日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年7月5日島津義久宛/8月4日豊久宛/5日宛義弘豊臣秀吉知行目録を読む

秀吉は島津家へ天正15年和睦時に知行充行状を発給している。しかし具体的にどこの土地を与えたのかを記した知行目録は翌年まで待たねばならなかった。義久の在京賄料も同15年は米で与えていたが、16年には以下の村々をあてがっている。同様に豊久・義弘に日向国の知行目録も発給している。

 

<史料1>

    知行方目録

               摂州能勢郡

一、五百四拾弐石七斗        木代村

               同

一、五百四拾弐石七斗        切畑村

               同

一、四百弐拾壱石七斗四升      与野村

(一つ書き16ヶ条中略)

   都合壱万石

  天正拾六年七月五日(秀吉朱印)

       島津修理大夫入道とのへ*1

                 『豊臣秀吉文書集 三』 2542号文書、245~246頁

 

<史料2>

    知行方目録

一、参百町            都於郡院

一、八拾町            三納

一、八拾町            砂土原

 (一つ書き14ヶ条中略)

合九百七拾九町

天正十六年八月四日(秀吉朱印)

        島津又七郎とのへ*2

            『豊臣秀吉文書集 三』 2577号文書、262~267頁

 

<史料3>

   日向国知行方目録

        日向国諸県郡

一、五百五拾町    真幸院

        同

一、九拾町      救任院

        同

一、百六十町     救任郷

(一つ書き14ヶ条中略)

      都合千四百四町

  天正拾六年八月五日(秀吉朱印)

         羽柴薩摩侍従とのへ*3

 

              『豊臣秀吉文書集 三』2585号文書、267頁

 

義久の在京賄料、豊久・義弘の日向の知行地の分布を示しておこう。

 

Fig.1 義久在京賄料   国史大辞典」より作成

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Fig.2 天正16年豊久・義弘の日向国内の知行地 「日本歴史地名大系」宮崎県より作成

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                出典:2577~9、2581、2585号文書

 

 Table. 日向国知行面積割合

日向国知行割合  
領主 面積(単位:町) 比率
島津豊久 979.0 14.6
高橋元種 1687.0 25.2
秋月種長 898.9 13.4
伊東祐兵 1736.0 25.9
島津義弘 1404.0 20.9
  6704.9 100.0

ただし日向国全体の面積は不明なため、これだけで義久が誰かを通じて領土交渉をしていた報酬三分の一=金100枚にあたる「成功」目標に達していたかどうか判断できない。なお、秋月は島津方、高橋・伊東は豊臣方についていた。

 

史料1と2・3を比較すると次の2点が指摘できる。

 

1.史料1が石高表示なのにくらべて、2・3は面積表示である。

 

2.史料1の石高表示が「升」まで記載されているのに対して、2・3は町単位がほとんどである。

 

3.ここで使われている「町」が1反=360歩の10倍か、1反=300歩の10倍かがはっきりとしないものの、おそらく前者であろうと思われる。ちなみに肥後で佐々成政が発給した知行充行状には「段」の下に「丈」=「杖」*4が見られる*5

 

以上のことから、天正15年に秀吉と島津氏が和睦したのちも、日向・大隅・薩摩で本格的な検地は行われなかったようである。ただ、軍事的な障害となる「城」の破却は行っており、九州の状況をそのまま温存したわけではない*6。同年9月肥後国人一揆が起き、その鎮圧は翌年閏5月までと長期化していた。つまり在地には中世的な勢力が根づいていたわけで、検地は梅北国兼の蜂起を鎮めた天正20年以降となる。

*1:義久

*2:豊久

*3:義弘

*4:五分の一段=72歩

*5:天正15年10月1日山之上三名中宛佐々成政知行加増判物写「熊本県史料」中世篇2巻、田尻文書19号、648~9頁

*6:5月13日付2185~2187号文書に「豊前国の儀もいらざる城は割り、豊後と豊前のあいだに城ひとつ」と見える

慶長5年7月17日立花宗茂宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署副状写を読む

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この映像に次のようなナレーションが流れる。

<ナレーション>


この地(佐和山)で家康打倒の密談を行い、その罪を列挙した書状を諸大名に送ります

 

