日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

【改訂版】明治5年大蔵省編纂『改置府県概表』に見える3府298県から3府71県への再編成

 

明治5年8月大蔵省により編纂された『改置府県概表』を一覧表にした。なお、もともとの持ち主が朱で追記をしているのを「備考欄」にできるだけ反映させ、より新しい府県も確認できるよう努めた。

 

改定箇所   2022年7月15日

「ひとつのセルにひとつの情報」という原則があることを知り、宗旨替えした。

 

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docs.google.com

 

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(6/止)

 

一、むつのかみ*1肥後ニ有之者共曲事ニあらす候間*2、其ぶん/\*3知行可被下候条、くまもとに堪忍可仕事*4

 

 天正十六年

   後五月十四日*5 (朱印)

         小早川左衛門佐とのへ*6

 

(三、2506号。なお読点の位置を文書集と一部替えた

 

 

(書き下し文)

 

一、陸奥守、肥後にこれある者ども曲事にあらず候あいだ、その分その分に知行下さるべく候条、熊本に堪忍仕るべきこと、

 

(大意)

 

一、肥後にいる地侍たちに落ち度があったわけではなく、それぞれ分相応に知行地を与えていたので、成政は熊本で折り合いをつけながらうまくやっていくべきだった。

 

 

 

くどいが天正16年の暦を掲げておいた。小の月が6ヶ月、大の月が7ヶ月あるので年間日数は

   (6ヶ月*29日間/月)+(7ヶ月*30日間/月)=384日間

となり、大晦日は12月29日である。史料では各月末日を「晦日」と記すので29日なのか30日なのか逐一確認する必要がある。一方ユリウス暦、グレゴリオ暦の1588年はともに366日間で、大晦日は12月31日である。天正16年と1588年の1年間の日数差は18日間で天正16年の方が長く、平年だと354~355日間となり逆に10~11日程短くなる。閏年の周期がそもそも異なるので比較すること自体に意味はもちろんない。

 

Table.1 天正16年カレンダー

「大小」は1が大の月を、0が小の月を表す。またグレゴリオ暦、ユリウス暦の日付は和暦各月1日にあたる。

本文に入る前に同日付文書の充所一覧を掲げておいた。これだけ大量にあると長文なだけに文言の異同も多いが趣旨は異ならない。

 

Table.2 閏5月14日付発給朱印状充所一覧(再掲)

下線部では秀吉みずからが本領を安堵したり、新恩を給与した肥後の地侍たちに非はなく、成政の仕置に問題があったと述べている。

 

これだけ長々と大名たちに充てて述べているところから、本文書は成政の処罰を「私怨によって専横的に行った」との印象だけは避けたかったと考えられる。言い換えればこの処罰がいかに「公平に、公儀として」行われたものであるかを強調しているわけである。成政の処分は豊臣政権にとってかなりセンシティブな問題だったのであろう。

 

秀吉による印象操作が奏功したかどうかについては分からない。また現実には重臣たちによる合議制ではなく、秀吉による専制的支配が行われていたと見るべきだろう。

 

それにしても書面で自身を「殿下」と呼び、「思し召され」などと自敬表現を多用する秀吉が、実際に対面する場で大名たちにどのような言葉遣いで話しかけていたのか気になるところである。

 

似たような疑問を抱いたのはブログ主だけではなさそうで、牧英正氏は次のように指摘している。

 

 

最後に、永正15(1518)年に成立した『閑吟集』の中から小歌をひとつあげておこう。

 

  人かひ舟は沖をこぐ、とても売らるる身を、ただ静かに漕げよ、船頭殿

 

豊臣秀吉は北条征伐の小田原陣のおり、家康等と酒席でこの唄をうたったという。どのような顔でうたったのであろうか

 

(牧英正『人身売買』岩波新書、1971年、46頁。なお下線による強調は引用者)

 

 

*1:佐々成政

*2:肥後の地侍の者たちに非があったのではないので

*3:分相応に

*4:熊本でなんとかうまくやっていくべきであった

*5:天正16年閏5月14日はグレゴリオ暦1588年7月7日、ユリウス暦1588年6月27日

*6:隆景

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(5)

 

 

