日本史史料を読むブログ 

日本中近世史史料講読で可をとろう

戊辰戦争のひとこま 慶應・明治初年の絵図

福島県歴史資料館の「新公開史料展」に興味深い2点の絵図がある。

www.history.fcp.or.jp

http://www.history.fcp.or.jp/2017/shinkoukai.pdf

 

絵図1.慶應4年7月

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「御台場」の「御」は幕府への敬意を込めた表現で幕府直轄地の代官を「御代官」と呼ぶように、幕府の砲台=「台場」を「御台場」と呼ぶ。現在東京の地名になっている「お台場」は、もともと諸外国への対策として江戸湾に人工の島をつくり砲台とした呼称を引き継いだものである。

 

絵図2.明治初年

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福島県の成立は明治2年7月20日なので、絵図2はそれ以降に作成されたことになる。

 

明治に入ると新しい村役人として「村長」「副村長」が置かれたことがわかる。ただ、絵図1の「名主五兵衛」がそのまま絵図2の「村長佐藤五兵衛」に横滑りしていることから、慶応年間の体制をそのまま引き継いだと思われる。また「百姓代」という旧来の役職名をそのまま使用している。

 

絵図2で黄色に塗られたところを年貢免除地とし、赤に塗られた土地のみ年貢を負担すべきとしている。ただ、絵図は地図と異なり、縮尺は一様でないので、年貢地を全体の4分の1程度と即断することはできない。

 

以上2点の絵図から、戊辰戦争後に「村長・副村長」といった新しい呼称が見られるものの、事実上幕府時代のシステムと変わらない村々の姿が見て取れよう。

料紙の色について 調所広郷血判状は書かれたときから赤茶色だったか?  「西郷どん(3)」

「西郷どん」第3回で竜雷太演ずる調所広郷が自害にあたって、清国との密貿易および琉球派兵の件はすべて自分の責めであると書き残す場面があった。

 

さてわれわれは現時点で、経年劣化した赤茶けた文書を当たり前のように目にする。しかし、使用する当時からあんな色だったのか、白ではないのか、と思いついて調べてみると、以下のような論文がヒットした。

ci.nii.ac.jp

id.nii.ac.jp

やはり、使用する時点では白が妥当なようだ。

嘉永元年12月19日阿部正弘宛調所広郷血判状を読む 「西郷どん #3」

此度御家ヲ奉斯候上

清国ト密貿易仕候事

琉球派兵ノ一件軍

勢ノ数ヲ奉偽候事

全テ独断ニ而取行候ニ付

御詫申上候モ行届間

敷事ニ御座候故

以一死大罪ヲ奉謝候

十二月十九日

   調所笑左衛門広郷(血判)

阿部伊勢守正弘様

 

(書き下し文)

このたび御家をかかりたてまつり候うえ、清国と密貿易つかまつり候こと、また琉球派兵の一件、軍勢の数をいつわりたてまつり候こと、すべて独断にて取り行ない候につきおわび申し上げ候も行き届きまじきことにござ候ゆえ、一死をもって大罪を謝したてまつり候

 

 

*御家ヲ奉斯候上:島津家に対してこのような大事を起こしてしまったうえ

 

なお調所広郷について「維新史料綱要データベース」を選び、「調所広郷」で検索すると、さまざまな史料がヒットする。上記血判状は見つからなかった。

 

一言注文をつければ宛名は「阿部伊勢守」で止めておいた方がより本物に見えると思う。ただ視聴者に対して「正弘」まで入れる方がより親切なのだろう。再現性や時代性を重んじすぎると不親切だし、諱まで書くとなんだか胡散臭く見えるから不思議だ。

 

東京大学史料編纂所データベース選択画面 

【データベース選択画面】

 

http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller

 

ちなみに、数万両レベルになると、千両箱十数箱に及ぶらしい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

安永7年7月蝦夷地奉行定

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www.hokkaido-np.co.jp

 

