草郡吉岡庄に配置するので、吉岡に備蓄している籾千俵を与える。ただし玄米で量って千俵とし、これは種籾に用途を限定して百姓に貸し与えること。

 

 

 図1 但馬国美含郡

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                    『国史大辞典』「但馬国」より作成

図2 因幡国  

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                    『国史大辞典』「因幡国」より作成

全7ヶ条のうち、前半4ヶ条は秀吉与力または家臣への知行割、後半3ヶ条が勧農に関するものである。

 

「先備」と「一備」については先陣と本陣の第一陣と解釈してみた。「先」には「上位の」という意味もあるので、「先備」ー「一備」は平時においても寄親・寄子関係として機能していたのかも知れない。

 

*1:若桜鬼ヶ城因幡国八東郡

*2:荒木/木下重堅

*3:部隊の長

*4:重堅

*5:因幡国智頭郡

*6:康氏

*7:豊信

*8:「地割」、知行割

*9:磯部・八木両名を荒木重堅の与力とするので

*10:先陣

*11:配慮する、弟子同様に面倒を見よの意

*12:光政

*13:因幡国巨濃郡、のちの岩井郡

*14:茲矩

*15:「備」、本陣の第一陣カ

*16:継潤

*17:先陣

*18:垣屋光政・亀井茲矩を宮部継潤の与力とする

*19:因幡国

*20:鹿野城、気多郡

*21:暁煕

*22:山名豊国

*23:継潤の裁量で山名暁煕・豊国両名の知行を与え。「御」がつくのは「山名殿」と呼応

*24:「可」脱カ

*25:「際」、継潤の裁量で

*26:但馬国。美組郡とも

*27:「歳/年」、穀物、とくに稲の実り具合。翌天正10年の実り具合

*28:鳥取城周辺は作付できない。「不作」の原因は災害や戦乱などさまざま。ここでは鳥取城攻めにおいて田畠が踏み荒らされたり、百姓が戦乱を避け逃散したことなどによる。天正9年5月19日重富新五郎宛吉川経家書状にも「当国借(錯)乱につきて作などの儀大分仕らず候て相見え候」(『別集吉川家文書』143号)とあり、戦乱により耕作ができないと経家も認識していたようだ

*29:過半の郷村が作付できないだろうから、但馬国美含郡も同様だろうと思慮した

*30:天正10年分の作付用稲

*31:給人に直接稲を渡さずに、継潤が兵粮として差配するように

*32:翌年苗代に播種するための籾と食用の米

*33:「借」、貸し付ける

*34:「稲」から籾殻を取り去った状態を「玄米」、さらに精白して「精米」=白米になる。ドラマでおなじみの、一升瓶に米を入れて棒で搗くシーンは玄米を精白する作業。稲→玄米→精米の順に体積・重量が小さくなるので、あらかじめ「米」で換算してと指定している。ここでは「種籾作食三千石」は玄米で量ると三千石の意

*35:「割」、利率1割

*36:利足の上限をあらかじめ1割に定めて

*37:因幡国高草郡吉岡庄

*38:積もって、玄米で見積もって

*39:替。引替える品、ここでは籾

*40:この籾は食用にせず、種籾として貸し付けること。食べてしまわないように用途を限定している

*41:宮部継潤

天正9年9月前野将右衛門外宛羽柴秀吉書状

     尚以*1さしあたる*2用無*3候、毎日其方之儀、可被申越候、自此方も可申

  遣候、昨日従此方飛札遣候つるかり田、一ヶツヽニねんを入、新十郎*4請取*5

  られもちて可被帰候、

御状令披見候、誠長々普請*6くたひれたるへく候条、其元へ差遣事、一入*7笑止*8ニ候つれ共、既其方手前*9儀候条遣候也、打続辛労無是非候、然ニ苅田*10并普請被申付候由尤候、最前ハ中二日□□(逗留)候て、両条*11堅申付被帰候へと申候へ共、苅田も取逃*12[   ]、又普請なとも不出来*13候者、中三日程も逗留候て、近辺苅田不残申付、普請等儀、丈夫*14ニ念を入被申付、可被帰候、次被帰候刻、さして用心*15も入間敷候条、自身馬之上ニ道具*16を□□、中間小者*17ニハ、苅田をさせ候てもたせ*18、面々こし*19兵粮*20ニもさせらるへく候、又其元近辺、敵陣取候ハんとする山々在所并従此方人数いたし候はん所之道すからとも[        ]可被帰候、恐々謹言、

