日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元亀2年7月20日山城大住庄名主御百姓中宛木下秀吉・武井夕庵連署状

当ブログでは、当面特に断らない限り「豊臣秀吉文書集」(吉川弘文館、既刊第1~5巻)を読んでいくので、以下巻数、文書番号、所収頁を「一、42号、15~16頁」のように略記することにする。

 

今回読む文書は、以前読んだ曇華院領大住庄についてのものである。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

当庄之儀、殿様*1御申沙汰*2候て、(闕字)曇花院殿様*3御直務ニ被仰定、御下知御朱印*4明白候、然御給人*5を被付之由候、定*6(闕字)うへ様*7ハ被知召ましく候歟、(闕字)殿様*8より公方様*9へ当庄之儀無相違候様ニと御申之事候間、定*10不可有別儀*11候、御年貢之事、於他納ハ可為二重成*12候、恐々謹言、

                夕庵*13

   七月廿日*14          尓伝(花押)

                木下藤吉郎

                  秀吉(花押)

 山城大住庄*15

   名主御百姓中

                          「一、42号、15~16頁」

 

(書き下し文)

当庄の儀、殿様御申し沙汰候て、曇花院殿様御直務に仰せ定められ、御下知・御朱印明白に候、しかりて御給人を付けらるのよし候、定めてうへ様は知り召されまじく候か、殿様より公方様へ当庄の儀相違なく候ようにと御申しのこと候あいだ、定めて別儀あるべからず候、御年貢のこと、他納においては二重成たるべく候、恐々謹言、

 

(大意)

 当大住庄のことは、信長様がお決めになり、曇花院殿様が直接支配することはすでに永禄13年の朱印状の下知の通り明白である。しかしながら、在地の荘官に支配を任されたとのこと、おそらく上様は御存知のことなのだろうか、信長様より上様へ当庄の件について、間違いのないよう申し出ているので、かならず支障のないようにしなさい。ほかの荘園領主と称する者に年貢を納めることは二重成である。

 

 

Fig. 山城国綴喜郡大住庄周辺図

 

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                   「日本歴史地名大系」京都府より作成

 

*1:織田信長

*2:モウシサタ:裁定を下すこと

*3:ドンゲイン:聖秀女王、後奈良天皇の第7皇女。足利義輝・義昭の猶子となり、曇華院に入る

*4:永禄13年3月22日曇花院雑掌宛織田信長朱印状、奥野高広『織田信長文書の研究』215号文書、上巻356頁。奥野編著からの引用も多いので以下「奥野、文書番号、上/下/補遺、頁数」のようにあらわす。今回の場合「奥野、215号、上、356頁」のように略記する

*5:在地の荘官。「御」がつくので曇花院の荘官と思われる

*6:おそらく

*7:足利義昭

*8:信長

*9:義昭

*10:きっと

*11:差し障りのあること

*12:フタエナシ、二重に年貢を納めること、または納めさせること

*13:武井:信長の右筆

*14:元亀二年

*15:綴喜郡:曇華院領、上図参照

元亀2年6月13日山城国幡枝外郷中宛木下秀吉書状

加茂*1市原*2申詰*3山之儀、市原野従往古当知行*4候処、今又自加茂申懸*5之由、一円*6無分別*7候、御奉行中*8ゟ隣郷へ御尋ニ付ハ、様躰□用□可申候、少も於相紛*9者、我等来月可罷上*10候間、申上候而、成敗可申付候、為其如此候、恐々謹言、

                 木下藤吉郎

  六月十三日*11               秀吉(花押)

   幡枝*12

   野中

   二瀬

   鞍馬

   貴布祢  郷中

                   「豊臣秀吉文書集 一」40号文書、14~15頁

 

(書き下し文)

加茂と市原申し詰むる山の儀、市原野往古より当知行候ところ、今また加茂より申し懸くるのよし、一円分別なく候、御奉行中より隣郷へ御尋ねについては、様躰□用い□申すべく候、少しもあい紛れるにおいては、我等来月罷り上るべく候あいだ、申し上げ候てきっと成敗申し付くべく候、そのためかくのごとく、恐々謹言、

 

(大意)