右之曲事条〻雖有之、其儀をかゑり見させられす、肥後国被仰付候に、月を一ヶ月共不相立、国ニ乱をいてかし*1候儀、(闕字)殿下迄被失御面目候間、御糺明なしにも、むつのかミ*2腹をきらせらるへきと被思召候へ共、人の申成も有之かと被思召、浅野弾正*3・生駒雅楽*4・蜂須賀阿波守*5・戸田民部少輔*6・福島左衛門大夫*7・加藤主計頭*8・森壱岐守*9・黒田勘解由*10・小西摂津守*11被仰付、右之者共人数二三万召連、肥後国へ為上使被遣、くまもとニ有之陸奥守をハ曲事ニ被思召候間、先八代*12へ被遣、国之者共をハ忠不忠をわけ、悉可刎首由被仰遣候処、又候哉、むつのかミ上使二も不相構、大坂へ越候間、如一書条〻曲事者候条、尼崎*13ニ追籠、番衆を被付置、つくし*14へ被遣候上使帰次第、各国之者共成敗之仕様をも被聞召、其上にて陸奥守をハ国をはらハせられ候歟*15、又者腹をきらせ候歟、二ヶ条に一ヶ条可被仰付と被思召候処、肥後事ハ不及申、九州悉相静、国人千余刎首、其内ニ大将分百計大坂へもたせ上候、然者喧嘩*16のあい手国〻者共刎首、むつのかみあいたすけさせられ候へ共、殿下御紛かと国〻のもの共存候へ者*17、如何被思召候条、不便なから後*18五月十四日、陸奥守ニ腹をきらせられ候事、

 

(書き下し文)

 

右の曲事の条〻これあるといえども、その儀を顧みさせられず、肥後国仰せ付けられ候に、月を一ヶ月とも相立たず、国に乱を出でかし候儀、殿下まで御面目を失われ候あいだ、御糺明なしにも、陸奥守腹を切らせらるべきと思し召されそうらえども、人の申すなりもこれあるかと思し召され、浅野弾正・生駒雅楽・蜂須賀阿波守・戸田民部少輔・福島左衛門大夫・加藤主計頭・森壱岐守・黒田勘解由・小西摂津守仰せ付けられ、右の者ども人数二三万召し連れ、肥後国へ上使として遣わされ、隈本にこれある陸奥守をば曲事に思し召され候あいだ、まず八代へ遣わされ、国の者どもをば忠不忠を分け、ことごとく首を刎ねるべき由仰せ遣わされ候ところ、またぞろや、陸奥守上使にも相構わず、大坂へ越し候あいだ、一書条〻のごとく曲事者に候条、尼崎に追い籠め、番衆を付け置かれ、筑紫へ遣わされ候上使帰り次第、各国の者ども成敗の仕り様をも聞し召めされ、その上にて陸奥守をば国を払わせられ候か、または腹を切らせ候か、二ヶ条に一ヶ条仰せ付けらるべしと思し召され候ところ、肥後のことは申すに及ばず、九州こごとく相静まり、国人千余首を刎ね、そのうちにて大将分百ばかり大坂へ持たせ上り候、しからば喧嘩の相手国〻の者ども首を刎ね、陸奥守相助けさせられそうらえども、殿下御紛れかと国〻の者ども存じそうらえば、いかが思し召され候条、不便ながら後五月十四日、陸奥守に腹を切らせられ候こと、

 

(大意)

 

以上述べてきたように成政には落ち度が多くあったが、その点には目をつぶって肥後国を与えてやった。しかし1ヶ月と経たずに一揆を起こすような悪政を行い、関白たるこのわたしの面目も丸つぶれである。したがってことの真偽を確かめるまでもなく成政に死を賜るべきと考えもしたが、人があれこれ言いかねないので浅野長吉・生駒親正・蜂須賀政家・戸田勝隆・福島正則・加藤清正・毛利吉成・黒田孝高・小西行長に2~3万の者をつけ、肥後国へ上使として派遣した。熊本城の成政に落ち度があると思い、まずは八代へ彼らを派遣し、地侍などのうち豊臣政権に忠誠を誓う者とそうでない者に分け、そうでない者は全員頸を刎ねるべきであると命じた。ところがまたもや成政は派遣した上使に無断で上坂してきたので、これまで述べたように何分曲者であるので尼崎に蟄居させ、見張りをつけ、九州へ派遣した上使が帰坂し次第、地元の者たちへの扱いを報告させた上で、肥後国を取り上げるだけにするか、あるいは腹を切らせるかふたつにひとつと考えていた。そうこうしているうち肥後はもとより九州全体の反乱を鎮圧し、国衆たち千人余りの頸を刎ね、そのうち大将クラスもの百ばかりの首を大坂へ運ばせることで決着した。このように戦争の相手の頸を刎ね、成政だけを助けたとなれば、「関白殿下はどうかしてしまったのではないか」と地侍たちも思うだろうから、不憫ではあるが閏5月14日成政に切腹を命じたのだ。

 

 

 

本箇条では秀吉が成政の処遇についてあれこれと思いあぐねていたと述べている。成政に落ち度は多くあるが、それなりに名声もある。しかし肥後の者たちへの苛烈な処罰に対して成政を助命したとすればその正当性が疑われかねず、「不便ながら」と述べている。本心から「不憫」と感じているかはともかく、成政への処罰が正当であることを長々と述べていることと、その切腹当日の日付で発せられている迅速さからこの成政処遇問題は豊臣政権の「公儀」性をうらなう試金石となったようである。

