日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

文禄2年閏9月晦日島津義弘宛安宅秀安書状を読む その3/止

一、琉渡*1之事、其外条〻被仰越候、万事御家続之儀も、又八郎殿御事相究、随其候て、いか様共可申上由候、時儀*2可御心安候、

一、此表何篇替事無之候、此便急以外急*3候間、自是追〻可申入候、本源右・休意、又八郎様御上京迄此方ニ留置、爰元之御仕合*4、具可被申入候、但、其内ニも急申入度子細候者、休意を可差下由候、拙者在京仕候、別而精を入申候、追〻可得御貴意候、恐惶謹言、

   閏九月晦日*5                 秀安(花押)

   義弘様

     参御報

 

(書き下し文)

一、琉渡のこと、そのほか条〻仰せ越され候、万事御家続の儀も、又八郎殿御事あい究め、それにしたがい候て、如何様とも申し上ぐべきよし候、時儀御心安ずべく候、

一、この表何篇替わることこれなく候、この便急ぎもってのほかに急ぎ候あいだ、これより追〻申し入るべく候、本源右・休意、又八郎様御上京までこの方に留め置き、ここもとの御仕合せ、つぶさに申し入らるべく候、ただし、そのうちにも急ぎ申し入れたき子細そうらわば、休意を差し下すべきよし候、拙者在京仕り候、べっして精を入れ申し候、追〻得御貴意をうべく候、恐惶謹言、

 

(大意)

 一、琉球との交易のことやそのほかのことも秀吉様が仰せになりました。島津家相続の件は忠恒殿にとお決めになったので、その通りにどのようにでも秀吉様へ申し上げるとのこと。情況は楽観的ですのでご安心ください。

 

一、こちらの様子は相変わらずです。この便りは急ぎに急いでしたためましたので、詳しくは後便にて申し上げます。本田親商・赤塚真賢は、忠恒様が入洛されるまでこちらに留め置き、こちらの事情を詳しく申し含めさせます。ただし、急ぎ申し入れたいことがあるので、赤塚を帰国させたいとのこと、私は京都におりますので、格別に努力します。謹んで申し上げました。

前回「罷上」を帰国と解したが、「駒井日記」閏9月8日条に石田三成増田長盛大谷吉継名護屋へ帰国したとの記事が見えるので問題なさそうだ*6

 

久保が戦地で病没したのちの跡目を「又八郎」=忠恒が継ぐことを秀吉はすぐには認めなかったようだ。

 

安宅の書状を読んでいると、なんだか気が滅入ってくるので今回で島津家関係史料はやめ、次回から心機一転別のものを読むことにする。

*1:琉球と交易すること

*2:情況、ここでは忠恒が久保の跡目を継げるか否かという情況

*3:「もってのほか」で「はなはだしいさま、ここでは「急ぎに急いで」の意

*4:事情

*5:文禄2年

*6:藤田恒春校注『増補駒井日記』4頁、文献出版、1992年

文禄2年閏9月晦日島津義弘宛安宅秀安書状を読む その2

一、治部少*1罷上刻、なこや*2ゟ薩摩へ以書状、又八郎様*3御供候て幸侃*4早〻可被罷上由、義久様并幸侃へ申越候間、定近日又八郎様可有御上洛候条、御上京次第、又一郎殿御跡目、又八郎様へ被仰付候様ニと、いかやう共/\精を入、御取合*5可申由被申候、別而肝煎*6被申候間、至治部少毛頭不被存疎意候、於其段者、聊不可有御気遣候、

一、又一郎様御死去之由、治部少太閤様へ申上候へハ、御幼少ゟ御存知之儀ニ候処、一段御不便*7之旨、重〻御懇ニ被仰候由、本源・休意ニも治部少申聞候、跡目之事、何共不被仰出候、勿論此方ゟ申上事も無之由候、又八郎様御上京次第、可達(闕字)上聞*8由候事、

 

(書き下し文)

一、治部少罷り上るきざみ、名護屋より薩摩へ書状をもって、又八郎様おとも候て幸侃早〻罷り上らるべきよし、義久様ならびに幸侃へ申し越し候あいだ、さだめて近日又八郎様御上洛あるべく候条、御上京次第、又一郎殿御跡目、又八郎様へ仰せ付けられ候ようにと、いかようともども精を入れ、御取り合い申すべきよし申され候、べっして肝煎申され候あいだ、治部少にいたり毛頭疎意に存ぜられず候、その段においては、いささかも御気遣いあるべからず候、