                筑前

    九月□日           秀吉(花押)

    前 将右*21

   [     ]

   [     ]

   [     ]

 

                          「一、346号、108~109頁」

(書き下し文)

御状披見せしめ候、誠に長々普請くたびれたるべく候条、其元へ差し遣わすこと、一入笑止にそうらいつれども、すでに其方手前儀に候条遣し候なり、打ち続く辛労是非なく候、しかるに苅田ならびに普請申し付けられ候由もっともに候、最前は中二日逗留候て、両条堅く申し付け帰られ候へと申しそうらえども、苅田も取り逃し[   ]、また普請なども出来せずそうらわば、中三日ほども逗留候て、近辺苅田残らず申し付け、普請などの儀、丈夫に念を入れ申し付けられ、帰らるべく候、次に帰られ候きざみ、さして用心も入るまじく候条、自身馬の上に道具を…、中間・小者には、苅田をさせ候て持たせ、面々*22腰兵粮にもさせらるべく候、また其元近辺、敵陣取りそうらわんとする山々在所ならびに此方より人数いたしそうらわんところの道すからとも[        ]帰らるべく候、恐々謹言、

 

なおもってさしあたる用無しに候、毎日其方の儀、申し越さるべく候、此方よりも申し遣わすべく候、昨日此方より飛札遣わし候つる苅田、一ヶずつに念を入れ、新十郎請取取られ持て帰らるべく候、

(大意)

 お手紙拝見しました。実に長期にわたっての普請、さぞお疲れのことでしょう。さて苅田および普請を命じられたとのこと、もっともなことです。当初は中二日逗留し、この二点を厳命し、お帰り下さいと申しましたが、苅田もできず…また普請なども完成しなければ、中三日とどまり、近所の苅田を残らず命じ、確実に普請を終えるよう命じて、お帰り下さい。二点目。お帰りのときは、たいした用心も必要ではありませんので、馬上に鎗を…(「鎗をみずから持たず、馬にでも乗せて」の意か)。中間・小者に刈り取った稲穂を持たせ、おのおのの腰兵粮にあてて下さい。三点目。貴殿の近辺で敵が陣取ろうとする山々や郷村、さらにはこちらより派兵しようとする途上にて…お帰り下さい。謹んで申し上げました。

 

当面こちらは手隙ですので、貴殿らの報告は毎日して下さい。こちらからも連絡します(密に取ります)。昨日こちらより書状をお送りした苅田のことですが、一ヶ所ずつ入念に行い、新十郎に刈り取った稲穂を渡したならば請取状をお取りになり、大切に持ってお帰り下さい。

 

 本文書では城攻めのための普請と兵粮確保のための苅田の二点について、最前線にいると思われる前野長康らに送った書状とみられる。前野以外に数名の名前が記されていたが破損が著しいのが悔やまれる。中近世移行期の苅田についてパターン別に見ておきたい。

1.敵の兵粮を断つ目的で行われる「稲薙」(青田のうちに苅ってしまう)


永禄13年7月吉川元春小早川隆景、出雲高瀬城周辺の稲を刈る 「大日本史料」元亀1年7月27日条
「雲州表の儀、来たる十六日稲薙申し付け候」
「爰元のこと、高瀬山下稲薙申し付け候」
「爰元*23稲薙残るところなく申し付け候」
「雲州動きの儀、高瀬表は稲大概薙ぎ捨つるのよしに候」

 

2.自陣の食糧を確保するために行う「苅田


天正12年9月1日、5日 「大日本史料」同年9月1日条
徳川家康家臣松平家忠尾張国丹羽郡楽田にて苅田を行う

  