 

*1:出でかし

*2:佐々成政

*3:長吉、のち長政

*4:親正

*5:家政

*6:勝隆

*7:正則

*8:清正

*9:毛利吉成

*10:孝高

*11:行長

*12:肥後国八代郡

*13:摂津国川辺郡

*14:筑紫、九州のこと

*15:「国を払わす」で追放する、知行地を取り上げるの意

*16:戦争

*17:成政を助命すれば、秀吉がおかしくなったとみな思うだろうから

*18:

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(4)

 

一、御開陣之刻、国人*1くまもとの城主*2・宇土城主*3・小代之城主*4かうべをゆるさせられ*5、堪忍分を被下、城主女子共ニ大坂へ被召連*6、国ニやまい*7のなき様ニ被仰付、其外残の国人之儀、人質をめし被置*8、女子共陸奥守有之在くまもと*9ニ被仰付候処、国人くまべ但馬*10豊後*11と令一味、日来無如在者*12之儀二候間、本知*13事ハ不及申、新知*14一倍*15被下ものゝ所へ、大坂へ一往之御届不申、陸奥守取懸*16候に付て、くまべあたまをそり、陸奥守所へ走入候之処、其子式部太輔*17親につられ候とて山賀之城*18へ引入在之、国人并*19一揆をおこし、くまもとへ取懸候て、陸奥守及難儀候間、小早川*20・龍造寺*21・立花左近*22を始被仰付、くまもとへ通路城へ兵粮入させられ候へ共、はか*23不行ニ付て、毛利右馬頭*24被仰付、天正十六年正月中旬、寒天之時分如何雖被思召候、右之人数*25被仰付、肥後一国平均ニ罷成候事、

 

 

(書き下し文)

 

一、御開陣の刻、国人熊本の城主・宇土城主・小代の城主頭を赦させられ、堪忍分を下され、城主・女子ともに大坂へ召し連れられ、国に病のなきように仰せ付けられ、そのほか残りの国人の儀、人質を召し置かれ、女子ども陸奥守これある在くまもとに仰せ付けられ候ところ、国人隈部但馬、豊後と一味せしめ、日来如在なき者の儀に候あいだ、本知のことは申すに及ばず、新知一倍下されもののところへ、大坂へ一往の御届申さず、陸奥守取り懸かり候について、隈部頭を剃り、陸奥守ところへ走り入り候のところ、その子式部太輔親に釣られ候とて山賀の城へ引き入れこれあり、国人并び一揆を起こし、熊本へ取り懸かり候て、陸奥守難儀に及び候あいだ、小早川・龍造寺・立花左近をはじめ仰せ付けられ、熊本へ通路城へ兵粮入れさせられそうらえども、捗行かざるについて、毛利右馬頭仰せ付けられ、天正十六年正月中旬、寒天の時分いかが思し召され候といえども、右の人数仰せ付けられ、肥後一国平均に罷り成り候こと、

 

(大意)

 

一、島津攻めを始めたころ、国衆である熊本城主城久基、宇土城主名和顕孝、小代城主小代親泰の刎頸を赦し、本領安堵し、城主妻子ともども大坂へ住まわせ、国に憂いのないように命じ、その他の国衆は人質を成政の居城である熊本に住まわせた。ところが隈部親永が「豊後」と同心して一揆を起こし、日頃から手落ちのない者と見込んで、本領はもちろん新知行地も与えたのに、大坂へ訴え出ることもせずいきなり成政が攻めかかり、親永が剃髪して成政のもとへ駆け込んできた。しかし親永の子親泰が親の軽挙に釣られて山鹿城へ立て籠もり、国衆らと一揆を起こし、熊本城へ攻めかかり、成政は難渋していた。そこで隆景、政家、宗茂らに出陣を命じ、熊本への通路を確保させ兵粮を補給したがなかなか捗らず、輝元にも出陣を命じ、翌16年正月中旬、寒さの厳しい折にどうかとは思ったが、以上の者たちに出陣を命じ、ようやく肥後一国を平らげたのである。

 

 

時系列が前後したり、話題が尻切りになっていて理解しにくいところも多いが、おおむね肥後の諸勢力に対して秀吉は下線部のように本領安堵や新恩給与をするなど現実的で漸進的対応をしたが、その配慮を無視して成政が独断的にことを進めたと言っているようである。

 

地元諸勢力を秀吉はここで「国人」と呼んでいるが歴史学用語の「国衆」と読み替えた方がよさそうなので、当ブログの解釈もそれに倣った*26

 

ところで室町将軍家の直臣を列挙した「永禄六年諸役人付」に以下のように見える。

https://www.digital.archives.go.jp/acv/auto_conversion/conv/jp2jpeg?ID=M1000000000000051295&p=11

