日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

文禄3年10月17日・同4年18月21日島津義弘宛豊臣秀吉知行方目録を読む

天正16年島津義久宛に与えられた在京賄料が、文禄3年、同4年に改めて義弘に与えられた。その記載例は以下の通りである。

 

     知行方目録

先高                  摂州豊嶋郡

一、千八百石                 栢野村

出米

  九拾壱石三斗四升             同村

(以下略)

                島津家文書之一 443号文書 434~436頁

 

下線部の「先高」は天正16年の知行充行の際の石高であり、「出米」は文禄3年に検地により新たに打ち出された石高である。その一覧を見てみよう。

 

Table.1 文禄3,4年の在京賄料  赤字は計算値

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Table.2 天正16年の在京賄料

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摂津国豊島郡栢野村のように「先高」に対して「出米」が5%程度の村から、同国能勢郡倉垣村のように127%に上る村までばらつきが多い。村ごとの比率をグラフにした。

 

Fig. 文禄3年 在京賄料 「先高」と「出米」の比率

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「先高」を超える「出米」が打ち出された村もいくつか見える。天正検地にくらべて文禄検地は相当厳密だったようだ。その原因として考えられるのは、①天正検地後新たに開発した田畠の検地帳への登録、②隠田の摘発、③従来の石盛の見直しなどであろう*1。その分村数は減らされたようである*2

*1:これらを知るには各村に残された検地帳を確認する必要がある

*2:table.2を参照されたい

文禄4年6月29日島津義弘宛豊臣秀吉知行方目録から知行分布図を作成する

文禄4年6月29日、石田三成らを奉行とする、日向・大隅・薩摩三国の太閤検地を施行後、島津義久・義弘らに知行目録が与えられた*1。なお、充所は義弘単独である。これを表にまとめた。

 

Table.1 文禄4年知行方目録帳

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                註:「計」は計算した合計石高で表記上の合計と130石強の誤差がある

 

島津義久・義弘直轄地がそれぞれ10万石、島津家の家臣に与えられた「給人領」26万7千石弱と寺社領3千石の合計46万7千石弱が島津家領国となる。

 

太閤蔵入地1万石の代官を務めるのが石田三成で、それとは別に三成に「私領」として6300石余が曽於郡内に与えられた。また、細川藤孝にも薩摩肝付郡内に3千石余が与えられている。

 

これを国郡単位に分けたのが次の表である。

Table.2 知行方目録国郡別分布

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大隅姶良郡内に太閤蔵入地と義弘直轄地が、曽於郡内に三成領と義久直轄地が、肝付郡内に藤孝領と義久直轄地が、始羅郡に藤孝領と伊集院忠棟領、そして日向諸県郡に義久直轄地と忠棟領が分布している。

 

これを地図上にプロットしたのが次の図である。

Fig.1 日向国諸県郡 国史大辞典」より作成

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Fig.2 大隅国 国史大辞典」より作成

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ただ、大隅国は郡域や名称に変遷が見られ、とくに「姶羅(アイラ)郡」と「始良(シラ)郡」のちの「姶良(アイラ)郡」は混同された*2。1095号知行方目録でも両者ともに「姶羅郡」とされている。

 

Fig.3 大隅国姶羅郡姶良郡  国史大辞典」より作成

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Fig.4 薩摩国 国史大辞典」より作成

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                   いずれも「国史大辞典」より作成

 

さらに郷村レベルでプロットした。

Fig.4 文禄4年日向・大隅薩摩国分分布

 

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地図が明治期のものなので、地名を拾いきれてはいない。ただ島津領国内に、太閤蔵入地や石田三成領、細川藤孝領が散在していたことは確認できる。さらに「給人領」27万石弱が加わるので一円的な領国とはいえないことはたしかである。

*1:「大日本古文書 島津家文書之二」1095号文書、386~394頁

*2:姶羅郡」『日本歴史地名大系』鹿児島県

天正16年7月5日島津義久宛/8月4日豊久宛/5日宛義弘豊臣秀吉知行目録を読む

秀吉は島津家へ天正15年和睦時に知行充行状を発給している。しかし具体的にどこの土地を与えたのかを記した知行目録は翌年まで待たねばならなかった。義久の在京賄料も同15年は米で与えていたが、16年には以下の村々をあてがっている。同様に豊久・義弘に日向国の知行目録も発給している。