3.飢えに耐えきれず他国で苅田を行う百姓


寛永13年8月22日有馬直純宛細川忠興書状「細川家史料」3179号
飢饉につき日向・薩摩・肥後国境にて百姓が苅田を行う
貴様*24御国境*25肥後の者*26多分*27盗み仕るべく候、かようの刻みは如何様に法度申し付け候とても、餲え*28候ものには法度は立てざるものにて候*29、見ながら是非なきことどもにて候こと*30

 

 

苅田および苅田狼藉については以下を参照されたい。

www.jstage.jst.go.jp

 

 

秀吉の兵粮確保について言及した文献は以下の通りである。(順不同)

hdl.handle.net

盛本昌広『増補新版 戦国合戦の舞台裏』(洋泉社、2016年)

小林一岳・則竹雄一編『戦争Ⅰ 中世戦争論の現在』(青木書店、2004年)

 

 

*1:いっそう

*2:今のところ、当面

*3:ヨウナシ、暇なこと

*4:亀井茲矩

*5:請取状、領収書・レシート

*6:城攻めのための普請

*7:ヒトシオ、いっそう

*8:苦労

*9:落手した、すでに秀吉よりの見舞いの書状を受け取っていること

*10:稲穂を刈り取ること、兵粮の現地調達

*11:普請と苅田のこと

*12:「他人のものを奪って逃げる」という意味もあるが、ここでは単に「取りうるものをみすみす他に取られる」、「取り損なう」の意

*13:シュッタイ、できあがる・完成する

*14:確実に

*15:前野らが苅田・普請に出ている最前線と秀吉の本陣の道中に敵兵、伏兵などに備えることか

*16:武具、とくに鎗

*17:武家奉公人のうち非戦闘員として戦場へ徴発された者

*18:持たせ

*19:

*20:「腰兵粮」は当座のために携行する兵粮

*21:前野将右衛門長康、織田信長のち秀吉家臣

*22:対等または目下の者に対する二人称、「みんな」

*23:高瀬

*24:有馬直純

*25:有馬領日向国諸県郡

*26:細川領肥後国の百姓

*27:大勢

*28:カツエ

*29:飢えている者に法は無意味です

*30:見ていながらも手出しできないことでしょう

天正8年8月6日正直屋安右衛門尉宛羽柴秀吉判物

於明石郡*1借々*2付分之事、遂元利算用可召置*3候、其方儀者別而従前辺懸目候間*4、向後徳政判形*5遣候共、令免除上者*6、無異儀可召置候、質物*7同前也、

   天正八             藤吉郎

    八月六日             秀吉(花押)

      正直屋安右衛門尉

                         「一、258号、84頁」

(書き下し文)

明石郡において借り借し付け分のこと、元利算用を遂げ召し置くべく候、そのほう儀は別して前辺より目に懸け候あいだ、向後徳政判形遣わし候とも、免除せしむるうえは、異儀なく召し置くべく候、質物同前なり、

(大意)

 明石郡において貸し借りした分は、元利を計算した上でそのままの状態を保ちなさい。貴殿は従来より徳政免除を認められているので、今後徳政令が発せられても免除するのでそのままにしておくように。質草についても同様に対象外とする。

 図 播磨国明石郡周辺国郡

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                    『国史大辞典』「播磨国」より作成

正直屋は摂津国八部郡兵庫津の棰井家で、徳政免除の特権は三好長慶弟の安宅冬康書下や室町幕府奉行人連署下知状などによって確認できる*8。またのちに秀吉から兵庫津船役銭や兵庫町地子銭の徴収を任され、22石あまりの領知判物も下されている*9。領知を与えられているので秀吉の被官であることを意味している。

 

本文書は徳政免除の効力を明石郡のみに限定し、その他の地域からの貸借関係はその限りにあらずということを棰井家に伝えたものといえる。

*1:播磨国、図参照

*2:借り貸し

*3:そのままにしておく、載せて置いて。ここでは貸借関係を破棄しないでそのままの状態を保つの意

*4:三好長慶弟の安宅冬康や室町幕府奉行人が認めた徳政免除の特権

*5:書判・花押、ここでは花押の据えてある文書=判物

*6:徳政を命ずる文書が発せられても正直屋の借銭・質物は対象外とする

*7:質に入れる物、多くは土地

*8:兵庫県史 史料編 中世一』「棰井家文書」37~39頁

*9:同39~46頁