日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

三木城攻めの諸相 その2

三木城攻めの結末は以下のように語られることが多い。

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                『群書類従』14 「別所長治記」

上記天正8年1月15日付の浅野長政宛別所長治書状は、同工異曲も含め様々な軍記類に写されているものの浅野家文書として伝わっていない。また、「なんぞ臍(ほぞ)を嚙むや」、「その心底に感じ、落涙留まらず」といった文書らしからぬ表現も見えるため、もとになったものを写したとしてもかなり粉飾された可能性がある。しかし、「干し殺し」の結末がこうしたイメージで語られてきているのもまた事実であろう。近年このようなイメージと異なる様子を伝える文書も知られるようになった。発掘調査も進んでおり、報告書も公開されている*1

三木城周辺は以下の通りである。

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      『三木城跡及び付城跡群総合調査報告書総括編』より作成

秀吉が別所長治に宛てた書状では、秀吉は次のように約束している。

 

右三人*2於生涯*3軍卒*4赦免之事、少モ相違有間敷候、猶従浅野弥兵衛*5方委細可申達候、謹言、

(書き下し文)
右三人生害においては軍卒赦免のこと、すこしも相違あるまじく候、なお浅野弥兵衛方より委細申し達すべく候、謹言、

 

(大意)
右の別所一族三人が自害するなら城兵の命は保証することに間違いありません。なお詳しくは浅野長政より伝えます。謹んで申し上げました。

 これが一般的なイメージであろう。

*1:https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22093

*2:別所長治・吉親・友之

*3:生害

*4:兵卒

*5:長政

三木城攻めの諸相 その1

天正7年から翌年にかけて秀吉は戦後処理の一環として、在地宛に還住や年貢諸役の免除を命じている。そこでその前提として今回と次回、三木城攻めのあらましを見ておく。

 

天正7年10月28日付小寺休夢斎*1宛秀吉自筆書状には「ほしころしか、又ハせめころし申すべく」との文言が見え、また「このご返事により、三木ゆるし候て、しろをう(け脱カ)とり候て、いのちをたすけ候か、又ほしころし(干し殺し)候か、両度に一度か、きわめ申すべく候」と休夢斎に尋ねている*2。ただし「干し殺し」は兵粮攻めを意味するというより「餓死させる」の意で使われることが多いようだ。

 

三木城攻めの様子は、天正8年1月から日を経ないうちに別所旧臣来野弥一右衛門が編んだ「別所長治記」に以下のような記述が見える。

 

秀吉毎度の合戦に一度も遅れを取り給わず、名誉*3の大将やと上下罵り合い*4にける*5。(中略)

屏の高さ1丈*6余ふたえ*7に付け、その間に石を入れ掻き楯*8栖籠*9を高く上げ、前に逆茂木を引きて、柵を結び、川の面に大綱を張り、乱杭を打ち、大石を入れ、橋の上に番*10を居え、人の通りを改め*11、後には諸国の軍勢陣屋を作り並べ、辻々に木戸を立て、篝を焼かせ*12夜廻り隙なく廻りけり。秀吉近習の侍を六番に分かちて三百人ずつ、①役所に名字を書き付け、組頭に判形おさせて、少しも懈怠なく相勤むべき定めの城中食攻めたるべしと②うんぬん

    (『群書類従』14「別所長治記」カタカナをひらがなに改め一部読みやすくした)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783

なお、早稲田大学所蔵の来野撰「三木別所家伝」もほぼ同内容である。

www.wul.waseda.ac.jp

 

この記事は別所側から見た秀吉軍のイメージであるうえに、下線部②でこれらの話が伝聞である旨断っているので額面通り受け取ることはできない。ただ大規模かつ綿密な備えだったと見えていたことはたしかである。また運用においても1日を6組に分け300人、のべ1800名体制で監視させ、その管理は名字を書き記した帳簿にしたがい、「組頭」と呼ばれる責任者によっていたと別所側に伝わっている。この数字自体の信憑性や下線部①のように判形を取った文書が伝わっているのかどうかは別に検討を要するものの、いまだ織田家の一家臣でありながら秀吉が文書行政を重視していたと認識されていた点は注目すべき点で、のちの豊臣政権における行政官僚体系がすでにできあがりつつあったのかもしれない。