 

      定

一、御舟登候跡ニ而打遁口論致間鋪候事、

一、運上小家火之許大切可為用心事、

一、松前他国不限流船等支配之場所江流着候ハヽ早速夷船摘出舟頭水主どもニ右之書附相見セ候上ニ而可為介抱事、

一、右流人村々欠(=次:継紙の貼付面により不明瞭)送りにいたし早速松前表迄送届ケ可申事、

右之條々津々浦々まで堅可相守者也、万一於相背者急度可行御法者也、仍而如件、

                     蝦夷

  安永七戊戌年               奉行

     七月日

                          めつ金殿

                            しよんごおとな

(書き下し文)

   

ひとつ、  御舟登り候あとにて打ち遁がれ口論いたすまじく候こと、

ひとつ、  運上小屋、火もと大切に用心たるべきこと、

ひとつ、  松前・他国にかぎらず流船など支配の場所へ流れ着き候はば、早速夷船摘まみ出し舟頭・水主どもに右の書附あい見せ候うえにて介抱なすべきこと

ひとつ、  右流人、村々継ぎ送りにいたし早速松前表まで送り届け申すべきこと、

右の條々、津々浦々までかたくあい守るべきものなり、万一あい背くにおいては急度御法行わるべきものなり、よってくだんのごとし、

 

 

*運上小家(=屋):蝦夷地の支配役所。

*支配の場所:蝦夷地奉行の管轄内

*夷船:外国、とくに西洋の船。

*摘出:乱暴に取り除くこと。

*介抱:ここでは怪我人などを助けるという通常の意だが、幕府の蝦夷交易のことも「介抱」という。御救交易ともいう。蝦夷を介抱するという意味であるが、実際には与えるところが少なく、得るところが大だったという。(日本国語大辞典

*村々次送り:駅伝のように村ごとに報告すること。

*御法行わる:法度通り処分する。

* おとな:「乙名」有力者。

 

蝦夷地奉行」という役職は享和年間の成立とされているので、この「蝦夷地 奉行」を蝦夷地奉行という役職ととるか、「蝦夷地を管掌する奉行」という意味かの判断は措くとする。

 

東京大学史料編纂所データベース「大日本史料総合データベース」に

以下の記述がある。

享和2年2月23日2条
【綱文】 幕府蝦夷地用掛立花種周・松平忠明・石川忠房、罷む、小納戸頭取戸川安倫・目付羽太正養を以て、蝦夷奉行と為す、尋て改て箱館奉行と称す、

 

内務省地方局有志編纂『田園都市』のはじめを数行読む 「ブラタモリ#96 田園調布」

 

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ブラタモリ #96 田園都市 とびら


この書籍は以下からダウンロードできる。

国立国会図書館デジタルコレクション - 田園都市

 

はじめの数行だけ読んでみる。というのも踊り字の「二の字点」が用いられているからだ。踊り字の画像はこちら。

http://www.sanseido.biz/DispRes.aspx?fi=d82f1904-583a-423f-8318-74cad01cc734

 

近頃欧米の諸国にあっては、都市改良の問題、農村興進の問題などの年をおうて、ますます(原文では「益」と「二の字点」)そのしげきを加うるものあり、都市と農村につき、おのおの(原文では「各」と「二の字点」)その長をとりて、その短をおぎない、さらに加うるに最新の施設をもってして自然の美と人口の精を調和し、健全醇美の楽郷を造らんとして、ことにその意を用いざるなし。いわゆる田園都市」「花園農村」といい、もしくは「新都市」「新農村」というは、すなわちこれが理想を代表するものたり。その名はあいことなれりといえども、これが最終の帰趣とするところや、実に同胞のたがいに一致戮力して、ひとしく誠実勤労の美徳を積み、協同推譲の美風をなして、隣保相互の福利を進め、市邑全般の繁殖を著しくして、広く人を済(すく)い、世を益せんとするにあり。これ田園都市花園農村の首倡者がつとに世に声(以下略)