一、又一郎様御死去のよし、治部少太閤様へ申し上げそうらえば、御幼少より御存知の儀に候ところ、一段御不便の旨、重〻御懇ろに仰せられ候よし、本源・休意にも治部少申し聞け候、跡目のこと、なんとも仰せ出いだされず候、もちろん此方より申し上ぐこともこれなきよし候、又八郎様御上京次第、上聞に達すべきよし候こと、

 

(大意)

 一、三成が帰国した際、名護屋から薩摩へ書状にて、伊集院忠棟が忠恒様を急ぎお連れするようにと、島津義久様・忠棟へ申し伝えたところ、かならず近日中忠恒様が上洛されるとのことですので、上京し次第、久保殿の相続を忠恒様に秀吉様から仰せつかるようにと、色々と尽力し、取りなすと三成が申しておりました。格別にお世話していますので、三成とお会いになった時は少しも御遠慮なされませぬようにしてください。その点ご心配は無用です。

一、久保様がお亡くなりになったこと、三成から太閤様へ申し上げましたところ「幼少の時からよく見知っていたので実に不憫なことだと、重ね重ね丁重にお伝えするように」とのお言葉、本田親商・赤塚真賢へ三成から伝えられました。家督相続のことはまったく仰せになりませんでした。もちろん、三成が申すには「当方より上申するものでもありません」とのことです。また「忠恒様が上京され次第、太閤様へ申し上げます」とのことです。

 

参考のため島津家の系図を掲げておく。

 

Fig. 島津家系図

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久保亡き後忠恒(家久)が跡目を襲うことについて、秀吉はとくに言及することもなく、また三成も秀吉へ積極的に取り次ぐことはしなかったようだ。この後継者問題は長引くこととなる。

 

*1:石田三成

*2:肥前国松浦郡

*3:島津忠恒/家久

*4:伊集院忠棟

*5:取り上げること、取りなすこと

*6:双方のあいだを取り持って世話を焼くこと、斡旋すること

*7:

*8:天皇や主君に申し上げること、闕字とあいまって秀吉への敬意を表している

文禄2年閏9月晦日島津義弘宛安宅秀安書状を読む その1

(切封ウハ書)

「        安宅三郎兵

  義弘様       秀安

    参*1貴報*2         」

 

(切紙)

  猶以、本田源右・休意ゟ具可被申入候、以上、

七月廿二日之御札、本田源右*3当月朔日之御状、休意*4同事ニ、去廿七日、於京都参著*5、両人口上并御一書、具ニ承届候、則拙者在京仕候条、委治部少申聞候、弥直ニ治部少可承由申ニ付、右両人同道申、治部少面ニ被承候、さても/\又一*6様御事*7、中/\可申様無之候、御心底乍憚奉察候、我等式迄*8一入*9ニ御咲止*10、書面難申分*11候、

一、義久御隠居之段、いまた不被申上候、又一様如此之時者、于今不被申入事、御仕合*12ニ罷成候事、

 

 

            「島津家文書之四」1764号文書、230232

 

(書き下し文)

  なおもって、本田源右・休意よりつぶさに申し入ら

  るべく候、以上、

 

七月廿二日の御札、本田源右当月朔日の御状、休意同事に、去る廿七日、京都において参著し、両人口上ならびに御一書、つぶさに承り届け候、すなわち拙者在京つかまつり候条、くわしく治部少申し聞け候、いよいよじかに治部少承るべきよし申すにつき、右両人同道申し、治部少面に承られ候、さてもさても又一様御事、なかなか申すべき様これなく候、御心底はばかりながら察したてまつり候、我等式までひとしおに御咲止、書面申し分けがたく候、

一、義久御隠居の段、いまだ申し上げられず候、又一様かくのごとくの時は、今に申し入られざること、御仕合に罷り成り候こと、

 

(大意)

   追伸、本田親商、赤塚真賢からくわしく申し上げます

七月二十二日づけのあなた様からのお手紙、本田親商からの今月一日づけのお手紙ともに赤塚真賢が二十七日京都へ持参し、両名から口頭および文書にて、詳しくお話を承りました。当方が在京していたので、詳しく石田三成に報告しました。直接三成に申し上げたいというので、ふたりを連れて三成に面会させました。わたくしどもも大変残念に思います。書面にしたためる言葉も見つかりません。

一、義久隠居の件、いまだにご報告がありません。久保様がこのような事情ですから、いまだ報告がないのも当然の成り行きでしょう。

 

文禄2年の閏9月は「大の月」*13なので「晦日」は30日を指す。久保が没したのが9月8日のことなのでこの書状の日付はおよそ1ヶ月半後にあたる。

 