 

 

*1:黒田孝高の叔父

*2:「一、205号、67~68頁」

*3:世にも稀な、不思議な

*4:身分を問わず評判になる、「この世にののしりたまふ光る源氏」=世間で大評判の光源氏

*5:「や~ける」は強調

*6:10尺=およそ3.03メートル

*7:二重

*8:大型の楯

*9:竹を束ねたものか

*10:寝ずの番、見張り

*11:街道を行き交う人々の身許を調べ。三木城へ補給する者たちを監視する意味もあったであろう

*12:かがりを焚いて

補足 天正7年6月28日淡川市庭宛羽柴秀吉掟条々

前回読んだ「掟条々」について、補足しておきたい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

一、当市毎月五日、十日、十五日、廿日、廿五日、晦日之事、

一、らくいちたる上ハ、しやうはい座やくあるへからさる事、

 第1条は、市の開催日を毎月定められた日に行うように命じたものである。したがってこの日時以外で開いた市は「闇市」となる。少なくとも秀吉にとっては認めがたいことだった。

 

第2条の「らくいちたる上ハ」から、当市場がこの掟以前に「楽市」として認められていたことがわかる。特段目新しいものではなく、これまでの慣習を踏襲した政策に過ぎない。

 

 

天正7年6月28日淡川市庭宛羽柴秀吉掟条々

 

.   掟条々     淡川*1市庭*2

一、当市毎月五日、十日、十五日、廿日、廿五日、晦日之事、

一、らくいち*3たる上ハ、しやうはい*4座やく*5あるへからさる事、

一、くにしち*6ところしち*7[    ]之事、

一、けんくハ*8こうろん*9りひせんさく*10□(に)を□□(よハ)す*11、双方せいはい*12すへき事、

一、はたこ銭*13ハたひ人*14あつらへ*15次第たるへき事、

右条々あひそむくともから*16これあらは、地下人として*17からめをき、ちうしん*18あるへし、きうめい*19をとけ、さいくハ*20におこなふへき者也、仍掟如件、

  天正七年六月廿八日          秀吉(花押)

                       「一、199号、66頁」

(書き下し文)

 

   掟条々     淡川市庭

一、当市毎月五日、十日、十五日、廿日、廿五日、晦日のこと、

一、楽市たる上は、商売座役あるべからざること、

一、国質・所質[    ]のこと、

一、喧嘩・口論理非詮索に及ばず、双方成敗すべきこと、

一、旅籠銭は旅人誂え次第たるべきこと、

右条々相背く輩これあらば、地下人として搦め置き、注進あるべし、糺明を遂げ、罪科に行うべきものなり、よって掟くだんのごとし、

 

(大意)

   掟の条文    淡川市庭へ

一、当市の開催日は毎月5日、10日、15日、20日、25日、晦日*21とする。

一、楽市としたからには、商売座役を懸けることを禁ずる。

一、国質・所質*22は[     ]とする。

一、喧嘩・口論があった場合には、どちらに理があり、どちらに非があるか詮索せずに双方とも成敗する。

一、旅籠の宿賃は宿泊者の注文通りとすること*23

以上の条文に背く者がいた場合、市庭としてこの者を捕らえ、報告しなさい。こちらで吟味した上で罪科に処す。以上掟である。

 

 Fig. 播磨国美嚢郡淡川周辺図

 

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                 『日本歴史地名大系』「兵庫県」より作成

これは三木城攻めのさなかに発給された。本文書については長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019年)が詳しい。図を見ればこの市が交通の要衝にあったことが分かる。長澤上掲書の「図5」は淡河の交通的・軍事的事情を分かりやすく伝えている。この制札(木製)は軍事的・戦術的文脈で解するのが妥当であろう。

 

市場の開催日を定め、幕府、荘園領主、寺社などが賦課する「座役」、すなわち商売座に加入するための負担を禁じている。

 