 

 

*帰趣:ものごとの終わり。もともとは仏教用語

*戮力:「りくりょく」協力して。「戮」という字は「殺戮」のように「ころす」の意味のほかに「たがいに」「あわせて」の意味がある。

*推譲:「すいじょう」他人を推薦して、自分は譲ること。

*市邑:「しゆう」都会。「邑」の読みは「みやこ、まち、むら、ユウ」。

*首倡:首唱とも書く。最初の提唱者。

*つとに:「夙に」本来は「むかしから」の意だが、最近「とくに」のような単なる強調の意味合いで使う人も目立つので注意したい。

英雄たちの選択 秀吉VS“山城”スペシャル 第1夜「激突!小田原の陣」にて紹介された史料を読む

史料1 天正15年11月8日桑原百姓宛北条氏朱印状

 

人足壱人御倩(=請)以鍬箕を持

来、十二日山中へ集中十日

可致普請、賃永楽六十文

本田兵衛太夫前より可

請取候者也、仍如件、

 丁亥

  十一月八日(朱印)

    桒原

     百姓中

 

(書き下し文)

人足一人御請けをもって鍬、箕を持ち来たり、十二日山中へ集まり中十日普請いたすべし、賃は永楽六十文本田兵衛太夫前より請け取るべく候ものなり、よってくだんのごとし、

 

*賃永楽六十文:賃金は永楽銭で60文。鐚銭4枚で永楽銭1枚という交換比率。永楽銭の通用が禁じられるのは慶長年間。

 

*本田兵衛太夫前:松田康長の被官?「小代官」か?

 ただし黒田基樹氏の作られた一覧表には見えない。

ci.nii.ac.jp

 

*丁亥:天正15年

 

*桒原:相模国足柄上郡桑原郷(現小田原市)か伊豆国田方郡桑原村(現静岡県函南町)か?

 

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 Google Mapsより作成

 

史料2 「渡辺水庵覚書」

 

  渡辺水庵(了)についての「名将言行録」での記述はこちら

259コマ目から265コマ目まで

国立国会図書館デジタルコレクション - 名将言行録. 前編 下巻

 

 

高きつくへ乗上見申候

  *つくへ:脚付きの台

 

城中之鉄炮を不残一度につるへ、同しくときをとつと上ケ申候、

 

 *とき:鬨の声

 *とつと:「どっと」唐突に、突然に

 

 五六十も鉄炮手負死生(死傷)之者にて

  

其段せはく候へハ敵味方上か上へ重り北と西との角城へ過半なたれ矢くらの段も落居と事候(虫損)、

  

  *せはく:せまく

  

 

史料3 石田三成書状(新編会津風土記

 

北条御成敗議定候間、

其直ニ黒河江被成御籠

政宗可被作刎首ニ落

着候

 

*御成敗議定候間:北条氏の負けは必定なので

 

*御籠入:駕籠に乗って黒河へ入ることで「御」がついていることから秀吉の奥州入りの意。

 

(書き下し文)

北条御成敗の儀さだまり候あいだ、そのすぐに黒河へ御籠いれ、政宗首を刎ねなさるべく落着候

 

 

 

昭和15年9月12日外務大臣松岡洋右宛在ハンブルク総領事川村博発機密第71号

北の丸公園前に国立公文書館がある。以前は20歳以上でないと入館できなかったが、現在はインターネットで年齢にかかわらずさまざま文書が読める。

 

利用案内の一部を引用してみよう。

 

閲覧室に持ち込めないもの

 

  • 閲覧室には、次のものは、持ち込めません(コインロッカーをご利用ください)。
  • 医療上その他の理由により持ち込む必要がある場合は、お申し出ください。
  • (中略)
  • (3) コピー機、スキャナその他の特定歴史公文書等に密着させて複写等を行う機器
  • (4) 刃物類(はさみ、カッター、かみそりの刃等)
  • (5) 傘
  • (6) 動植物
  • (7) 飲食物
  • (8) その他、館が、特定歴史公文書等の保存、館内の保全、良好な利用環境の維持等のため特に持込みを不適当と判断したもの