*1:マイル、脇付のひとつでもともとは「このお手紙を差し上げます」の意、現在の「机下」「侍史」にあたる

*2:返信

*3:親商、義弘家臣

*4:赤塚真賢、義弘家臣

*5:「著」は現在の「着」

*6:島津又一郎久保、文禄2年9月8日病死

*7:戦地にて病没したこと

*8:こちらの方まで

*9:ひときわ

*10:「笑」は「咲」の異体字、「笑止」=痛ましい、気の毒に思う

*11:「言い分く」の謙譲語、言葉を選ぶ、適切に説明する

*12:事の次第、巡り合わせ、不幸

*13:これに対し「小の月」は29日以下の月。閏9月は9月の次であることから「後九月」と表記することも珍しくない

文禄2年8月21日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その3/止

一、とニかくニ/\、能〻思案仕候へハ、此(闕字)御朱印之旨ニ被任、重而(闕字)御朱印被申請*1、右之寄破勘落分之知行、悉当所務*2被相押御取被成候*3御調*4、専一候、今度於其地*5治部少*6ニ其段不被仰候由、被任(闕字)此御朱印*7、急度/\御使者一人京都へ被差上、偏*8治部少被頼入*9、寄破勘落分、従当所務*10義弘父子可為蔵納*11旨、(闕字)御朱印御取可被成事、此一儀*12ニ相究候、中/\御思案も候ましく候、可然候給人共少〻納取候共、(闕字)御朱印於相調者、恣取もとし可申段安中*13ニ候、又一郎殿*14家督御請取候ても、今之分にてハ、京都之御家*15、大仏*16并ふしミの御普請*17、其上御在京ニ物入可申候間、迚御家つゝき*18候間敷候、御分前*19此時候、可得御意候、恐惶謹言、

                  安三郎兵 

   八月廿一日*20          秀安(花押)

   義弘様

   久保様

     参人〻御中

 

         「島津家文書之四」1758号文書、219~221頁

 

(書き下し文)

一、とにかくにとにかくに、よくよく思案仕りそうらえば、この御朱印の旨に任せられ、かさねて御朱印申し請けられ、右の棄破勘落分の知行、ことごとく当所務あい押さえられお取りなされ候おんととのい、専一に候、このたびその地において治部少にその段仰せられず候よし、この御朱印の旨に任せられ、きっときっと御使者一人京都へ差し上せられ、ひとえに治部少頼み入れられ、棄破勘落の分、当所務より義弘父子蔵納たるべきむね、御朱印お取りなさるべきこと、この一儀にあい究め候、なかなか御思案も候まじく候、しかるべく候給人ども少〻納め取り候とも、御朱印あいととのうにおいては、ほしきままに取り戻し申すべき段安中に候、又一郎殿御家督お請け取り候ても、今の分にては、京都の御家、大仏ならびに伏見のご普請、そのうえ御在京に物入り申すべく候あいだ、とても御家続き候まじく候、御分別この時に候、御意をうべく候、恐惶謹言、

(大意)

一、とにかくよくよく考えれば、秀吉様の御朱印の 趣旨にしたがい、今一度御朱印を下されるようにお願いし、以上の没収する予定の知行地は、すべて本年の年貢収納分を押さえ、徴収する準備だけを心がけてください。今回戦地で三成に再度朱印状をたまわるようお頼みになられなかったとのこと。急ぎ使者をひとり上洛させ、三成を仲介として、勘落分を義弘・久保父子の蔵入地とすべき旨の朱印状をお請けになる方法しかありません。じっくり考えている場合ではありません。軍役をつとめる家臣たちがすでに年貢を徴収していても、朱印状が用意できたなら、自由に取り上げる算段になっています。久保殿が家督を継がれても、今のままでは、京都の御屋敷、方広寺大仏や伏見城普請の費用はもちろん、在京時になにかと物入りでしょうから、とてもお家を守ることはできません。決めるのは今です。よろしくお考えください。謹んで申し上げました。

 

「とニかくニ/\」「急度/\」「中/\」という表現から安宅の苛立ちは相当なものだったことが読み取れる。ちなみに「中/\」は一文字の繰り返しなので踊り字は「〻」が正しい。それだけ感情の昂ぶりを抑えきれなかったのかもしれない。

 

