日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年1月19日加藤嘉明宛(カ)豊臣秀吉定写(4/止)  

 

 

一、其国〻其在所堤以下あらは、正月中農作に手間不入折から可加修理、但其堤大破之時、給人百姓不及了簡*1者、達(闕字)上聞為(闕字)上可被仰付事*2

 

一、小袖御服*3之外ハ絹うら*4たるへし、但俄には不可成之条、ともうら*5の事、四月一日わたぬき*6たる間、其よりのち絹うらたるへき事、

 

一、諸侍*7しきれ*8はく*9事、一切停止也、御供之時は足なか*10たるへし、中間・こもの*11ハ不断*12可為足半事、

 

一、はかま*13・たひ*14にうら付へからさる事、

 

一、中間・小者革たひはくへからさる事、

 

右条〻若有違犯*15之輩者、可処罪科者也、


 天正十四年正月十九日 御朱印

 

(書き下し文)

 

一、その国々その在所堤以下あらば、正月中農作に手間いらざる折から修理を加うべし、ただしその堤大破の時、給人・百姓了簡に及ばざれば、上聞に達し上として仰せ付けらるべきこと、

 

一、小袖御服のほかは絹裏たるべし、ただしにわかには成るべからざるの条、共裏のこと、四月一日綿抜たるあいだ、それより後絹裏たるべきこと、

 

一、諸侍尻切れ履くこと、一切停止なり、御供のときは足半たるべし、中間・小者は不断足半たるべきこと、

 

一、袴・足袋に裏付くべからざること、

 

一、中間・小者革足袋履くべからざること、

 

右の条〻もし違犯の輩あらば、罪科に処すべきものなり、

 

(大意)

 

一、その国々や郷村に堤などがあれば、正月中の農閑期から修理をしなさい。ただし大破したときなど給人や百姓の手に負えない場合は秀吉まで申し出で、その裁可を仰ぎなさい。

 

一、小袖のほかは絹は裏地としなさい。ただし急には無理だろうから、裏地は四月一日に綿抜するので、それ以後に絹を裏地にすること。

 

一、侍は尻切れを履くことを一切禁じる。奉公主にお供するときは足半を履きなさい。中間・小者はつねに足半を履くこと。

 

一、袴や足袋に裏地を付けないように。

 

一、中間や小者は革足袋を履いてはならない。

 

右の条文に違反した者がいたなら、罪科に処すものである。

 

 

 

 ①は領主の勧農を端的にあらわす条文である。堤などの修理は一給人の領地の範囲を超える場合が予想される。そうした場合の差配や費用負担、人員の動員など秀吉という「公儀」に申し出で、裁可を仰ぐよう説いたものである。

 

②から⑤は奉公人のうち戦闘員である「侍」と非戦闘員たる「中間」、「小者」の区別がつくようドレスコードを定めた条文である。

 

このうち難しいのが③の「尻切れを履くな。供するときは足半を履け」という部分である。今日的には足半は足の前半部分にのみ底のあるわらじをいうが、「尻切とは足半のことである」という文献もありはっきりしない。

 

若き宮本常一も参加した1930年代のアチック・ミューゼアムの調査によれば、利用者の話とともに現物を蒐集し、あわせてタテヨコの長さを計測し、結び方を分類し、呼称の異同を集めるなど民俗学的標本調査と文献史学的検討を加えている(アチックミューゼアム編「所謂足半(あしなか)に就いて」『彙報』第九、1936年。国会図書館デジタルコレクションからダウンロード可能)。

 

同報告書では秀吉によるこの規定を、かつては貴人に供をする者たちはみな足半を履いていた作法を「古法」と呼ぶなど廃れていたので、綱紀粛正を図ったとしている。

 

 

 

つけたり  暦法について

 