全面的禁止事項

 

  • 閲覧室では、次の行為を行わないでください。
  • (中略)
  • (4) 飲食及び喫煙
  • (5) 閲覧室出入口以外の場所から出入りしようとする行為
  • なお、館内で飲食する場合は、休憩室で行ってください。

 

特定歴史公文書等の取扱い

 

  • 特定歴史公文書等を利用する際は、次の事項を遵守してください。
  • (1) 特定歴史公文書等を閲覧室内の所定の場所で利用すること。
  • (2) 特定歴史公文書等を丁寧に取り扱うこと(手に持たず机に置いて利用する折り曲げない、無理に開かない、綴じを緩めたり外したりしない、書き込みをしない、指先を濡らしてページをめくらない、上から直接筆写しない等)。
  • (3) 特定歴史公文書等の中の頁等を抜き取る、切り取る、破り取る等の行為をしないこと。
  • (4) 筆記は、鉛筆又はシャープペンシルで行い、特定歴史公文書等を置く机の上に万年筆、ボールペン、蛍光ペン等を置かないこと。
  • (5) 特定歴史公文書等を閲覧室の外に持ち出さないこと。
  • (6) 特定歴史公文書等を返却するまでの間、十分に注意して管理すること。
  • (7) 特定歴史公文書等の利用中に一時的に閲覧室を離れる場合は、その旨職員に申し出ること。

 

閲覧室のご利用案内:国立公文書館

 

これらの注意は古文書の現物を取り扱う授業などの最初に、先生からこんこんと言い含められ、調査合宿時も繰り返し注意される。

 

 

そこで紹介されているのがこちら。

https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p14.html

 

https://www.jacar.go.jp/modernjapan/images/p14/p08L.jpg

 

https://www.jacar.go.jp/modernjapan/images/p14/p08.jpg

  

無国籍「ワルテル・イスラエル・カスパー」の本邦通過願い出でに関する件

本年七月十一日附米三機密第一二号貴信に関し本件「ワルテル・イスラエル・カスパー」はドイツ系ユダヤ無国籍人と認めらるるところ(見せ消ち)、同人旅券写中には本年四月十日付在当地「ハイチ」総領事賦与にかかる「ハイチ」入国査証(写九頁)および同日付在当地「パナマ」総領事賦与の通過査証(写一〇頁)も取り付けておるにつき、ひとえに本邦を通過せしむるには形式上なんら差し支えこれなきものと存せらるも、この種事件は当国の「チェッコ」および「ポーランド」征服以来とみに増加し、その応答にはてこおどりおる次第なり、

  *「てこおどり」:慌てる

一方関係筋より仄聞するに中南米その他小国の領事・総領事中にはかかる避難民の窮状を利用し、手数料のほか多額の贈与を要求して通過ないし入国査証を賦与しおるありさまにして、その要求額は一件につきドイツ300マルクより900マルクにいたるとのことなり、

  *当時は「ライヒスマルク」(Reichsmark)。英語では「Reich」を第三帝国と訳すが、ふつうは「国」という意味で,オーストリアはドイツ語で「Österreich:エスターライヒ=東の国」と呼ぶ。

しかしてその中には本国の諒解を得ずして濫発するいわゆる空査証(Scheinvisum)もあり、したがってかかる査証の所有者はその入国拒絶せられ、これによりたとえば「パナマ」のごとき通過国においては多大の迷惑をこうむりおるよしなり、

 

  *Scheinvisum:scheinは「見せかけだけの、形だけの」、Visumは中性名詞で「査証」。ドイツ語ではKranke=患者、Haus =建物とあわせてKrankenhaus=病院となるような造語が多く、Scheinvisumも辞書には見られないが、外務省でそういった呼び方がされていたようだ。