家臣たちに与えた知行地や売却した直轄地、寺社領を「勘落」=没収するために、秀吉の朱印状を再発行するよう、三成を通じて願い出るよう勧めている。家臣たちがすでに年貢を徴収ずみであっても、それを島津氏へ納めることが可能であるという。その際の切り札が秀吉朱印状であるということだ。義弘・久保父子は戦地にいて国元には隠居している義久しかいない。義久ひとりでは陥落できないということなのだろうが、義弘らが留守にしているため家臣の統制が行き届かないということなのか、すでに隠居した義久にそのような権限がもはやないということなのかはっきりしない。いずれにしろ、秀吉の朱印状さえあれば、家臣たちが自身の知行地からすでに徴収ずみの年貢を島津家が没収=横取りできるという離れ業すら可能だと安宅は述べている。安宅の、秀吉権力への信頼は揺るぎないものであったようだ。ただ実際に、島津家の問題がそれで解決するかどうかはまた別の問題である。

 

安宅(むろん三成や秀吉も)は島津家家中の水平的=一揆的構造を中央集権的・垂直的構造に変えようとしているのだろう。しかし梅北国兼のように朝鮮出兵を拒否し蜂起する者もいたり、義久義弘兄弟のそれぞれの家臣たちが意見を異にしていたりするところから見るとその実現はなかなかむずかしそうだ。

*1:お願いして請け取る

*2:今年の年貢納入分

*3:差し押さえて徴収すること

*4:用意すること

*5:戦地

*6:石田三成

*7:「島津家文書之一、365~368号文書

*8:ひたすら

*9:あてにする、懇願する

*10:今年の年貢徴収分から

*11:蔵入地、直轄地

*12:朱印を請け取ること

*13:アンノウチ、計画通りになること

*14:久保

*15:京都の島津家屋敷

*16:方広寺

*17:伏見城普請

*18:続き

*19:「別」カ

*20:文禄2年

文禄2年8月21日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その2

一、右御朱印を被相背、知行配分候儀*1、恣*2之仕立、不可然候事、

一、国中百姓・出家・侍衆ニ銀子被相懸*3、御取候事、一段不可然候事

一、朝鮮へ出陣も不仕、或懸落*4仕、或者何之御用ニも不立もの*5ニ新知*6被遣候事、

一、恣勘落*7可仕旨、被成(闕字)御諚*8候処、だんぎしよ*9之寺*10へ者新知被遣候、一段不謂*11候事、

 

(書き下し文)

一、右御朱印をあい背かれ、知行配分候儀、ほしきままの仕立、しかるべからず候こと、

一、国中百姓・出家・侍衆に銀子をあい懸けられ、お取り候こと、一段しかるべからず候こと、

一、朝鮮へ出陣も仕らず、あるいは懸け落ち仕り、あるいは何の御用にも立たざる者に新知遣わされ候事、

一、ほしきままに勘落仕るべき旨、御諚なされ候ところ、談義所の寺へは新知遣わされ候、一段謂われなく候こと、

 

(大意)

 一、右の御朱印の趣旨に背き、家臣に知行地を配分することを、好き勝手に行うことはありえないことです。

一、領国中の百姓・出家・侍に銀子を課し、収納することは格別にけしからぬことです。

一、朝鮮へ出陣もせず、ある者は逃走し、また軍役を勤めることもしない者に新しく知行を与えたりすること(は言語道断のことです)。

一、自由に寺社領の土地を没収するよう秀吉様がお決めになったのに、一乗院に新しく知行を与えたことはまったく理解に苦しむところです。

島津家の仕置が遅々として進んでいない様子が読み取れる。安宅には島津家の態度が、朱印状を反故にしたり、秀吉の決定を蔑ろにしていると映ったようだ。むろん島津氏側が意図的に秀吉の命に背いていたか否かはこの文書からは当然知り得ない。ただ、5日前の書状で、島津義久と義弘の家臣間で意思疎通が図られていないことを安宅は責めていた。

 

重要な論点のひとつが、下線部である。島津氏は領国中の百姓、寺社、侍衆から銀を徴収しており、それを秀吉が咎めたわけだが、一地一作人の原則によらず賦課していることを咎めているのか、島津氏独自の徴収方法*12咎めているのかをここから読み取るのは難しい。

 

また出陣しなかったり、戦場から逃亡したり、まったく務めを果たせない家臣にも知行地を与えている。それだけ島津氏と家臣の関係がフラットなものだったのかもしれない。

*1:秀吉の命にしたがわずに家臣たちに知行地を与えること

*2:好き勝手に

*3:土地に対して懸けられるものか、人頭割や軒割なのか不明

*4:戦場から逃亡すること

*5:軍役をつとめられない家臣

*6:新しい知行地

*7:社領などの没収

*8:秀吉の決定

*9:談義所、説教などが定例として行われる寺

*10:一乗院、薩摩国川辺郡

*11:理由のない

*12:守護公権にもとづく一国平均役か