加茂郷と市原郷が争っている山の権利について、市原郷が従来より差配しているところへ、いままた加茂郷の者が言いがかりをつけているとのこと。まったく許しがたいことである。奉行が周辺の郷村へ実態を調べに行くことについて・・・現地の状況について・・・ほんの少しでも虚偽の申し立てを行った場合、当方が来月現地へ向かうので、その者について申告しなさい。かならずその責めを負わせる。

 

 

 

Fig. 山城国幡枝郷周辺図(付録:明智光秀関係地名)

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                  「日本歴史地名大系」京都府より作成

郷村の者が「当知行」を行っており、従来からの秩序を周辺郷村が証人となっている様子が読み取れる。奉行たちも周辺郷村への聴き取りを行ったうえで現状を追認するという裁定を行っている。つまり、在地の秩序に介入しないということである。

 

*1:山城国愛宕郡、上図参照

*2:山城国愛宕郡市原野、上図参照

*3:議論して相手を言い負かす

*4:市原郷が従来より差配している

*5:言いがかりをつける、虚偽の申し立てをする

*6:一向に、まったく

*7:物事の道理・理非を判断すること

*8:「御」は信長への敬意を表している。つまり信長の直臣

*9:混乱させる

*10:京都近郊の郷村なので「のぼる」という表現になったと思われる

*11:元亀2年カ

*12:山城国愛宕郡、上図参照。以下同じ

元亀元年12月27日蜂須賀彦右衛門宛木下秀吉自筆書状

  返々すくなく□□候へ共、まつ/\わたし候へく候、りやう*1

  お*2出し候へ共、一き*3おこり候間、物なり候間、其御心へ候

  へく候、いそき候て、たんせん*4の事、さいそく*5かたくさせ候

  へく候、此ほか不申候、

こめ十ひやう、ひくち*6ニ其方よりのたんせんかたのこめお*7御わたし候へく候、すくなく候へ共、事ハり*8御申候て、御わたし候へく候、恐々謹言、又申候、長右*9ニ五貫文のはつ*10にわたし候へく候、

  十二月廿七日*11          秀吉(花押)

 

(異筆)

「しか*12の御ちん*13のとし((年:朝倉・浅井と織田・徳川の合戦の年))

 

(ウハ書)

「(墨引) はちひこゑ*14  藤吉郎

         まいる 御中*15    」

 

 

           「豊臣秀吉文書集 一」37号文書、13頁、「豊太閤真蹟集」

 

(書き下し文)

 

 米十俵、樋口にその方よりの段銭方の米を御渡し候べく候、少なくそうらえども、断り御申し候て、御渡し候へく候、恐々謹言、また申し候、長右に五貫文の筈に渡し候べく候、

   返すがえす少なく□□そうらえども、まずまず渡し候べく候、

  領中を出しそうらえども、一揆起こり候あいだ、物成候あいだ、

  その御心得候べく候、急ぎ候て、段銭のこと、催促堅くさせ候

  べく候、このほか申さず候、

 

(大意)

米十俵、樋口直房にそなたより段銭として徴収した米をお渡し下さい。本来の量より少なかったとしても、その旨樋口に伝えたうえで、米をお渡しになって下さい。また、長右に5貫文(手間賃か)渡して下さい。

追伸。くれぐれも徴収すべき量より少なかったとしても、とにかく先に渡して下さい。荘園外へ持ち出すことができても、一揆が起こり、騒然とした状況であるので、よく心得、残りの段銭徴収催促を急いで下さい。

 

*1:

*2:

*3:揆、伊勢長島の一向一揆

*4:段銭:文字通り、田一段あたりに賦課する臨時の公事だったが、恒常化するのは世の常

*5:催促

*6:樋口直房:信長家臣で秀吉の与力。人名については谷口克広「織田信長家臣人名辞典」によった。以下同じ

*7:

*8:断り

*9:未詳、在地の徴税請負人か

*10:

*11:元亀元年

*12:近江国滋賀

*13:

*14:蜂須賀正勝:信長家臣で秀吉の与力

*15:オンナカ、「おんちゅう」と読むようになったのは明治以降

元亀元年11月20日相楽庄蔵方中宛木下秀吉書状

今度徳政*1之儀ニ付て、当庄*2之事守護不入*3之段申上、為御本所*4被仰付候処ニ、今更*5不能承引由候、近比*6不相届*7儀共候、所詮*8於背御本所者、堅可有御成敗候、光浄院*9折紙を相調進之候、謹言、