 

みぎ空査証は一見無意味なるがごときもユダヤ人中にはもちろん無効なることを承知し、ただ通過諸国の通過査証を得んがための形式条件として、一小国の入国査証を得、途中好機会あればただちに爾余の旅行は放棄し、どこにても座り込む下心なるがゆえ、その意味において本空査証は出す方においても合意の上のことなるべし、

 

 * 座り込む:定住するの意か。

 *その意味において本空査証は出す方においても合意の上のことなる

  べし:そういった事情を知った上で現地駐在員は空査証を発行して

  いるに違いない。

昭和15年1月11日外務大臣野村吉三郎宛在カウナス領事代理杉原千畝発機密第十四号文書を読む

杉原千畝」で検索すると公開されている文書が読める。

www.jacar.archives.go.jp

 

これを今回読んでみる。ただし人事課長などの決裁印は省略した。

 

機密第十四号(見せ消ち)        

              昭和十五年一月十一日

                  在「カウナス

                  領事代理 杉原千畝(印)

外務大臣 野村吉三郎殿

  管内「ウィルノ」定期出張許可方稟議ノ件

当館(ママ)「ウィルノ」及其以東方面ニ対スル情報蒐集工作ニ付テハ客年十一月十一日附機密第十八号絶信中ニモ申進メ置キタル通、本官ニ於テ「ウィルノ」諜者トノ連絡ヲ円滑並徹底セシムル為同地ニ定期的ニ出張スルノ必要痛感セラレ、依テ今後館務ノ都合ヲ見計ヒ出来得レハ毎月一回乃至二回定期出張(「カウナス」・「ウィルノ」間往復汽車賃「り」貨参拾壱「リット」六拾仙、旅程ハ日帰り又ハ一泊)致度処、其都度前以テ稟請ノ上御許可ヲ仰ク場合ハ先方ト会合ノ機ヲ逸スルコトモアルヘキ等、種々ノ支障ヲ生スヘキ儀ニ付、尓今ニ対スル本件定期出張方御詮議ノ上御許可相成度、此段稟請ス、

  追而 本件御許可ノ場合ハ其旨御電報相成様致度

 

 

(書き下し文)

   管内ウィルノ定期出張許可方稟議の件

当管ウィルノおよびそれ以東方面に対する情報収集工作については、客年十一月十一日づけ機密第十八号絶信中にも申し進めおきたるとおり、本官においてウィルノ諜者との連絡を円滑ならびに徹底せしむるため、同地に定期的に出張するの必要痛感せられ、よって今後館務の都合を見はからいできうれば毎月一回ないし二回定期出張(「カウナス」・「ウィルノ」間往復汽車賃「り」貨三十一リタス六十ツェンタス、旅程は日帰りまたは一泊)いたしたきところ、そのつど前もって稟請のうえ、ご許可をあおぐ場合は先方と会合の機を逸することもあるべきなど、種々の支障を生ずべき儀につき、自今に対する本件定期出張がたご詮議のうえ、ご許可あいなりたく、この段稟請す、

  追って 本件ご許可の場合はその旨ご電報あいなるよういたしたし、

:この部分のみ墨書でほかはペン書きと思われる。在ラトヴィア臨時代理公使「佐久間信」の「佐」の署名カ。

こちらの文書に「在ラトヴィア臨時代理公使佐久間信」と印刷されている。

www.jacar.archives.go.jp

 

*ウィルノ:ヴィリニュス

 

*其以東方面:ソビエト連邦を含むヴィリニュスより東の地方。

 

*客年十一月十一日附機密第十八号絶信中ニモ申進メ置キタル:昭和14年11月11日付で文書を電信にて送信後、1ヶ月間連絡が途絶していたらしい。

 