 

<史料1>

    知行方目録

               摂州能勢郡

一、五百四拾弐石七斗        木代村

               同

一、五百四拾弐石七斗        切畑村

               同

一、四百弐拾壱石七斗四升      与野村

(一つ書き16ヶ条中略)

   都合壱万石

  天正拾六年七月五日(秀吉朱印)

       島津修理大夫入道とのへ*1

                 『豊臣秀吉文書集 三』 2542号文書、245~246頁

 

<史料2>

    知行方目録

一、参百町            都於郡院

一、八拾町            三納

一、八拾町            砂土原

 (一つ書き14ヶ条中略)

合九百七拾九町

天正十六年八月四日(秀吉朱印)

        島津又七郎とのへ*2

            『豊臣秀吉文書集 三』 2577号文書、262~267頁

 

<史料3>

   日向国知行方目録

        日向国諸県郡

一、五百五拾町    真幸院

        同

一、九拾町      救任院

        同

一、百六十町     救任郷

(一つ書き14ヶ条中略)

      都合千四百四町

  天正拾六年八月五日(秀吉朱印)

         羽柴薩摩侍従とのへ*3

 

              『豊臣秀吉文書集 三』2585号文書、267頁

 

義久の在京賄料、豊久・義弘の日向の知行地の分布を示しておこう。

 

Fig.1 義久在京賄料   国史大辞典」より作成

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Fig.2 天正16年豊久・義弘の日向国内の知行地 「日本歴史地名大系」宮崎県より作成

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                出典:2577~9、2581、2585号文書

 

 Table. 日向国知行面積割合

日向国知行割合  
領主 面積(単位:町) 比率
島津豊久 979.0 14.6
高橋元種 1687.0 25.2
秋月種長 898.9 13.4
伊東祐兵 1736.0 25.9
島津義弘 1404.0 20.9
  6704.9 100.0

ただし日向国全体の面積は不明なため、これだけで義久が誰かを通じて領土交渉をしていた報酬三分の一=金100枚にあたる「成功」目標に達していたかどうか判断できない。なお、秋月は島津方、高橋・伊東は豊臣方についていた。

 

史料1と2・3を比較すると次の2点が指摘できる。

 

1.史料1が石高表示なのにくらべて、2・3は面積表示である。

 

2.史料1の石高表示が「升」まで記載されているのに対して、2・3は町単位がほとんどである。

 

3.ここで使われている「町」が1反=360歩の10倍か、1反=300歩の10倍かがはっきりとしないものの、おそらく前者であろうと思われる。ちなみに肥後で佐々成政が発給した知行充行状には「段」の下に「丈」=「杖」*4が見られる*5

 

以上のことから、天正15年に秀吉と島津氏が和睦したのちも、日向・大隅・薩摩で本格的な検地は行われなかったようである。ただ、軍事的な障害となる「城」の破却は行っており、九州の状況をそのまま温存したわけではない*6。同年9月肥後国人一揆が起き、その鎮圧は翌年閏5月までと長期化していた。つまり在地には中世的な勢力が根づいていたわけで、検地は梅北国兼の蜂起を鎮めた天正20年以降となる。

*1:義久

*2:豊久

*3:義弘

*4:五分の一段=72歩

*5:天正15年10月1日山之上三名中宛佐々成政知行加増判物写「熊本県史料」中世篇2巻、田尻文書19号、648~9頁

*6:5月13日付2185~2187号文書に「豊前国の儀もいらざる城は割り、豊後と豊前のあいだに城ひとつ」と見える

慶長5年7月17日立花宗茂宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署副状写を読む

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この映像に次のようなナレーションが流れる。

<ナレーション>


この地(佐和山)で家康打倒の密談を行い、その罪を列挙した書状を諸大名に送ります

 

 しかし「罪を列挙した書状」そのものでなく、上記の文書を持ち出すのはやや不親切であろう。

 

まず、この文書を読んでみる。

(小切紙か)

