日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

近世における「仁徳天皇陵」の呼称

 Fig.1 大正14年写「大仙陵絵図」(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブ

f:id:x4090x:20190119190117j:plain

http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010999

 ③の左真ん中あたりに囲ってある部分がある。

 

裏書*1

大仙陵絵図  堺御番所*2之通南定右衛門*3

       享保年中之写

 

(書き下し文)

裏書き 大仙陵絵図 堺御番所のとおり南定右衛門写す、享保年中の写

 

(大意)

裏書き 大仙陵の絵図面、堺奉行所が描いたとおりに南定右衛門がこれを写し取りました。原本は享保年間に描かれました。

 

 

この絵図面は享保年間に堺奉行所が描かせたものをもとに、大正14年に写したものである。おおむね享保年中の仁徳天皇陵に対する認識が反映されているものと考えてよいだろう。

 

この絵を見た第一印象は思いのほか起伏に富んだ、険しい山というものである。空撮のゆるやかな丘というイメージになれた現代人には理解しがたいところがある。ただし、これを写実的に描いたと解釈するのは危うい。絵図は地図*4でなく、極度にデフォルメされることが当然だからである。これ以上絵図全体の印象から踏み込むことは慎むこととする。

 

さて、①「大仙陵 惣町歩 大概31町8畝6歩」と②「仁徳天皇御廟所 竹垣惣廻り60間」と書き分けられているところが興味深い。「大仙陵」は面積で、一方「仁徳天皇御廟所」は竹垣の周囲の長さで表現されており、この両者が区別されていたことがわかる。

 

また④には水門が描かれているが、堀は農業用水につながっていた。図の左にも用水路が描かれているが、こちらは狭山池*5までつながっている。

 

Fig.2 同上デジタルアーカイブ 「狭山池より大仙陵池迄用水路図」

f:id:x4090x:20190125193106j:plain

 http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0011028

 

また明治6年堺県令税所篤が地元に絵図を提出させている。

Fig.3  堺市史』第1巻、本編一、第21図版

f:id:x4090x:20190125193211j:plain

 堺市史. 第1巻 本編第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション 117コマ目

 

「印」と書かれているので絵図の写か控えである。原本は当然堺県へ提出されたであろう。①と②の文字の位置に注目されたい。「仁徳天皇」とある書き出しが「反別」よりも一字分上に位置する。これは貴人に対する敬意表現で擡頭と呼ぶ。

 

「絵図」とあるものの実測図に近いといえる。また「御廟」という表現も残されている。

 

最後に文久修陵の際に作成された絵図を見ておこう。

Fig.4 同上デジタルアーカイブ「小笠原様大仙陵拝参海岸順路図」

f:id:x4090x:20190126130941j:plain

http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010982

 

②に「大仙陵御廟へ御参詣につき」とある。

③は「仁徳天皇陵」が「俗に大仙陵と言う」とあり、世間的には「大仙陵」として知られていたことがわかる。ちなみに履中天皇陵や反正天皇陵にも「俗に・・・ト言フ」と一般に呼び習わされていた呼称が書かれている。

 

追記 2019/01/26

外池昇「「文久の修陵」と年貢地」によれば仁徳天皇陵の修陵がはじめられたのは元治元年9月である。146頁*6

 

*1:絵図や裁許状などに書かれるお墨付き、根拠のあることを「裏書きする」と現在でも使う

*2:番所奉行所の意、堺奉行のこと

*3:未詳、おそらく絵師と思われる

*4:もっとも、地図もデフォルメされたものである

*5:河内国丹比郡

*6:「文久の修陵」と年貢地