古文書を見ることができる神サイトの紹介

こういうサイトがありますのでぜひご活用下さい。

ただ著作権の問題がありますので、引用にはくれぐれもご注意を!

 

 

atogaki.hatenablog.com

埋め草 古文書を学べる学部学科

文学部史学科以外で古文書を学べる学部や学科を紹介する。

 

 

工学部建築学科建築史研究室

城郭研究などはこちらの方が詳細に学べるかも知れない

 

理学部古気象学、古天文学、古地質学関係研究室

当時の人々の記録を読む必要があるので

 

 

理学部地理学科歴史地理学研究室

古代だと条里制など幅広く扱っている

 

 

 

ほかにも、~~学史の場合は必要になるかも知れない

 

 

法学部日本法制史研究室

律令をはじめ、御成敗式目戦国大名の分国法など

 

経済学部日本経済史研究室

古代だと計帳や籍帳、中世だと荘園の年貢負担や貨幣経済の問題、近世では米の先物取引や地主経営、近代では地主制などで古文書を読む必要がある

 

農学部農業経済学科日本農業史研究室

図書館の十進分類では書名に「農民」、「農村」、「百姓一揆」とあるものはほとんど農業に分類されるくらいだ

同様に林業史、漁業史などについてもいえる

本能寺の変の第一報

本能寺の変直後、この事件を史料でどのように表現していたかを今回考えてみたい。史料は以前と同じ『愛知県史資料編11織豊1』から引用し、同書による史料番号と頁数を明記する。

 

史料1

  1513.家忠日記(788頁)

(六月)

三日己丑 (中略)酉刻ニ京都にて上様ニ明知日向守・小田七兵衛別心にて御生かい候よし、大野より申来候、

(中略)

ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也

 

*上様:織田信長

*明知日向守:明智日向守光秀

*小田七兵衛:織田信澄(1558頃~1582/06/05)信長が誅殺した、弟信勝(信行)の子、すなわち信長の甥。妻は光秀の娘。谷口克広氏によれば、光秀との共謀はありえない上、光秀に助力しようとする素振りさえうかがえないが、信孝・長秀によって梟首されたことで謀反人とされたという(同『織田信長家臣人名事典』109頁)。

 

*生かい:生害

*大野:尾張国知多郡大野

*セツ:説(うわさ、風聞)のこと

 

 

(書き下し)

三日つちのとうし(中略)酉の刻に京都にて上様に明知日向守・小田七兵衛別心にて御生害候よし、大野より申し来たり候、

道にて七兵衛殿別心は説なり、

(大意)

六月三日つちのとうし(中略)酉の刻限(18時頃、「暮六ツ」ともいう)に京都で信長様が明智光秀と織田信澄によって殺されたとの報告が、大野より来ました。

途中七兵衛殿の謀反は噂であるとわかった。

 

ここでは「京都にて上様御生害」と呼ばれている。

 

もうひとつ興味深いのは、信澄への敬称の有無である。最初は謀反人ということで呼び捨てになっているが、それがうわさに過ぎないとわかった時点で「七兵衛殿」とされている点だ。

 

 

史料2

  1517.徳川家康書状(折紙)(789頁)

今度京都之様躰無是非儀候、其付而(一字闕字)上様為御弔我々令上洛、さ様候へハ今日十四日至鳴海出馬候、然者此節可有御馳走之旨水野藤助舌頭ニ候、弥以大慶候、諸事於御入眼者可為本望候、尚委細彼口上ニ相含候、恐々謹言、

     六月十四日         家康(花押)

   吉村又吉殿

 

*(一字闕字)上様:織田信長

*鳴海:尾張国愛知郡鳴海、現在の名古屋市

http://www.city.nagoya.jp/midori/cmsfiles/contents/0000057/57984/15.siryouhen.pdf

*水野藤助:水野長勝

*入眼:ここでは物事が成就すること。

*吉村又吉:吉村氏吉

 

(書き下し)

 このたび京都の様躰是非なき儀に候、それについて(一字闕字)上様御弔のため我々上洛せしめ、左様候へは今日十四日鳴海にいたり出馬候、しからばこの節可有御馳走あるべきの旨水野藤助舌頭に候、いよいよもって大慶に候、諸事御入眼においては本望たるべく候、なお委細かの口上にあい含め候、恐々謹言、

 