急度申入候今度景勝発向*1之儀
内府公上巻之誓帋*2并被背(平出)
太閤様御置目秀頼様被見捨出馬候間
各申談及鉾楯*3内府公御違之条候
別帋*4ニ相見候此旨尤と思召(平出)
太閤様不被相忘御恩賞候者(平出)
秀頼様へ可有御忠節候恐惶謹言
          長束
   七月十七日   正家
 柳川侍従殿*5   増右
     人〻御中  長盛
          徳善
           玄以

(書き下し文)

きっと申し入り候、今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙ならびに、太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候あいだ、おのおの申し談じ、鉾楯に及び候、内府公御違の条候、別紙にあい見え候、この旨もっともと思し召し、太閤様御恩賞をあい忘れられず候わば、秀頼様へ御忠節あるべく候、恐惶謹言、 

(大意)

必ず申し上げます。このたびの会津攻めは、家康公が五大老五奉行連署した誓紙および太閤様のご遺言に背き、秀頼様を見捨てられ、出馬したので、われらで相談し、合戦に及ぶとの結論にいたりました。家康公が約束を違えたことは別紙にあるとおりです。この趣旨にご賛同くだされ、太閤様の御恩を忘れられないのでしたら、秀頼様へ御忠節を尽くしてください。謹んで申し上げました。

 

この文書は副状*6である。ではどの文書の副状か、下線部にあるとおり同じ日付で発せられた「内府ちがひの条〻」である。「条〻」とこの副状が一組で「筑紫古文書」に写し取られている。「大日本総合史料データベース」の同日の条を見ると、前田利長、筑紫広門、堀尾吉晴島津義弘あての文書が採録されている*7

 

また「義演准后日記」*8翌々19日条に「十三ヶ条数*9、流布し、一見しおわんぬ」とあり、「内府ちがいの条〻」が主役であることを物語っている。

 

「我々は相談し、家康との戦いに及ぶこととした」と解説するが、それでは単に私戦を企てることになり、豊臣政権の後継者を名乗ることができなくなる。その蜂起の正統性を示すのが「内府公御違之条候別帋」であり、副状であるこの文書を単独で扱うのは適切な取り扱いとはいえない。そもそも秀吉の「惣無事」を認める立場なら、自分たちの戦いが「公儀」であることを明らかにしなければならない。2通1組で解釈すべき所以である。

 

ただ「内府ちがひの条〻」の本文を扱うさい「五人之御奉行」*10「五人之年寄」*11の意味を丁寧に説明する必要があるので止むを得ないともいえる。

 

 

まとめておこう。

1.この文書を副状であることを踏まえずに解釈するのは危険である。

 

2.諸大名に檄を飛ばす以上は公儀の戦であることを示さなければ正統性は得られない。そこで「内府ちがひの条〻」の添状であることの意味が重要になってくる。

 

3.しかし、「内府ちがひの条〻」の解説は注意を要するため、こうしたナイーブな説明に傾くのももっともかもしれない。

 

 

*1:軍勢をもって攻め入ること、会津攻め

*2:誓紙、慶長3年9月3日五大老五奉行連署起請文、たとえば浅野家文書106号

*3:ホコタテ、合戦

*4:別紙、内府公御違之条

*5:立花宗茂

*6:一般には高貴な人の意を奉って文書を作成した右筆などが、別にその文書に副えて、それを発給したことを伝える書状形式の文書をいう。しかしこの文書の場合差出人は同じであり、本状を要約したものであるという点で異なる

*7:画像表示 - SHIPS Image Viewer

*8:義演は醍醐寺の第80代座主

*9:箇条書きにした文書

*10:いわゆる「五大老

*11:いわゆる「五奉行

天正15年5月9日島津義久宛/同25日義弘宛・久保宛豊臣秀吉朱印状を読む

<史料1>

日本六十余州之儀、改可進止*1之旨被(闕字)仰出之条、不残申付候、然而九州国分*2儀、去年相計処、背御下知*3、依猥所行*4、為御誅罰、今度関白殿*5至薩州被成御動座、既可被討果刻、義久捨一命走入間、御赦免候、然上薩摩一国被宛行訖、全令領知、自今以後相守(闕字)叡慮*6、可抽忠功事専一候也、