1. 古代ローマの暦=太陰暦、太陰太陽暦

 紀元前8世紀ころローマでは1年を304日=10ヶ月とする太陰暦を採用していた。太陰暦は「月」の満ち欠けの1周期(平均29.53日)を「ひと月」(朔望月)とする暦法である。その後この不備を補うべく第十一月29日、第十二月28日を加え、下表のように日数を調整して1年=355日とした。ただこのままでは季節とズレが生じるので第12月の第23日と第24日のあいだに、2年ごとに22日間もしくは23日間の1ヶ月、つまり閏月を加えて調節した。この閏月をMercedinus(メルケディヌス)またはMercedonius(メルケドニウス)と呼ぶ。

 

Table.1 古代ローマの暦

 

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2. ユリウス暦=太陽暦

ユリウス・カエサルはガリアとの戦争で閏月を等閑にしたため、紀元前47年には暦が実際の季節より2ヶ月以上も進む異常事態に陥った。彼をこれを調整するため、翌紀元前46年閏月とさらに2ヶ月を加えたが、かえって1年=445日となるさらなる混乱を招いた。

そこでエジプトの暦学者を顧問とし、1年=365.25日とする太陽暦を採用した。平年を365日、4年に一度閏日を設け366日とする今日の暦に似た暦である。この時第11月Janualius(ヤヌアリウス)を第1月とした。

 

3. グレゴリオ暦=太陽暦の改良

ユリウス暦によって閏日を設けても100年で18時間、1000年で8日弱のズレが生じる。16世紀終わり頃にはその差が10日にも達した。そこで「4で割りきれる年に閏日を加えるが、100で割った商が4で割りきれない年は平年とする*16。閏日は2月28日の翌日とする」現在の暦法に切り替えた。これにより1年=365.2425日となる。

 

4. 旧正月

 太陰暦の欠点を補うために採り入れられたのが、季節を左右する日照時間の長短、すなわち太陽の運行を二十四等分した二十四節気である*17。「節分」とは「季かれ目」の意味で立春、立夏、立秋、立冬の前日、とくに立春の前日を指す。春は1月から3月である。年賀状などで「新春」、「迎春」などと正月を「春」と称するのはこの名残である。

 

日本では旧正月という言葉が聞かれなくなって久しいが、いまでも旧正月を祝う地域は多い。1968年1月30日正月休戦の夜、北ベトナム側(ベトナム民主共和国=首都ハノイ)が南ベトナム側(ベトナム共和国=首都サイゴン)に奇襲をかけた「テト攻勢」(Tet Offensive)の「テト」とは旧正月のことである。

 

 5. 京暦と地方暦

富士山の噴火や貞観地震をはじめ全国が天災に見舞われていた貞観年間(9世紀)より宣明暦が採用された。これは貞享年間(17世紀後半)まで使用された暦で、もとは唐の暦法だった。1太陽年を365.2446日としたので800年後には2日ズレていた。こうした朝廷の用いる暦(京暦)に対して、地域ごとにさまざまな暦が存在した。なかでも有名なのは三島暦*18で、14世紀熱海に滞在した鎌倉の義堂周信が応安7年3月4日の条に「三島暦はこの日をもって上巳節(3月3日)となす」と記したように、周信が持ち歩いていた京暦と1日の「時差」があった。

「北条五代記」には北条氏政が三島暦と大宮暦*19のうちから前者を採用するにいたった経緯が記されている。つまり小田原北条氏の領国は京暦ではなく、三島暦が正式な暦だった。

 

6. 織田信長の改暦申入事件 

三島暦では天正10年末に閏12月を加えることになっていたが、京暦では天正11年に閏1月を設ける予定であった。

 これに関連して有名なのが織田信長が朝廷に改暦を申し入れた事件である。これを朝廷の専権事項をおびやかす中世的権威の否定とする前世紀的解釈と、むしろ朝廷の権威を強化するためのサジェスチョン、つまり中世的権威の回復とする今世紀的解釈にわかれるがここでは措く。重要なのは三島暦をはじめ、尾張の暦(「晴豊公記」)や美濃の暦(「兼見卿記」)といった地域の実情に合ったさまざまな暦が存在していたことである。信長が横死したこともあり、既定通り下表のように1ヶ月後の天正11年1月の後に「閏1月」が設けられた*20。よって天正10年は1年355日同11年はこれに閏月29日分を加えた1年384日となる。ちなみに同じ癸未(みずのとひつじ/キビ)の年、明では万暦11年2月の後に「閏2月」が加えられた。「万暦」は島津家文書で目にする年号である。ただしこれらはいずれも「公式の」暦にすぎず、実際に誰もがそれを用いていたことにはならない。