* 汽車賃「り」貨参拾壱「リット」六拾仙:「リトアニア貨幣31リタス60ツェンタス」。「仙」は普通「セント」。

 

リタス - Wikipedia

 

 

* 其都度前以テ稟請ノ上御許可ヲ仰ク場合ハ先方ト会合ノ機ヲ逸スルコトモアルヘキ等、種々ノ支障ヲ生スヘキ儀ニ付:出張の度に外務大臣にうかがっていては、情報提供者(=「諜者」)と会う機会を逃すなど、さまざまな不都合を生じるため。

 

* 尓今:爾今

 

 

そのほかにも「杉原千畝」で検索するとヒットする。インターネットで公開されているものがすべてではないが、

伊賀惣國一揆掟書案を読む その2

 (三条、四条)

一、上ハ五十、下ハ拾七をかきり在陣あるへく候、永陣二おゐてハ、番勢たるへく候、然ハ在々所々(踊り字は二の字点)、武者大將ヲ被指定、惣ハ其下知二可被相隨候、并惣國諸寺之老个ハ、國豊饒之御祈疇被成、若仁躰ハ、在陣あるへく候事、

一、惣國諸侍之披官中、國如何様二成行候共、主同前とある起請文を、里々(踊り字は二の字点)ニ可被書候事、

 

(書き下し文)

 

一、上は五十、下は拾七を限り在陣あるべく候、永陣においては、番勢たるべく候、然ば在々所々、武者大將を指定せられ、惣はその下知にあい随わるべく候、ならびに惣國諸寺の老箇は、國の豊饒の御祈疇せられ、若き仁躰は、在陣あるべく候こと、

一、惣國諸侍の披官中、國いかように成り行き候とも、主同前とある起請文を、里々に書かるべく候こと、

 

*仁躰:「じんてい」 人をていねいにいう語、お人、御仁。

 

(大意)

ひとつ、上は五十歳、下は十七歳を限りに在陣しなさい。長期の合戦やにらみ合いになった場合、順番に勤めることとする。そういったことだから、それぞれの郷村ごとに「武者大将」を指名し、すべてそのものの命令に従いなさい。また国中の寺の僧侶は伊賀国中の五穀豊穣をお祈りなされ、若い僧侶は兵役に参加しなさい。

 

ひとつ、惣国の侍たちの家臣は、国が勝とうが負けようがどのような運命を辿ることになっても、惣国の侍を主人同然とする起請文を、郷村ごとに書きなさい。

 

 

 三条目は、合戦に参加すべき者は17歳から50歳までとしており、長期の合戦やにらみ合いになった際は順番に兵を参加させるよう取り決めている。つまり、最前線と兵站のバランスを考慮したのであろう。合戦だからといって、全員が総攻撃に参加するような形ではないことがわかる。また、宗教者は祈祷に専念することと、兵役から免除されていたこと、あるいは軍事と宗教の分業が見られたことが読み取れるが、若い宗教者はやはり必要だったようだ。整理すると、軍事、兵站、祈祷の三本柱で有事に当たるというシステムになる。

 

四条目からは侍大将とその被官が起請文を交わし、神仏に誓約せよと定めていることがわかる。それは「里」ごと、つまり郷村ごとにまとめられ、そこから惣国まで上申文書として集められたものと推測される。この「里々」が惣国一揆の基礎単位だったようだ。また、この侍大将は惣国から任命派遣され、在郷の者たちとは初対面だった可能性もある。わざわざ「主同前とある起請文」を書かせよ、と定めているところから、恒常的な主従関係があったとは思われない。 

伊賀惣國一揆掟書案を読む その1

『中世法制史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』106~107頁、山中文書

 

  惣國一揆掟之事

一、従他国当國へ入るニおゐてハ、惣國一味同心可被防之候事、

一、國之物云とりしきり候間,虎口より住(注)進仕二おゐてハ、里々(引用書では踊り字は二の字点)鐘を鳴時刻を不写在陣可有候、然ハ兵糧、矢、楯被持、一途之間、虎口不甘様二、陣を可被張候事、

