日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元号についてひとこと

日本史を勉強する上で元号は避けて通ることはできない。ただ読み方が必ずしも一様ではないことは知っておいた方がよいと思う。

 

戦国期の「天文」は「てんもん」派と「てんぶん」派に分かれる。日本語入力で右に出るものはいないJ社のソフトAでは「てんぶん」「てんもん」ともに変換可能である。

 

近世の「宝暦」は「ほうりゃく」の方が優勢のようだが同じくJ社のソフトでは「ほうれき」でないと変換できない。あるテレビ番組で偶然映り込んだ石碑に「宝歴」とあるのを見たことがあるので当時のひとの中にも「ほうれき」派がいたように思われる。

 

もっとも最近広告代理店は「暦」と「歴」を区別できないらしく、テレビCMで「○○暦」としばらく間違って放送していたくらいである。「彼女いない暦」などといおうものなら、「彼女がいなくなった時を起点として次に彼女ができるまでを1年とするこよみ」という意味になる。

 

「ショウワ」といっても「正和」もあるし一対一対応とは言いがたい。「年号と朝廷」という企画展が国立歴史民俗博物館で終わったばかりだが、その原因に漢音と呉音の問題があるという。「慶長」は当時「ケイチョウ」でなかったらしい。

 

 

複数の元号が使われていたのは南北朝期だけではない。中世東国では「弥勒」などの私年号も使われていたし、近代でも「征露元年」「自由自治元年」(前者は日露戦争時、後者は秩父事件)という私年号が使われたこともあった。

 

ところで頭文字でM,T,S,H以外が有力という声も聞くが、慶応生まれのひとが存命中だった頃にKという選択肢がなかったのはなぜだろうか?「K,M,T,S」ではなく「M,T,S」だったのはなぜだろうか?

 

いまだに頭を悩ます大きな疑問である。