ここで信長を「上様」と呼び、その上一字空欄にして敬意を表す闕字表現がとられていることに留意されたい。もちろん、明智光秀方が謂うところの「上意」とここでいう「上様」が同じ人物を指すのかは必ずしも一致するとは限らない。それぞれの立場により、敬意を表すべき対象が異なったり、あるいは一致したり様々なのだ。一言で「貴人」を指すといっても一義的に決まるとは言いがたい。

 

 

史料3

  1519.徳川家康書状写(790頁)

来状委細披見本望之至候、如仰今度京都之仕合無是非次第候、乍去若君様御座候間、致供奉令上洛、彼逆心之明智可討果覚悟ニ而、今日十四至鳴海出馬候、殊其地日根野方、金森方一所江被相談候由、弥以専一候、此者万々御馳走可為祝着候、尚追々可申述候間、不能一二候、恐々謹言、

    六月十四日         御名乗直判

  佐藤六左衛門尉殿

 

 

*若君様:織田信忠の嫡男織田秀信、幼名は「三法師」

日根野日根野元就

*金森:金森長近

*御馳走:走り回ること、奔走することから、転じて人をもてなす食事を出す意味になった。ここでは振る舞うこと。

*御名乗:「おんなのり」家康を敬って実名を書くことをはばかった書き方。近現代だと原本に天皇の実名と「天皇御璽」(「御」は自らに敬意を表す尊敬語)が据えてあるが、写をはじめ活字の場合「御名御璽」とだけ書く。ここに「家康と書いてありました」という意味になる。

直判:「ここに直接判(ここでは花押)が据えてありました」という意味でこう書いている。これが古文書学でいう写であり、メディアでいう「写」とはまったく異なることに留意されたい。

 

**「御名乗」「直判」とあり、これは写であって筆跡を真似て書き、花押を模写したものではありません、と明示している。もちろん権利関係のためそういった偽造された偽文書(ぎもんじょ)も多数存在する。しかし歴史学では偽文書もなぜ作成されたのかという、研究対象であることには変わりない。

*佐藤六左衛門尉:佐藤秀

(書き下し)

来状委細披見本望のいたり候、仰せのごとくこのたび京都の仕合せ是非なき次第に候、さりながら若君様御座候間、供奉いたし上洛せしめ、かの逆心の明智討ち果たすべき覚悟にて、今日十四(日脱カ)鳴海にいたり出馬候、ことにその地日根野方、金森方一所え

あい談じられ候よし、いよいよもって専一に候、この者万々御馳走祝着たるべく候、尚追々申し述ぶべく候間、一二にあたわず候、恐々謹言、

   六月十四日    御名乗直判

  佐藤六左衛門尉殿

 

 

 以上、三例ほど実例を挙げてみたが、日が経つにつれ呼称がどう変わっていくか、統一した名称で呼ばれるようになったのかは、後日を期したい。

吉報! 信長と光秀関係の史料集がGoogle Appsにアップされました

これは労作かつ朗報!!

@buqimingri

信長と光秀の文書を追加した暫定版データ集をGoogleAppsに上げてみた。多分閲覧可能なはず。

 

 

docs.google.com

 

 

「新発見」光秀書状をめぐる2つの議論の温度差と各メディアの大きな勘違い 「写」と影写本は異なる!

ツイッターで「光秀書状」を眺めていると、議論は大きく2つに、しかもおそろしいほど隔たっていることに気付く。

 

ひとつは、すでに十分知られた文書であり、原本そのものが見つかったことは大発見だが、それ以外格別の新発見があったわけではないという流れ。この場合、天正5年説にも触れているし、藤田氏の解釈への疑問も提示されていて、掘り下げた議論になりつつある。

 

一方は、史料そのものへの興味はほとんどなく、各メディアの「写」という古文書学用語の大誤用をそのまま引き継ぎ、義昭黒幕説に一歩近づいたものという認識であろうか。

 

 

さて、各メディアは「写」という古文書学用語を誤解していて大変困るのだが、もっとも致命的なのが時事通信の次の記事だ。ただ、正直こちらの方が手の内をさらけ出している点で望ましい。というのも他のメディアは「写」の作成者やその時期を曖昧にしているからだ。

 

www.jiji.com

 

問題は「東京大学史料編さん所が明治22(1889)年に書状の写しを作成した後、原本は行方が分からなくなっていた」の史料編纂所が「写」を作成したという部分だ。これは影写本のことと思われる。もし、史料編纂過程で「写」を作成したとしたら、2000年に問題になった旧石器時代の「捏造」とかわらない。

 