 

   右掟、連判を以定所如件、

      霜月十六日

           (中略)

(補註)石田善人氏により惣国は伊賀、制定年代は,三好長慶が幕府の実権を握った天文廿一年以降、織田信長に逐われた六角承禎父子が近江甲賀に逃脱した前年の氷禄十年までの間とされる。また第十条「大和大将分牢人許容あるましく候事」の「大和大将」は宇陀郡の三人衆沢・秋山・芳野氏らであろうという(「甲賀郡中惣と伊賀惣国一揆」『史窓』21号)。353頁 

 

(書き下し文)

  惣國一揆掟の事

ひとつ、他国より当國へ入るにおいては、惣國一味同心これを防ぐらるべく候こと、

ひとつ、國の物云取り仕切り候あいだ,虎口より注進つかまつりにおいては、里々鐘を鳴らし、時刻を移さず、在陣あるべく候、しからば兵糧、矢、楯持たれ、一途のあいだ、虎口甘かざるように、陣を張らるべく候こと、

 

 

*物云:「物言い」言い合い、口論という意味から「國之物云」は「伊賀国に関する評議」という意味になると解釈した。

*虎口:砦などの入り口という意味から「国境」を指すと解釈した。

(大意)

 ひとつ、他国より当伊賀国へ侵略するものが現れた場合、国が一体となってこれを防ぐようにしなさい。

 

ひとつ、国の運営は協議によって取り決めるので、国境から報告があったならば、村々の鐘を鳴らし、時を移さず、在陣しなさい。そのとき、兵糧、矢、楯を持参し、ひたすら国境警備が甘くならないように陣を構えなさい。

 

 

 

二条目から、伊賀惣国一揆では合戦に臨むさい、兵糧、矢、楯など武装自弁の原則がとられていたことがわかる。通常は郷村で生活し、有事の際は鐘で知らせ、陣を構える決まりだったようだ。

 

 

 

徳川実紀をダウンロードする 大坂夏の陣は16コマ目から

NHK Eテレ知恵泉」で紹介された徳川実紀の活字本が、国立国会図書館デジタルコレクションでダウンロードできる。

こちらからどうぞ。大坂夏の陣は16コマ目から。

 

国立国会図書館デジタルコレクション - 徳川実紀. 巻23−35

 

ただ、以前「小山評定」の回で徳川家康が「今すぐ国へ戻っていくさの準備をせよ」と言ったという話の根拠は徳川実紀だった。

明智光秀丹波国多紀郡宮田市場定書写を読む 中世のスラップ訴訟を禁ず

惟任光秀丹波宮田市場定書寫  丹波志三 

    『中世法制史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』 256

 

   定    宮田市場

一、喧嘩(「嘩」=口偏に「花」)口論、押買、狼藉停止之事、

一、國質、所質、請取沙汰,諸式非分之族停止之事、

一、毎月市日   四日 八日 十二日 十七日 廿一日 廿五日

右條々(踊り字は二の字点)於違犯之輩者、速可處巌科者也、仍如件、

               (惟任光秀)

天正八年七月日         (花押)

 

(書き下し文)

  定    宮田市場

一、喧嘩、口論、押買、狼藉停止の事、

一、國質、所質、沙汰を請け取り,諸式非分の族、停止の事、

一、毎月市日は四日、八日、十二日、十七日、廿一日、廿五日

右の条々違犯の輩においては、すみやかに巌科に処すべきものなり、よってくだんのごとし、

 

 

 

 

*宮田:丹波国多紀郡 旧高旧領取調帳では幕末維新期「篠山藩領宮田村310石」

旧高旧領取調帳データベース  database

 

 