 しかし「罪を列挙した書状」そのものでなく、上記の文書を持ち出すのはやや不親切であろう。

 

まず、この文書を読んでみる。

(小切紙か)

急度申入候今度景勝発向*1之儀
内府公上巻之誓帋*2并被背(平出)
太閤様御置目秀頼様被見捨出馬候間
各申談及鉾楯*3内府公御違之条候
別帋*4ニ相見候此旨尤と思召(平出)
太閤様不被相忘御恩賞候者(平出)
秀頼様へ可有御忠節候恐惶謹言
          長束
   七月十七日   正家
 柳川侍従殿*5   増右
     人〻御中  長盛
          徳善
           玄以

(書き下し文)

きっと申し入り候、今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙ならびに、太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候あいだ、おのおの申し談じ、鉾楯に及び候、内府公御違の条候、別紙にあい見え候、この旨もっともと思し召し、太閤様御恩賞をあい忘れられず候わば、秀頼様へ御忠節あるべく候、恐惶謹言、 

(大意)

必ず申し上げます。このたびの会津攻めは、家康公が五大老五奉行連署した誓紙および太閤様のご遺言に背き、秀頼様を見捨てられ、出馬したので、われらで相談し、合戦に及ぶとの結論にいたりました。家康公が約束を違えたことは別紙にあるとおりです。この趣旨にご賛同くだされ、太閤様の御恩を忘れられないのでしたら、秀頼様へ御忠節を尽くしてください。謹んで申し上げました。

 

この文書は副状*6である。ではどの文書の副状か、下線部にあるとおり同じ日付で発せられた「内府ちがひの条〻」である。「条〻」とこの副状が一組で「筑紫古文書」に写し取られている。「大日本総合史料データベース」の同日の条を見ると、前田利長、筑紫広門、堀尾吉晴島津義弘あての文書が採録されている*7

 

また「義演准后日記」*8翌々19日条に「十三ヶ条数*9、流布し、一見しおわんぬ」とあり、「内府ちがいの条〻」が主役であることを物語っている。

 

「我々は相談し、家康との戦いに及ぶこととした」と解説するが、それでは単に私戦を企てることになり、豊臣政権の後継者を名乗ることができなくなる。その蜂起の正統性を示すのが「内府公御違之条候別帋」であり、副状であるこの文書を単独で扱うのは適切な取り扱いとはいえない。そもそも秀吉の「惣無事」を認める立場なら、自分たちの戦いが「公儀」であることを明らかにしなければならない。2通1組で解釈すべき所以である。

 

ただ「内府ちがひの条〻」の本文を扱うさい「五人之御奉行」*10「五人之年寄」*11の意味を丁寧に説明する必要があるので止むを得ないともいえる。

 

 

まとめておこう。

1.この文書を副状であることを踏まえずに解釈するのは危険である。

 

2.諸大名に檄を飛ばす以上は公儀の戦であることを示さなければ正統性は得られない。そこで「内府ちがひの条〻」の添状であることの意味が重要になってくる。

 

3.しかし、「内府ちがひの条〻」の解説は注意を要するため、こうしたナイーブな説明に傾くのももっともかもしれない。

 

 

*1:軍勢をもって攻め入ること、会津攻め

*2:誓紙、慶長3年9月3日五大老五奉行連署起請文、たとえば浅野家文書106号

*3:ホコタテ、合戦

*4:別紙、内府公御違之条

*5:立花宗茂

*6:一般には高貴な人の意を奉って文書を作成した右筆などが、別にその文書に副えて、それを発給したことを伝える書状形式の文書をいう。しかしこの文書の場合差出人は同じであり、本状を要約したものであるという点で異なる