  天正十五年五月九日 (秀吉花押)

         島津修理大夫とのへ*7

            

                  『豊臣秀吉文書集 三』2183号文書、120頁

 

(書き下し文)

日本六十余州の儀、改めて進止すべきの旨仰せ出ださるの条、のこらず申し付け候、然りて九州国分の儀、去る年あい計るところ、御下知に背き、猥りの所行により、御誅罰のため、このたび関白殿薩州に至り御動座なられ、既に討ち果たさるべききざみ、義久一命を捨て走り入るあいだ、御赦免候、しかる上薩摩一国宛て行われおわんぬ、まったく領知せしめ、自今以後叡慮をあい守り、忠功を抽くべきこと専一に候なり、

 

日本全国の土地および人民はすべて秀吉の支配下にあると宣言した上で、天皇の命を受ける形で九州の国分けを行うとの下知を下した。その秀吉の命に不満だった島津氏は抵抗したものの、結局降伏し、義久に薩摩一国が安堵された。また在京賄料として上方に1万石を与えている*8

 

<史料2>

今度九州事被成御改替*9為新御恩地、大隅国被宛行之畢、全令領知、自今以後可忠勤、但肝付一郡*10儀、対伊集院右衛門大夫*11被遣之旨、従最前被仰出之条、速可引渡者也、

  天正十五

    五月廿五日(秀吉朱印)

       島津兵庫頭*12とのへ

 

            豊臣秀吉文書集 三』2202号文書、130頁

 

(書き下し文)

このたび九州のことお改め替えなられ、新御恩地として、大隅国これを宛て行なわれおわんぬ、まったく領知せしめ、自今以後忠勤すべし、ただし肝付一郡の儀、対伊集院右衛門大夫に対して遣わさるの旨、最前より仰せ出さるの条、速やかに引き渡すべきものなり、

 

義久に花押を使用しているのに対して、義弘には朱印を据えているところが目につく。義弘には「新恩」として肝属郡を除く大隅一国を与えている。なお下図を参照されたい。

 

Fig.1  大隅国肝属郡関係図 国史大辞典」より作成

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<史料3>

日向国真幸院付一郡之事、被宛行訖、全令領知、向後可抽奉公忠懃候也、

    天正拾五

      五月廿五日(秀吉朱印)

        島津又一郎*13とのへ

 

              『豊臣秀吉文書集 三』2203号文書、130頁

久保宛も朱印である。 「真幸院」は日向国諸縣郡の西部を指す。ただし、義久は日向一国を欲していたようで、交渉相手は不明なものの成功報酬の条件を日向一国=金子200枚、半国=150枚、三分の一=100枚と三通り提示している*14

 

Fig.2 日向国関係図   国史大辞典」より作成

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参考のため、薩摩国の地図も掲載しておく。

 

Fig.3 薩摩国関係図  国史大辞典」より作成

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以上のように、天正15年の九州攻めにおいて秀吉に降伏した島津義久、義弘、久保はそれぞれ知行を安堵された。ただし、義弘へは「新恩」つまりいったん秀吉が没収した上で改めて充行うという形式を踏んでいる。秀吉は一円知行を原則としていたが、島津氏には妥協的な対応をしたようである。

 

ところで、翌天正16年には知行目録を発している。これについては次回にしたい。

*1:土地、財産、人を支配すること

*2:大名間の領知を裁定すること

*3:秀吉の命

*4:秀吉の命に背いた島津家の行動

*5:秀吉

*6:天皇の意思

*7:義久

*8:同年10月14日義久宛朱印状、2354号文書、178頁。ただし「所付の儀は来春仰せ付けらるべく候、当年は物成半納分、八木(=米)五千石下され候」とあり、領知ではなく米をもって宛行っている。翌年7月5日摂津・播磨19ヶ村の知行目録を発している=2541~42号文書

*9:改易

*10:大隅国肝属

*11:忠棟

*12:島津義弘

*13:島津久保

*14:天正15年6月11日某宛島津義久条々『大日本古文書 島津家文書之三』1439号文書、247~8頁