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丹波国と現在の行政区分は以下の通り

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*國質、所質:ほかに「郷質」もある。中世社会の貸借関係にもとづく債権者の債務者に対する質取り(私的差押え)行為の一形態で、たとえばある者の財産が侵害された場合、その加害者が属する「所」、つまり「国」であれ「郷」であれまったく別の者から同等の財産を奪うこと。怪我をさせれば同様に同じだけの怪我を同じ国や郷に所属する者に与え、殺害された場合も同様にその人数だけ殺害する慣行。豊臣政権の「惣無事令」でこれらを「私戦」として禁止するまで中世に広く見られた自力救済の原則。光秀がこのように国質、所質を禁じたということは、豊臣政権と同様の指向性を持っていたことを示す。

 

*請取沙汰:中世の訴訟で、訴訟を第三者に委託することを「沙汰を寄せる」といい、第三者がこれを受託することを「沙汰を請け取る」という。有力者に依頼し、その依頼された者が訴訟の当事者となり、裁判を有利に運ぶ法廷技術。スラップ訴訟に似ている。光秀はこれを禁じた。

 

*諸式:「諸色」とも書くがその場合は物価という意味で使われることが多い(e.g.「諸色高直」(しょしきたかね))。ここでは諸品、諸物、一切、万事といった意味で、「諸式非分之輩」で「あれこれと理不尽を行う者ども」ということ。

向島百花園の七草

 

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右から「すゝしろ」「せり」「ほとけのさ」「なすな」「はこへら」「すゝな」

「すずしろ」の「す」

「せり」の「り」f:id:x4090x:20180116005232p:plain

ほとけのざ」の「け」 け个と「の」の能

 

「なずな」の最後の「な」な奈 「うなぎ」の「な」と同じ

「はこべら」の「は」は者

「すずな」の「す」す須

 

参考サイト

変体仮名を調べる 歴史的仮名書体を探す

 

踊り字についてはこちら。

踊り字 - Wikipedia

小倉百人一首で変体仮名を学ぼう

周防内侍

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はるの夜の

 ゆめはかりなる

   手枕に

  かひなく

     たゝむ

    名こそ

      をしけれ

 

 

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に 甲斐なく立たん 名こそ惜しけれ

 

大中臣能宣朝臣

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        みかきもり

           衛士のたく火の

            夜ハもえ

ひるハ消えつゝ

   物をこそおもへ

 

 

御垣守 衛士の炊く火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ想え

「西郷どん(2)立派なお侍」検見取・坪刈・礼銭

徳川幕府のもと代官・郡代として勤めた安藤博が、大正年間に自身の記憶と手許の文書類から旧幕時代の地方(じかた、これに対して都市部を「町方」と呼ぶ)支配の実務についてまとめたものを『徳川幕府県治要略』として刊行した。図解入りで検地(でこぼこした田畑を長方形として計算する方法など)や坪刈の様子が描かれている。

 

「検見坪刈之図」

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国立国会図書館のデジタルコレクションからダウンロードできるのでこちらからどうぞ。

国立国会図書館デジタルコレクション - 徳川幕府県治要略

「検見坪刈之図」は125コマ目にある。ほかにも書類の書き方なども書かれており、全文ダウンロードして眺めると、吉之助のような郡方役人の実務が理解しやすい。

 

地方(じかた)のことを「郡方」(こおりかた)とも呼ぶので、西郷吉之助の役目は幕府直轄領でいえば代官や郡代の手代などにあたる。

 

検見取りのときに「礼銭」を渡すシーンがあったが、検地など現地に役人がおもむくさいはよく見られたらしい。これも長い歴史がある。戦国大名六角氏の場合は以下の記事を参照されたい。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

ちなみに、銭が縄で束ねられていたが、銭緡(ぜにさし)と呼ばれ1文銭96枚で100文とする計算法だった。これが厄介で経営史の方々が大福帳や金銀出入帳などを分析する際、どう扱ったのかお教えを請いたいといつも思う。

 

 

 

こういった論文もあるので参考までに。

ci.nii.ac.jp