                 木下藤吉郎

   十一月廿日*10            秀吉(花押)

   相楽庄

    蔵方*11

                 「豊臣秀吉文書集 一」32号文書、12頁

 

(書き下し文)

 

このたび徳政の儀について、当庄のこと守護不入の段申し上げ、御本所として仰せ付けられ候ところに、今更承引あたわざるよし候、近比あい届かざる儀とも候、所詮御本所にそむくにおいては、堅く御成敗あるべく候、光浄院折紙をあいととのえ、これをまいらせ候、謹言、

 

(大意)

 

今回の徳政令につき、当庄は守護不入の地である幕府へ申し上げ、荘園領主である御本所であると仰せになったところ、急に承服しかねるとのこと。最近命に背くことといい、本所の命に背く場合は厳しく追及することとする。光証院へもその旨したためた折紙を送っている。

 

 

Fig. 山城国相楽郡相楽庄と大和興福地周辺図 

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「日本歴史地名大系」京都府より作成 

「蔵方」、つまり質取主への書状である。今回の徳政について、織田政権は摂津国平野荘*12大徳寺山城国賀茂郷、醍醐寺などに徳政の免除を認めている*13。やや文意が取りにくいところもあるが、蔵方が日頃から織田政権の指示に従っていない様子がうかがえる。信長の在地支配は道半ばと言ったところだろうか。

*1:元亀元年10月4日幕府が徳政を行った。また河内・山城をめぐり三好三人衆と秀吉が争い、奪還したばかりだった

*2:奈良興福寺領「サガラカノショウ」、山城国相楽郡、上図参照

*3:守護権が及ばない領域、守護の代官などが立ち入ることのできない土地。「守護使不入」などともいう

*4:興福寺

*5:突然

*6:チカゴロ、「比」は「頃」と同じ

*7:「届ける」で承知する、約束を果たす

*8:要するに、結局のところ

*9:興福寺塔頭の「光証院」か、もしくは近江国園城寺三井寺塔頭

*10:元亀元年

*11:質屋

*12:信長の「料所」=直轄地

*13:奥野「織田信長文書の研究」255、261、262号文書など

元亀元年8月19日東寺領上久世庄名衆百性中宛木下秀吉書状写

就東寺領之儀、先度信長被出朱印*1候之間、彼寺へ可納所由、則折紙進之処、寄事双*2于今無沙汰*3由不可然候、年貢諸成物等如有来候*4可寺納候、若於難渋者可令譴責候、為其折紙進候、恐々謹言、

   元亀元            木下藤吉郎

    八月十九日            秀吉

   東寺領上久世

    名衆百性中

                豊臣秀吉文書集 一」25号文書、10頁

 

(書き下し文)

東寺領の儀について、先度信長朱印を出され候のあいだ、かの寺へ納所すべきよし、すなわち折紙これを進らすところ、事を双によせ今に無沙汰のよししかるべからず候、年貢・諸成物など有り来り候ごとく寺納すべく候、もし難渋においては譴責せしむべく候、そのため折紙進せ候、恐々謹言、

 

(大意)

 東寺の荘園である上久世庄については、以前信長より東寺領の当知行を認める旨朱印状を与え、年貢諸役を東寺へ納めるべしとの折紙を差し出したところ、いまだあれこれと理由をいって年貢諸役を納めていないという。言語道断の所行である。従来通りに納めるようにしなさい。もしまたあれこれと困らせることがあれば、必ず責めを負わせる。そのために本文書を発給した。

 

 Fig. 上久世庄周辺図 「日本歴史地名大系」京都府より作成

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 上久世庄は一円型荘園の典型で、近世の上久世村にほぼ比定される。信長の朱印状によれば、足利家将軍家の御内書・下知状などによって東寺領であることが認められてきているのに、荘民はどうもこうした裁定に不満を持っていたようで、年貢などを滞納しているようである。業を煮やした秀吉は譴責をちらつかせつつ、信長の裁定に従うよう命じている、

*1:永禄12年4月21日東寺雑掌宛織田信長朱印状、奥野「織田信長文書の研究」177号文書、「大日本古文書 東寺百合文書 り」262号文書

*2:「左右」=ソウ、「左右に寄せて」で「あれこれと理由をつけて」の意

*3:東寺へ年貢などを納めていないこと

*4:従来通りに