*7:画像表示 - SHIPS Image Viewer

*8:義演は醍醐寺の第80代座主

*9:箇条書きにした文書

*10:いわゆる「五大老

*11:いわゆる「五奉行

天正15年5月9日島津義久宛/同25日義弘宛・久保宛豊臣秀吉朱印状を読む

<史料1>

日本六十余州之儀、改可進止*1之旨被(闕字)仰出之条、不残申付候、然而九州国分*2儀、去年相計処、背御下知*3、依猥所行*4、為御誅罰、今度関白殿*5至薩州被成御動座、既可被討果刻、義久捨一命走入間、御赦免候、然上薩摩一国被宛行訖、全令領知、自今以後相守(闕字)叡慮*6、可抽忠功事専一候也、

  天正十五年五月九日 (秀吉花押)

         島津修理大夫とのへ*7

            

                  『豊臣秀吉文書集 三』2183号文書、120頁

 

(書き下し文)

日本六十余州の儀、改めて進止すべきの旨仰せ出ださるの条、のこらず申し付け候、然りて九州国分の儀、去る年あい計るところ、御下知に背き、猥りの所行により、御誅罰のため、このたび関白殿薩州に至り御動座なられ、既に討ち果たさるべききざみ、義久一命を捨て走り入るあいだ、御赦免候、しかる上薩摩一国宛て行われおわんぬ、まったく領知せしめ、自今以後叡慮をあい守り、忠功を抽くべきこと専一に候なり、

 

日本全国の土地および人民はすべて秀吉の支配下にあると宣言した上で、天皇の命を受ける形で九州の国分けを行うとの下知を下した。その秀吉の命に不満だった島津氏は抵抗したものの、結局降伏し、義久に薩摩一国が安堵された。また在京賄料として上方に1万石を与えている*8

 

<史料2>

今度九州事被成御改替*9為新御恩地、大隅国被宛行之畢、全令領知、自今以後可忠勤、但肝付一郡*10儀、対伊集院右衛門大夫*11被遣之旨、従最前被仰出之条、速可引渡者也、

  天正十五

    五月廿五日(秀吉朱印)

       島津兵庫頭*12とのへ

 

            豊臣秀吉文書集 三』2202号文書、130頁

 

(書き下し文)

このたび九州のことお改め替えなられ、新御恩地として、大隅国これを宛て行なわれおわんぬ、まったく領知せしめ、自今以後忠勤すべし、ただし肝付一郡の儀、対伊集院右衛門大夫に対して遣わさるの旨、最前より仰せ出さるの条、速やかに引き渡すべきものなり、

 

義久に花押を使用しているのに対して、義弘には朱印を据えているところが目につく。義弘には「新恩」として肝属郡を除く大隅一国を与えている。なお下図を参照されたい。

 

Fig.1  大隅国肝属郡関係図 国史大辞典」より作成

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<史料3>

日向国真幸院付一郡之事、被宛行訖、全令領知、向後可抽奉公忠懃候也、

    天正拾五

      五月廿五日(秀吉朱印)

        島津又一郎*13とのへ

 

              『豊臣秀吉文書集 三』2203号文書、130頁

久保宛も朱印である。 「真幸院」は日向国諸縣郡の西部を指す。ただし、義久は日向一国を欲していたようで、交渉相手は不明なものの成功報酬の条件を日向一国=金子200枚、半国=150枚、三分の一=100枚と三通り提示している*14

 

Fig.2 日向国関係図   国史大辞典」より作成

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参考のため、薩摩国の地図も掲載しておく。

 

Fig.3 薩摩国関係図  国史大辞典」より作成

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以上のように、天正15年の九州攻めにおいて秀吉に降伏した島津義久、義弘、久保はそれぞれ知行を安堵された。ただし、義弘へは「新恩」つまりいったん秀吉が没収した上で改めて充行うという形式を踏んでいる。秀吉は一円知行を原則としていたが、島津氏には妥協的な対応をしたようである。

 

