<史料1>
当所*1之事、近年雖令宇津*2押領、今度被遂御糺明*3、永禄六年之誓紙・同七月廿三日任条数之旨*4、如前々対内藤藤五郎*5一途*6被(闕字)仰付*7、被成御朱印年貢諸公事物等、郷代*8江可致其沙汰之由、被仰出候也、仍状如件、
永禄拾弐
卯月十六日 丹羽五郎左衛門尉長秀
木下藤吉郎秀吉
中川八郎右衛門尉重政
明智十兵衛尉光秀
新庄 世木村 山科村
西田村 日置村 氷所村
田原村 大谷村 四万村
広瀬村
名主百姓中
「豊臣秀吉文書集 一」5号文書、3頁
(書き下し文)
当所のこと、近年宇津押領せしむるといえども、このたび御糺明を遂げられ、永禄六年の誓紙・同七月廿三日条数の旨に任せ、前々のごとく内藤藤五郎へ対し一途仰せ付けられ、御朱印ならるる上は、年貢・諸公事物など、郷代へその沙汰致すべきのよし、仰せ出だされ候なり、よって状くだんのごとし、
(大意)
丹波国山国荘について、近頃宇津頼重が押領しているとはいえ、このたび信長様が裁定し、永禄6年の誓紙および同年7月23日の条目の趣旨の通り、従来通り内藤貞弘に対して方針を命じ、信長様の朱印状が発給された以上、年貢・公事などを荘官へ納めるよう命じられたところである。以上である。
Fig. 充所郷村周辺図 (ただし、新庄と大谷村は複数見え特定できなかった)
<史料2>
禁裏御料所山国庄之事、数年宇津右近大夫押領仕候を、今度信長遂糺明、宇津ニ可停止違乱之由申付、両御代官へ信長以朱印申渉*9候、如前々為御直務*10可被仰付之由、御収納不可有相違候、宇津かたへも堅申遣候、此等之旨可有御披露*11候、恐々謹言、
木下藤吉郎
四月十六日 秀吉(花押)
丹羽五郎左衛門尉
長秀(花押)
中川八郎右衛門尉
重政(花押)
明智十兵衛尉
光秀(花押)
立入左京亮*12殿
「織田信長文書の研究」165号文書、上巻、279~280頁
(書き下し文)
禁裏御料所山国庄のこと、数年宇津右近大夫押領つかまつり候を、このたび信長糺明を遂げ、宇津に違乱停止すべきのよし申し付け、両御代官*13へ信長朱印をもって申し渡し候、前々のごとく御直務たるべく仰せ付けらるべきのよし、御収納*14相違あるべからず候、宇津方へも堅く申し遣し候、これらの旨御披露あるべく候、恐々謹言、
(大意)
皇室領山国庄のこと、ここ数年宇津頼重が押領していましたのを今回信長が裁定し、宇津に非法をやめるように命じ、両荘官に信長の朱印状によって命じました。従来のとおり直接支配されるようにとのことですので、年貢等の徴収は間違いなく行ってください。宇津の方にもきびしく申し付けますのでこの趣旨を朝廷にお伝えください。謹んで申し上げました。
<史料3>
此中申旧候禁裏御料所山国庄枝郷所々、小野*15、細川*16、*17如先規、自禁中可被仰付候旨、信長以朱印申渉*18候、聊不可有御違乱候、此旨各より可申旨候、恐々謹言、
丹羽五郎左衛門尉
四月十八日 長秀(花押)
木下藤吉郎
秀吉(花押)
中川八郎右衛門尉
重政(花押)
明智十兵衛尉
光秀(花押)
宇津右近大夫殿
御宿所
「織田信長文書の研究」166号文書、上巻、280~281頁
(書き下し文)
このうち申し旧り候禁裏御料所山国庄、枝郷所々、小野、細川、先規のごとく、禁中より仰せ付けらるべく候旨、信長朱印をもって申し渉し候、いささかも御違乱あるべからず候、この旨おのおのより申すべき旨に候、恐々謹言、
(大意)
従来から主張している禁裏御料所である山国庄(枝郷が所々に散在している、小野・細川)はこれまでどおり皇室領とすると、信長が朱印状によって申し渡したところである。いささかでもこれに背くことのないようにしなさい。この点署名している四名から直接伝えることになっている。恐々謹言。
3点の文書の署名に注目すると明智光秀が必ず一番「奥」に位置している。これはもっとも地位が高いことを示しており、若干流動的な他の3名と異なることを物語っている。
中世はこうした「押領」が常態化した社会であり、自力に訴え出ることも珍しくなかった。しかし、信長はみずから裁定を下し、朱印状を発給することでこの決定が有効であることを保証したわけである。
史料1は「名主百姓中」あてで、対立していた朝廷と宇津頼重以外の在地に宛てて文書を発給しているところは興味深い。荘園の支配権をめぐって争われているが、そこに住み耕作している者たちの存在感をうかがわせる文書である。