 

Table.2 天正10秋冬~同11年カレンダー

 

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たんなる偶然だが、上述したように同じ頃ローマカトリック教会でも、1582年10月4日(木曜日)の翌日金曜日を10月15日とするグレゴリオ暦(グレゴリウス暦)に切り替えている。しかし実際にはカトリック地域は1580年代と早く、プロテスタント地域は18世紀、東欧・バルカン地方(東方正教会地域)にいたっては1918~1920年とソヴィエト連邦出現を待たねばならなかった*21。一般への普及はさらに遅れたことだろう。今日グリニッジ標準時ないしは協定世界時からの時差を加減する(東経は加え、西経は減ずる)ことで世界は単一の暦にしたがっている。しかしその「統一された暦にしたがう時間の流れる世界」の登場はようやく第一次世界大戦終結後、「スペインインフルエンザ」が猖獗を極めていたわずか1世紀前のことで、人類史的にはごく最近の習慣にすぎない*22。 

 

*1:とりはからい、処置。ここでは給人や百姓の手に余ればの意

*2:山鹿素行『武家事紀』など写により闕字としていないものもあるが、「上聞」、「上」いずれも秀吉の意思決定を指す

*3:絹でできた綿入れ。「ワタ」には繭から取れる「真綿」・「絹綿」(綿)と綿の木から取れる「木綿」(棉)がある

*4:裏。絹は裏地のみとするの意

*5:共裏。衣服の裏地に表地と同じ布や色を使うこと

*6:「綿抜」。4月1日、綿入れから袷(あわせ)に衣替えすることで、夏の季語。難読名字の代表例「四月朔日」(ワタヌキ)はこれに由来する

*7:奉公人のうちの戦闘員。後半の「中間」「小者」に対する呼称

*8:尻切。事典類により「足半」と同じとするものもある。後述

*9:履く

*10:「日葡辞書」には「Axinaca」とは「日本式の藁製の履物で、足裏の半分だけにかかるもの」とある。後述

*11:小者。中間とともに奉公人として仕える非戦闘員

*12:ふだんから、日常、常に。「普段」とも

*13:

*14:足袋

*15:イボン

*16:e.g.1800年は100で割ると18。18を4で割ると4.5。整数の範囲内では割り切れない。よって1800年は平年

*17:もちろん割り切れない

*18:伊豆国田方郡

*19:武蔵国足立郡大宮氷川神社

*20:上杉景勝発給文書には天正10年閏12月のものもある

*21:歴史学研究会編『世界史年表』「付録1 世界の暦」400頁。キリスト教文化圏のうち、もっとも遅いブルガリアは1920年9月17日の翌日を同10月1日としグレゴリオ暦に移行した。日本は明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とすることで「太陽暦」に切り替えた。明治5年11月9日太政官布告342号「今般太陽暦ご頒行、神武天皇御即位をもって紀元と定られ候につき、その旨を告げさせられ候ため、来たる二十五日、御祭典執り行われ候こと」、同11月19日外国公使、領事宛「十一月十九日達す/今般暦法を改めさらに太陽暦相用い、来たる十二月三日をもって一月一日と相定め申し候、もっとも紀元の儀は神武天皇即位紀元二千五百三十三年明治六年と相唱え申し候、この段お心得までご報知に及び候、敬具」

*22:なお天文学などでは紀元前1年を計算上「紀元0年」とし紀元前2年を「-1年」、紀元前3年を「-2年」、紀元前n年を「-(n-1)年=(1-n)年」とするらしい