影写本は、原本に別紙を重ねて透き写すものであり、現在のマイクロフィルムによる撮影と同様に、史料収集のための「コピー」であり、古文書学でいう「写」とは異なるものだ。もちろんメディアに専門知識を要求するのは無理筋だと思うが、よく人の話を聞いてから記事にしてほしい。

 

古文書学でいう「写」については以下を参照されたい。

www.wikiwand.com

本能寺の変後の信長を「上様」「右大将家」と呼ぶ事例

岐阜市史史料編近世一』から本能寺の変後、信長がどう呼ばれていたかを知る手がかりとして、次の2点の史料を紹介したい(いずれも877頁)。なお文書の名称は同書にしたがった。

史料1

 

   神戸(織田)信孝禁制判物(折紙)

 

当寺之事、付門前、上様(織田信長)為御基(墓)所之上は、不混自余、諸役并非分之課役、付陣取・放火・竹木伐採事、令停止訖、若違乱之輩、速可成敗也、

   天正拾年         (神戸)

    十二月廿一日         信孝(花押)

       崇福寺

 

(書き下し)

当寺のこと、付けたり門前、上様御基所たるのうえは、自余に混ぜず、諸役ならびに非分の課役、つけたり陣取り・放火・竹木伐採のこと、停止せしめおわんぬ、もし違乱の輩は、速やかに成敗すべきなり、

 

 

*御基所:墓所

*自余に混ぜず:1603年成立の日葡辞書(土井忠生外編『邦訳日葡辞書』(1980年、岩波書店)によれば「他とは紛れようがない。並々でない。『―◦ヌ人』」とある。日葡辞書はちょうど家康が征夷大将軍に任じられた年にポルトガルで刊行されたもので、書き言葉、話し言葉も載せてあり、用例も載っているので当時の表現を知るには格好の辞書である。現在使われている俗語なども載っているので、パラパラめくると思わぬ発見をすることがあるので、お勧めだが、引きにくいのが難点である。

*:諸役ならびに非分の課役:諸役は年貢以外の公事、夫役など。非分の課役は正当でない臨時の課税。

 

崇福寺:信長以降の織田家菩提寺。詳しくはこちらを参照されたい。

織田信長公菩提所 岐阜 臨済宗妙心寺派 崇福寺

崇福寺 (岐阜市) - Wikiwand

  *天正10年12月21日:秀吉と対立していた信孝が降伏した翌日。

(大意)

当寺および門前について、信長様の御墓所であるので、格別の計らいで、諸役および非分の課役や陣取り、放火、竹木伐採のことを禁じたところである。もしこれに背く者がいたなら、速やかに成敗すべきである。

 

 

史料1によれば、「上様」とは信長以外に考えられない。そうすると「天正10年土橋平尉宛光秀書状」文中の「上意」「御入洛」が、一般的に足利将軍家を指すのか、信長を指すのか判断できなくなる。もちろん、光秀が信長、信忠父子を殺害した直後の段階と、清洲会議を経た12月段階で、足利将軍家の権威が低下しているとも考えられる。ただ、義昭が将軍職を辞したのは天正16年(1588)であり、この段階では将軍であった。

 

土橋宛書状を天正5年のものとするのか、10年と解釈すべきなのか容易ではない。

 

史料2

   池田元助寺領寄進状(折紙)

右大将家并信忠公為御弔、百弐拾弐貫五百文、新儀令寄進候、無懈怠、御看経肝要候、恐惶謹言

   天正十一年        紀伊守(池田)

    九月十七日         元助(花押)

       崇福寺方丈

          侍者御中

 

(書き下し)

右大将家ならびに信忠公御弔として、百二十二貫五百文、新儀に寄進せしめ候、懈怠なく、ご看経肝要に候、恐惶謹言、

 

(大意)

信長様ならびに信忠さまのお弔いのため(の費用を賄うための土地として)122貫500文をあらたに寄進させました。懈怠なく、読経に励むことが重要です。

 

 

*右大将:右近衛大将のこと。天正3年(1575)義昭を京都から追放後、信長は権大納言および右近衛大将に任官された。このとき義昭は近衛中将だった。

近衛大将唐名は「幕府」「幕下」「柳営」「羽林大将軍」「親衛大将軍」「虎牙大将軍」。ちなみに「黄門」は中納言唐名

また、御成敗式目中に見える「右大将家之御時」は源頼朝を指す。

 

 

*看経(かんぎん):「かんきょう」とも読み,禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちには,諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。

 

*恐惶謹言:「おそれ謹んで申し上げる」の意。書状などの末尾に来る決まり文句。

 