国質、所質は中世特有の債務関係であり、戦国大名もこれらの慣習を禁じている。明智光秀天正8年丹波国多紀郡宮田市場に同様の文書を発給している*24。たとえば、A国に属する者がB国の者によって1人殺害された場合、B国の者は1人分A国に「貸し」をつくることになる。この債務関係を解消するには、B国に属する者1人をA国の者が殺害する方法がとられる。所質も同様に、郡や庄、郷、村など「所」に属する者1人を差し出さねばならない。こうした解決法を禁じたのである。ここでは該当部分が破損しているため「禁じた」と断定できないが、掟の性格上そう判断できよう。

 

喧嘩・口論といっても中近世の「喧嘩」には弓鑓鉄炮を持ち出す合戦のような規模の場合もある。そうした行為に至った者は理非曲直を問わず全員処罰する喧嘩両成敗の原則に準ずるとする。ただし、喧嘩両成敗の原則がつねに貫かれたかというとそうでもなく、個別には事情を聞き出しているようで上級領主の思惑通りに行かなかったようだ。

 

旅籠の宿賃を旅人の「誂え」たとおりにせよとのくだりは宿賃は旅人の言い値で泊まらせろという意味か、食事を注文通りに作りなさいという意味かここからは読み取れない。ただ宿泊時、よく揉めたらしいということだけは言える。長澤氏はこの部分を「旅籠銭(の支払いは)、旅人の持ち分に準じること」(168頁)と解釈している。

 

以上の旨に背く者がいれば市庭として責任をもって生け捕りにし、注進せよと命じている。この「搦め捕る」という文言がしばしば見られることから、市庭の者による私刑を禁じたものとも読める。家康政権時の慶長8年3月27日付「覚」でも「百姓をむさと殺し候こと御停止たり、たとい科あるといえどもこれを搦め捕り奉行所において対決の上申し付くべきこと」*25と見える。同史料集は「斬棄御免は俗説で、理由もなく百姓を殺すことは出来なかった」*26と注釈を入れている。

 

さて、本ブログでは楽市・楽座への言及を避けた。そのあたりについては長澤上掲書に拠られたい。同書には一般向けには珍しく49点もの「史料編」が原文と読み下しつきでまとめられている。付録としては豪華版であろう。もちろん参考文献=先行研究のリストもある。よくある、織田信長=中世の破壊者イメージと強固に結びついた「楽市楽座」像のような初等・中等教育で刷り込まれた先入観を払拭するには格好の入門書と言えるだろう。

*1:播磨国美嚢郡、図参照

*2:市場

*3:楽市

*4:商売

*5:座役、座に加入するため負担する課役

*6:国質

*7:所質

*8:喧嘩

*9:口論

*10:理非詮索

*11:及ばず

*12:成敗

*13:旅籠銭、宿賃と食費

*14:旅人

*15:誂え、望む・注文

*16:

*17:淡川市庭として

*18:注進

*19:糺明

*20:罪科

*21:小の月は29日、大の月は30日

*22:後述

*23:後述

*24:『中世法制史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』256頁

*25:児玉幸多編『近世農政史料集一』1号、1頁、吉川弘文館

*26:2頁

承応2年12月26日池田村三郎兵衛宛長田村新兵衛外永代売渡申女房之事

今井林太郎・八木哲浩『封建社会の農村構造』(有斐閣、1955年)収載史料に興味深いものを見つけたので読んでみたい(165頁)。

 

     永代*1売渡申女房之事

  与五郎女房 名はかくと申也、年は三十五歳也*2

  並 むすめ 名はたねと申也、年は七歳也

右件の女は長田村新兵衛譜代*3の女にて御座候へども、我等御年貢*4つまり*5申に付而、猪兵衛殿へ種〻頼み申候へば、池田村三郎兵衛殿方へ親子共直米*6七斗*7に売渡申所実正也、但しかくは今年より卯の年*8まで御使被下、其後は御隙*9可被下候、如此証文仕候上ハ於子〻孫〻違乱妨申有間敷*10、為後日之如件、

   承応二年巳の十二月廿六日*11

                    長田村*12

                      売主  新兵衛判

                    同村

                      口入*13 猪兵衛判

     池田村*14三郎兵衛殿

             まいる

 

(書き下し文)

