『中世法制史史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』107頁、山中文書
惣國一揆掟之事
(9条)
一、前〻大和より對当國へ、不儀之働数度有之事に候間,大和大将分牢人*1許容あるましく候事、
(10条)
一、当國之儀ハ無恙相調候、甲か*2より合力之儀専一ニ候間、惣國出張として伊賀甲かさかへ*3目ニ□□*4、近日野寄合あるへく候、
右掟、連判を以定所如件、
霜月十六日
(補註)天文21年以降、永禄10年までの間とされる。
(書き下し文)
惣國一揆掟の事
(9条)
ひとつ、前々大和より当國へ対し、不儀の働き数度これあることに候あいだ,大和大将分牢人許容あるまじく候こと、
(10条)
ひとつ、当國の儀はつつがなくあいととのい候、甲賀より合力の儀専一に候あいだ、惣國出張として伊賀甲賀境目(地図参照)に出合い,近日野寄合あるべく候、
右の掟、連判をもって定むるところくだんのごとし、
十一月十六日
(大意)
(9条)
ひとつ、以前から大和国から当伊賀国に対して、たびたび不審な動きが見られるので,大和の大将たちの牢人を当国へ入れてはならない。
(10条)
ひとつ、当伊賀国は心配なく整った状態である。甲賀との協力に専念するので、伊賀惣国の出張として、伊賀と甲賀の国境に集まり,近日中野外での集会が開かれることになっている。
右のおきて、連帯署名をもって定めるところは以上の通りである。
11月16日
(補註)第十条「大和大将分牢人許容あるましく候事」の「大和大将」は宇陀郡の三人衆沢・秋山・芳野氏らであろうという(石田善人「甲賀郡中惣と伊賀惣国一揆」『史窓』21号)。353頁
ここでは、かつて「大和大将」と主従関係を結んだもののそれを解消し、伊賀国へ主家を求めて入国してくる者どもの意。
こういった文言が加えられているということは、伊賀国に相当数の牢人が流入するおそれが現実にあったことの反映であり、また彼らの流入が一揆としての結びつきに悪影響を及ぼすと警戒されていたことを示すものである。
伊賀近江国境
伊賀国周辺国