紀伊守元助:1559?~1584 勝九郎、紀伊守。諱が元助。長久手の陣にて父池田恒興とももに討ち死。

 

*方丈:1丈 (約 3m) 四方の部屋の意で,禅宗寺院の住持や長老の居室をさす。『維摩経』に,維摩居士の室が1丈四方の広さであったという故事に由来する。転じて住職をも意味する。さらに一般的に師の尊称として用いられた。

 

文書中には、人名が明確に書かれているわけではなく、受領名や官途名等の役職で書かれることが多いため、ときには解釈が分かれる場合もある。たとえば太閤とは本来関白を退いた者に対する尊称であったが、秀吉以降「太閤」といえば一般的に秀吉を指すことになった例がわかりやすいと思う。

 

また「公儀」などもその意味するところを読み取ることは難しい。

本能寺の変直後 社会は無政府状態に陥った

『愛知県史資料編11 織豊1』史料番号1516、789頁によれば次のような混乱状態に陥ったという。

 

 

  1516  十六・七世紀イエズス会日本報告集 

 

 

彼は(=明智光秀)(市の)いずこにも火を放たなかったが、重臣を一人、幾らかの兵と共に同所に残して彼は予期していた戦さを始めるため二、三日後、郡と境を接する河内国と津の国へ引き返した。この時、安土山(近江国)では略奪が行われ、家々を荒らして家財を盗み、路上では追剥を働くことのみが横行していたが、このことは同所ばかりでなく堺の市から美濃国および尾張国まで道程にして六、七日の所でも同様であり、ここかしこで殺人が行われた。それ故、これほどの甚大なる荒廃をもたらすため地獄がことごとく(この世に)出現したかに思われたほどであり、わずか一人の人間の死によって諸国がこんなに混乱するとは尋常ならぬことである。

 

 

光秀は安土城下の市に火を放つことはしなかったが、重臣一人と兵を残して河内・伊勢に引き返した。すでにこの時安土では略奪・追い剥ぎが横行し、これらの混乱は堺から美濃や尾張までに広がり、あちらこちらで殺人が行われていたという。このような「地獄」が、ひとりの死によってもたらされるとは並みのことではない、とイエズス会の宣教師たちは怯えていたようである。

 

この範囲は信長のいう「天下」に相当する。堺(摂津、和泉、河内三国の「境」に由来する地名)から美濃や尾張までが無政府状態なのだから、すさまじい。家康が隠密のルートで逃げ帰ればならなかった状況が理解できる。「天下布武」が崩壊した瞬間、社会情勢は一気に流動化したようだ。重臣たちが「天下」の辺境地に散らばって軍勢を展開していたせいもあるだろう。

 

嫡男信忠も死亡したせいもあるのか、信長ひとりのカリスマ性が全面に出ていたためなのか、不勉強なためわからないが、これを織田政権という点から考えると、権力の継承という点でずいぶん脆弱だったのでは、と思えてくる。

 

また、社会全体が「明智政権」なるものの正統性を疑っていたか、あるいは光秀が権力を簒奪するには不十分だと認知していたかのいずれかであろう。そうすれば、当然正統性を確立するため朝廷や足利将軍の権威が必要とされる。光秀「単独犯」では早晩消え去る運命だったといえる。本能寺の変の政治史的意味を考えるとき、権力の正統性を考慮することは重要だろう。朝廷や公家、あるいは足利将軍家のもつ権威は信長も重視していた。光秀の動機がどうであれ、社会が正統性をもつ政治権力と認識するには、光秀の軍事力や政治力だけでは不可能だったに違いない。

 

本能寺の変後、政治権力の委譲がどのようになされたのかを考慮する必要があると考える。ただ、この点の研究成果に目配りが行き届いていないため、もしかしたら多くの研究があるのかも知れない。

 

実はここで近江、美濃、尾張といった国名があがっているところに留意されたい。

 

藤田達生氏のいう「天正10年6月12日土橋重治明智光秀書状」だ。

ひとつ書きの二条目に和泉・河内への出勢について、三条目では近江・美濃の平定について言及している。その点でこのイエズス会の報告書の記述と通じるところがある。

 

本ブログでは、天正5年説か10年説か言及できないが、このイエズス会報告を見ると、やや天正10年かという気がする。ただ、本能寺の変直後に信長を「上様」「右大将家」などとする文書もあるのでなんともいえない。次回は、信長の葬儀に関する史料から「上様」「右大将家」について触れることにする。