ところで、翌天正16年には知行目録を発している。これについては次回にしたい。

*1:土地、財産、人を支配すること

*2:大名間の領知を裁定すること

*3:秀吉の命

*4:秀吉の命に背いた島津家の行動

*5:秀吉

*6:天皇の意思

*7:義久

*8:同年10月14日義久宛朱印状、2354号文書、178頁。ただし「所付の儀は来春仰せ付けらるべく候、当年は物成半納分、八木(=米)五千石下され候」とあり、領知ではなく米をもって宛行っている。翌年7月5日摂津・播磨19ヶ村の知行目録を発している=2541~42号文書

*9:改易

*10:大隅国肝属

*11:忠棟

*12:島津義弘

*13:島津久保

*14:天正15年6月11日某宛島津義久条々『大日本古文書 島津家文書之三』1439号文書、247~8頁

天正20年8月14日細川藤孝宛豊臣秀吉朱印状を読む

去月廿四日之使札*1、今日十四日於大坂被加披見候、
一、祁答院*2成敗申付、 首共注文*3相添到来、神妙思召候事、
一、梅北*4一類残党妻子尋捜、悉至于名護屋相越、加成敗掛置*5由尤候事、
一、薩州・同出水并日向諸県郡検地之事、急度名護屋へ御帰座候之条、彼地ゟ

  可被仰聞候、但当年者時分可遅候哉之事、
一、義久知行沽却勘落事、被成御朱印候事、
一、島津蔵納、其外諸代官噯分相改、可遂算用事、
一、寺社領之事、先令内検地*6、当所務ゟ義久蔵納ニ可仕事、
一、其元之儀、弥入念可被申付候、委儀者名護屋ゟ可被仰聞候、猶木下半介*7・山中

  橘内*8可申候也、
    八月十四日(秀吉朱印)
        長岡二位法印*9

 

 

               『豊臣秀吉文書集 五』4234号文書、243~244頁

 


(書き下し文)

去る月廿四日の使札、今日十四日大坂において披見を加えられ候、
一、祁答院成敗申し付け、 首とも注文あい添え到来し、神妙に思し召し候こと、
一、梅北一類残党妻子尋捜、悉至于名護屋相越、加成敗掛置由尤候事、
一、薩州・同出水ならびに日向諸県郡検地のこと、急度名護屋へ御帰座候の条、かの地より仰せ聞けらるべく候、ただし当年は時分遅れるべく候やのこと、
一、義久知行沽却・勘落のこと、御朱印なられ候こと、
一、島津蔵納、そのほか諸代官噯い分あい改め、算用を遂ぐべきこと、
一、寺社領のこと、まず内検地せしめ、当所務ゟ義久蔵納に仕るべきこと、
一、そこもとの儀、いよいよ入念申し付けらるべく候、くわしき儀は名護屋より仰せ聞けらるべく候、なお木下半介・山中橘内申すべく候なり、

 

(大意)
先月二十四日の書状、本日十四日大坂にて読みました。
一、島津歳久を成敗するように命じたところ、首を注文に添えて届け、神妙なことです。
一、梅北国兼の縁者や残党、妻子を捜し出し、全員名護屋へ連れて行き、成敗した上磔刑に処したとのこと、もっともなことです。
一、薩摩・同国出水ならびに日向諸縣郡の検地について、必ず名護屋へ戻りますので、そこから命じます。
一、義久の土地のうち売却ずみのものを没収することについては、朱印状を発します。
一、島津家の蔵入地、そのほか代官たちが扱っている分をよく吟味し、きちんと精算するようにしなさい。
一、寺社領は、あらかじめ内検地をさせ、本年の年貢諸役から義久の蔵に納めるようさせなさい。
一、そなたのこと、念を入れるようにしなさい。詳しくは名護屋から命じます。なお、木下義隆・山中長俊が口頭で伝えます。

 

全6条あるうち、前回読んだ島津義久細川藤孝両名宛の同日付朱印状と異なる条文は、1条、2条、4条、6条と「内検地」という文言を記した5条である。

 

1条は義久、義弘の弟である歳久の首が届いたことを、2条は梅北国兼の親類縁者や残党、妻子を殲滅した旨書かれている。歳久は、秀吉の命に背いて出兵しなかったことや梅北一揆に荷担したと疑われたことで処罰されたのであるが、それを義久に伝えることはしなかったわけである*10