 

①外様衆 大名在国衆 国人と号す

 

御相伴 大友左衛門督入道宗麟 

御相伴 北条相模守氏康

御相伴 今川上総介氏実(真) 駿河

⑤武田大膳大夫入道晴信 法名徳栄軒信玄

御相伴 朝倉左衛門督義景

⑦北条左京大夫氏政

⑧上杉弾正少弼輝虎 越後長尾のことなり

⑨織田尾張守信長 尾張国 弾正忠に任ず

⑩嶋津陸奥守貴久

⑪(毛利)少輔太郎輝元*27

⑫吉川駿河守(元春)

⑬毛利陸奥守元就

⑭小早川左衛門佐隆景

 

 

今日我々が「戦国大名」と呼ぶ、一国以上を支配しかつ足利将軍家の直臣に当たる者たちを当時は「国人」と称していたようである。

 

彼ら「国人たち」の序列を見ると、③と⑦の親子である氏康と氏政、⑬と⑪の祖父と孫である元就と輝元、さらに⑫の吉川元春や⑭の小早川隆景がいずれも同列だった点や、、この3年前に桶狭間で敗死した今川義元の後を襲った氏真が「相伴衆」に列せられ、勝者である織田信長が列せられていない点は永禄6年前後の政治秩序を垣間見ることができ興味深い。ごく当たり前のことだが、同時代的認識として「信長による天下統一」という趨勢がこの時点で決定的になっていたわけではないのである。可能性としては独立的な地方勢力が並立しながら、ゆるやかな統一体をなすような歴史もありえたわけで、「統一」へまっしぐらに進んでいったというのは「想像の共同体」を至極当然とする今日的な先入観によるものかもしれないのだ。

 

Fig. 肥後国関係図

 

*1:後述するように本文書中の「国人」は「国衆」という学術用語に読み替えた方がよい

*2:城久基

*3:名和顕孝

*4:小代親泰

*5:刎頸を許され

*6:城主たちとともに家族も大坂に住まわせられ

*7:病、心配の種

*8:人質として大坂に連れて行かずに

*9:「在熊本」、成政の在城する熊本に住むように

*10:隈部親永

*11:未詳

*12:手抜かりがない

*13:本領

*14:新恩

*15:「本知」と同じ量だけ、本知新知あわせて二倍

*16:「取りかかる」には「着手する」と「攻めかかる」の意味があり、ここでは「成政が秀吉に断りなく検地に着手した」とも取れるが、「隈部親永を攻撃した」と解した

*17:隈部親泰

*18:肥後国山鹿

*19:並ぶ、そろって

*20:隆景

*21:政家

*22:宗茂

*23:

*24:輝元

*25:軍勢

*26:詳しくは黒田基樹『国衆』平凡社新書、2022年などを参照されたい

*27:「少輔太郎輝元」を名乗るのは永禄8年将軍義輝から偏諱を受けたときなので史料の成立年代が永禄8年を遡ることはない

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(3)

 

一、つくし*1御成敗、天正十五年、殿下被出(闕字)御馬、一へん*2ニ被仰付候刻、むつのかみ信長御時、武者の覚*3かいりき*4かましきと人の申成、殿下にも見およはせられ*5、つくしの内、肥後国よき国ニ候間、一国被仰付、兵粮・鉄炮の玉薬以下迄城〻へいれさせられ、普請等まて被仰付、陸奥ニ被下候事、

 

 

(書き下し文)

 

一、筑紫御成敗、天正十五年、殿下御馬出され、一遍に仰せ付けられ候刻、陸奥守信長御時、武者のおぼえ戒力がましきと人の申すなり、殿下にも見及ばせられ、筑紫のうち、肥後国よき国に候あいだ、一国仰せ付けられ、兵粮・鉄炮の玉薬以下まで城〻へ入れさせられ、普請などまで仰せ付けられ、陸奥に下され候こと、

 

(大意)

 

一、九州攻めの節、天正15年関白殿下みずから出陣なされ、九州を平定したときのことである。成政は信長家臣の時から武者としての誉れ高く、戒力ある人物と評判も高く、殿下もそれをお認めになった。それで九州のうち肥後がよい国だということで一国まるごとお与えになり、兵粮や玉薬を補給し、城の普請まで命じて成政にお与えになったこと。

 

 

九州平定後成政に肥後国を与えてやったのにこのざまだ、と言いたいのだろう。

*1:筑紫。筑紫国、筑前や筑後ではなく九州全体のこと。具体的には島津攻めを指す

*2:一遍。一空間的なまとまり全体。ここでは九州全域にわたって、の意

*3:評判、名声

*4:戒力。仏教の戒律を守ることで得られる不思議な力

*5:見及ぶ。目に入る、認識できる