     永代売り渡し申す女房のこと

  与五郎女房、名は「かく」と申すなり、年は三十五歳なり

  ならびに、娘、名は「たね」と申すなり、年は七歳なり

右くだんの女は長田村新兵衛譜代の女にて御座候えども、われら御年貢詰まり申すについて、猪兵衛殿へ種〻頼み申し候えば、池田村三郎兵衛殿方へ親子とも直米七斗に売り渡し申すところ実正なり、但し「かく」は今年より卯の年までお使い下され、その後は御隙下さるべく候、かくのごとく証文仕り候うえは子〻孫〻において違乱・妨げ申しあるまじく、後日のためくだんのごとし、

 

(大意)

     永代売り渡す女房のこと

   与五郎の女房、名前は「かく」、数え年35歳

   同じく娘、名前は「たね」、数え年で7歳

右の母娘は長田村新兵衛譜代の者でしたが、本年の年貢上納に差支え、猪兵衛殿に相談したところ、池田村の三郎兵衛殿方へ母娘合わせて米7斗で売り渡したことに間違いありません。ただし、かくは来たる寛文3年*15までお使いになったあと、お暇を下さい。以上のように証文を取り交わした以上、子〻孫〻まで文句を言わないこと。後日の証拠としてしたためました。

 

この文書は様々な意味において示唆的である。

 

1.売買の対象となる「譜代」の者が「譜代」と呼ばれるには家族の再生産が不可欠となる。つまり、売買の対象となる者も婚姻が許された。この売買された母娘は与五郎の妻子とある。しかし、「譜代」の者の子孫も主家の所有物であり、本文書のように親子ともども売買されている。

 

2.40歳を「初老」と呼んだことから、数え年35歳の女房は人生後半といえる。そのためか、10年後には暇を出す=与五郎のもとへ返す約束になっていたようだ。ただし片道切符である点で「永代売り」である。

 

3.一方娘に年季はない。三郎兵衛方で生涯を終えるのか、別の主家で家族を作るのか、さらに転売されてしまうのかこの時点で定かでない。もちろん、独立的な立場になる可能性も十分ある。

 

4.年季売のように将来の年代を記す場合、十二支が使われていた点は注意すべきであろう。1966年の出生数大幅減は「ひのえうま」生まれを忌避したためといわれる。最近干支は実用的意味を急速に失っているが、戦後しばらく暦として重要視されていた。

 

5.「猪兵衛殿へ種〻頼み申」が単に相談を受けただけなのか、仲介料を取って斡旋していたのか気になるところだが、本文書だけではわからない。

 

6.母娘を売りに出した理由は年貢上納に差し支えたためとある。文字通り受け取れば譜代の者を抱える上層農民も年貢を納められない状況に置かれたことを物語る。

 

(注意)

現在米は重量で売買されているが、かつて米屋では1升桝で量り容積で売買されていた。米を量る単位は長い間容積だったのである。「石」*16はその代表であるが、「俵」も使われた。ただし、1俵=2~5斗と幅がある。1俵あたり何斗入か、寛政年間成立の「地方凡例録」では同じ国でも郡により異なり、「御料」=幕府領でも異同がある。ましてや「私領」=大名領では「まちまち」に違いなかろうと記している。

 

換算はこちらのサイトが便利。

keisan.casio.jp

 

 

*1:前近代の売買は年季売が基本だったため「永代」とわざわざ断る必要があった

*2:年齢は数え年

*3:代々、ここでは長田村新兵衛家に代々仕えてきたの意

*4:領主への年貢、ほかに小作料などを年貢と呼ぶ場合もある

*5:詰まり、困窮する・苦しくなる

*6:代価として売り手に渡す米

*7:1斗=約18リットル、7斗=およそ126リットル

*8:寛文3(1663)年

*9:すき、ひま・いとま

*10:「候」脱カ

*11:承応2年12月26日はユリウス暦1654年2月13日、グレゴリオ暦同年同月23日。家綱政権時

*12:摂津国八部郡

*13:仲介人

*14:摂津国八部郡

*15:未来の年号を予見できるわけではないので、十二支を使用する

*16:「斛」