 

4条は、もともと島津家の土地だったものを売却処分したものを「勘落」するためには秀吉もしくは秀次の朱印状が必要だったことを示している。島津家だけの力ではむずかしかったのだろう。

 

6条は豊臣政権の代官として現地へおもむく藤孝への注意喚起である。

 

さて問題は5条の「内検地」である。これはおそらく「内検」=検注に近いものであろう。郷村へ検地役人を派遣して、田畠一筆ごとに丈量するということは時間的にも無理だったことから、作柄だけを見て今年の年貢算用に間に合わせるように、という趣旨であろう。「寺社領」とあることから寺社の権限がかなり強かったとも考えられる。

 

梅北一揆や歳久の独立した動向、寺社領の土地所持への権限の強さなど、このころの島津家領国はまだまだ中世的性格が強かったものと推測できる。

*1:使者に持たせる書状

*2:島津歳久

*3:討ち取った人名のリストを注文と呼ぶ

*4:国兼

*5:磔刑のことか

*6:「内検」のことか。作柄を検分すること。「当所務」と続くことから土地を丈量する通常の検地でなく、とりあえず今年の年貢収納に間に合わせるための調査。秀吉の文書には「作職」など荘園用語がしばしば見られる

*7:木下義隆

*8:山中長俊

*9:細川藤孝

*10:義久だけに宛てた同日付朱印状=4231号文書で歳久一類を成敗した旨伝えている

天正20年8月14日島津義久・細川藤孝宛豊臣秀吉朱印状を読む

      覚

一、島津義久并羽柴薩摩侍従*1蔵納*2分、近年沽却*3之田地

  田畠、悉勘落*4可仕候、則如元可為蔵入*5事、

一、寺社領*6之検地仕、当所務ゟ*7義久蔵入*8ニ可仕事、

一、島津家中諸代官*9算用之儀、可相改事、

右条々堅可申付候、若及異儀族有之者、可加成敗者也、

  天正廿年八月十四日(秀吉朱印)

           島津修理大夫入道とのへ*10

           長岡二位法印*11

                 『豊臣秀吉文書集 五』 4233号文書、243頁

 

(書き下し文)

     覚

一、島津義久ならびに羽柴薩摩侍従蔵納分、近年沽却の田地・田畠、ことごとく勘落つかまつるべく候、すなわちもとのごとく蔵入たるべきこと、

一、寺社領落の検地つかまつり、当所務より義久蔵入につかまつるべきこと、

一、島津家中・諸代官算用の儀、あいあらたむべきこと、

右の条々かたく申し付くべく候、もし異儀におよぶ族これあらば、成敗を加えるべきものなり、

 

(大意)

  覚

ひとつ、島津義久ならびに義弘の直轄地分、近年売却してしまった土地をすべて没収しなさい。そして元の通り直轄地としなさい。

ひとつ、寺社領の検地を行い、本年の年貢諸役の納入については義久の蔵にすべて納入しなさい。

ひとつ、島津家臣の知行地および代官の計算方法を改善しなさい。

右の条々きびしく命じます。もし反対する者がいたなら、成敗しなさい。

薩摩在国中の義久および秀吉の使者として派遣された細川幽斎に、売却などして島津家が失った土地を没収するよう命じたものである。また、島津家政への介入も行っている。

 

同日、秀吉は幽斎により詳細な朱印状を発している*12。その検討は後日行いたい。

 

*1:島津義弘、出陣中

*2:島津家の蔵入地、直轄地

*3:売却した

*4:土地を没収する

*5:「御」がついていないので島津家の蔵入地

*6:検地漏れした寺社領

*7:今年の所務沙汰から、今年の年貢納入から

*8:直轄

*9:「御」がついていれば秀吉の代官であるが、ないので島津家蔵入地を管理する代官

*10:島津義久

*11:細川藤孝

*12:同4234号文書